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「立川」地名の由来は複数あります。
一つの説では武蔵国府の府中宿付近より見て、東西に連なる山を多摩の横山と呼び、その多摩の横山から見て多摩川が縦方向(南北)に流れている近辺を「立の河」と呼んでいました。
この立の河が次第に変化して現在の立川になったと言われているそうです(^^)
立川市の由来は中世以降旧柴崎村の一帯が「立川郷」と呼べれていたためです。
「立川郷」はどうしてつけられたのかというと諸説あるそうです。
どれもそれなりに説得力はあるものの、確かなことはわからないようです。
立川市には全部で16の「町名」があり、その中には立川市の歴史と深くかかわるものもあります。
①国府(当時武蔵野国府は府中にあった)の前を東西方向に流れる多摩川を日の経(たて)の川と呼んだとすることに由来する、たてかわ説。
これは府中から見て東西に連なる「多摩の横山」と呼ばれていた現在でいうところの多摩丘陵に対して多摩川が縦(南北)に流れている立川付近を「立の河」と呼んでいたものが「立河」→立川となったとするものです。
②立川氏が居住していたことに由来する立川氏説。
立川氏は武蔵七党のひとつとされる西党に属した地方豪族の事で次の「館川説」の根拠となった普済寺はその居城があったとされる場所に後年建立されたものとされます。
③普済寺に館(たち)があったことに由来する、館(たち)川説
④多摩川の早い瀬に由来する湍川(たぎちかわ)説
⑤経(たて)の川は東にある川であるとする東の川説
以上5つの説があります。
立川の最初の住民は今から10,000年以上も前に黒曜石などの石器を使い狩猟生活を営んでいたようです。
砂川地区を中心に槍の先に用いられたであろう石器などが発見されています。
殿ヶ谷神殿遺跡や松中ツ原遺跡など五日市街道に沿うようにして幾つも見つかっています。
弥生時代(約2,300年前)になると、本格的に稲作がはじまりますが、現在のところ、市内からは弥生時代の遺跡が発見されていないため、詳しいことはわかっていません。
狩猟・採集の生活をしていたようです。
立川市内では柴崎町四丁目の大和田遺跡や錦町4丁目から羽衣町3丁目にかけての向郷遺跡で縄文時代中期(約5000年~4000年前)の大規模な集落が発見されています。
古墳時代後期(約1,400年前)になると、円墳とよばれる古墳(お墓)がつくられるようになりました。
柴崎町4丁目にある沢稲荷もそのひとつです。
奈良時代~平安時代(約1,300年~約830年前)の遺跡は下大和田遺跡(柴崎町)、台の下遺跡(富士見町)が知られています。
下大和田遺跡からは、市内では珍しい掘立柱建物跡が発見されました。
弘仁2年(西暦811年)には諏訪神社(柴崎町1丁目)がつくられ、村の形が整ってきました。
鎌倉時代には、武士が力を持ち始めた時代で、市内でも立川氏という武士が領地を持っていたことがわかっています。
建長4年(西暦1252年)には立川氏の氏神として八幡神社(柴崎町1丁目)が建てられました。
普済寺(柴崎町4丁目)の境内は立川氏の館跡と伝えられています。
安土桃山時代(約440年~約410年前)、戦国大名の北条氏は、最後まで豊臣秀吉に抵抗していたため、天正18年(西暦1590年)、秀吉によって攻め滅ぼされてしまいます。
この時、立川氏は北条氏の配下となっていたため、領地を失って浪人となりました。
その後、関東地方に徳川家康が入国し、慶長8年(西暦1603年)に江戸幕府が開かれました。
立川市の大部分は幕府の天領(直かつ地)に組み込まれ、人びとは農業をおもな産業として暮らしていました。
西暦1630年ころになると、新田開発によって市北部地域に集落(砂川新田)が開かれました。
承応3年(西暦1654年)には玉川上水が引かれました。
その後、砂川新田は五日市街道に沿って東西に広がっていきました。
明治時代を迎えると、立川は急速に近代化します。
大正11年(1922)には立川飛行場(現国営昭和記念公園)が開設され、村は大きく発展しました。
人口を大きく増やした立川村は大正12年(1923)町制を施行して立川町となるのです。
その一方で、軍事施設の数も多く、太平洋戦争では空襲を受け、多くの被害を出す事になるのです。
戦後、立川飛行場はアメリカ軍の基地となり、昭和52年に返還されるまでは、「基地のまち」と呼ばれました。
平成の時代になると、多摩モノレールの開通とともに立川駅南口の開発もすすみ、商業都市としてますます発展しています。