【東京都小平市】「小平」の地名由来~東京北多摩の歴史散歩~


【東京都小平市】「小平」の地名由来~東京北多摩の歴史散歩~

小平市「小平」の地名由来は1889年の7村合併の際に当時の中心であった小川村の小と周辺地域が武蔵野台地上にあり平らな土地であったことから小平の名がつけられたと言われています。

1871年廃藩置県施行の際、小平は神奈川県神奈川県多摩郡でしたが、1893年神奈川県から東京府へ移管されたそうです(^^)

 

 

「小平」の地名由来

 

「小平」の名前は、初めて開拓されたところが「小」川村であり、また地形が「平」坦だったところから、名付けられたということです。

小平という地名が誕生したのは明治22年4月に小平村が成立した時です。

 

当時存在した7村を合併して「小平村」としました。

その後、昭和19年2月11日に小平町となり、昭和37年10月1日に8字あった地区名から現在も使用している33町名へ変更して小平市となりました。

 

 

 

小平の歴史

 

小平は昔から武蔵野台地でも水利に乏しい地域で、考古遺跡は旧石器時代の鈴木遺跡や、奈良時代から平安時代の竪穴住居跡が見られる八小遺跡がわずかに分布しているのみでした。

律令制下では武蔵国多摩郡に属し、官道である東山道武蔵路が、中世には鎌倉街道上道の道筋が南北に通過していますが、近世まで安定的定住は困難であったと考えられています。

1590年に徳川家康が江戸に入植したのを機に江戸城築城のための資材を運ぶ運搬路が多く整備され、青梅から江戸までを繋ぐ青梅街道も整備されます。

承応元年11月(1652年)水不足解消のため老中の松平信綱によって上水の開削が計画され、翌年、1653年から工事が開始され、1654年に玉川上水が完成。

周辺地域の水問題解消を経て、1657年から小川村として開拓し、青梅街道に沿って小川用水を整備し小川新田として新田を開発。

その後小川村を中心に諸村が形成され、青梅街道沿いに小川宿が設置されます。

武蔵野の新田村として成り立ってきた7つの村が、明治22年4月1日に市制・町村制の施行により合併され「小平村」となりました。

村名は、この地域が「平」な地形で小川が最初の開拓村であることから、「小」をとって「小平」としたという古老の話が残っています。

東京市の目覚ましい発展に伴って交通もしだいに便利になっていきました。

明治22年には、甲武鉄道(現・JR中央線)新宿.立川間が開通。

 

明治27年には川越鉄道(現・西武国分寺線)国分寺.東村山間が開通し、小平に初めて小川駅ができました。

昭和2年西武鉄道(現・西武新宿線)高田馬場.東村山間が開通。

 

昭和3年には多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)国分寺.萩山間と萩山.本小平(小平駅の南西隣にあった)間が開通し、人の往来が容易になりました。

大正10年ごろから、土地会社による大学を中心とした学園都市を造る計画が進められ、関東大震災後に小平学園60万坪(198ヘクタール)の買収が始められ、住宅地域へ変わっていくきっかけとなりました。

その後、女子英学塾(現・津田塾大学)、東京商科大学予科(現・一橋大学小平国際キャンパス)、農林省獣疫調査所小平分室(現・独立行政法人動物衛生研究所)などの公共施設が設けられました。

昭和15年以降になると傷痍軍人武蔵療養所、東部国民勤労訓練所、陸軍経理学校、陸軍技術研究所、陸軍兵器補給廠小平分廠などの軍用施設が設置され、勤める人の住宅も建てられました。

終戦も間近い昭和19年2月11日に「小平町」となりました。

 

昭和20年8月15日、太平洋戦争が終結した後、小平は農村から脱皮し、大きく変わりました。

東京区部の住宅難に伴う人口の流入と、都営住宅の建設や一般住宅の増加が著しく、また工場の誘致によって、小平もだんだんと都市化しました。

 

住民の福利増進と、将来における小平の発展と繁栄を図るため、市制施行を決意し、昭和 37年10月1日、全国で558番目、東京都で11番目の「市」として誕生しました。

 

 

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