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調布市の「調布」という地名の由来の一つ。
昔の税金である租庸調の調(その土地の特産物を納める)を「布」で納めていたことに由来すると言われています。
そのため、調布市内には布田(ふだ)、染地(そめち)など布にかかわる地名が存在するとも言われているそうです(^^)
古代、高句麗(こうくり)などからの渡来人によってアサが栽培され、多摩川の水にさらして布を織り、調(税)として朝廷に出したことが地名の由来と言われています。
古代律令制の三種類の税で、各地の特産物の「調」として布を納めていたことから「調布」という言葉が生まれたそうです。
しかしながら、1889年(明治二十二年)に調布町ができるまで地名の調布は確認されておらず、税の名称と地名の由来は別物という説もあります。
ただ、「多摩川」と「布」との関連性は、万葉集の和歌から来ている、という説もあります。
「多摩川に さらすてづくり さらさらに 何そこの児(こ)の ここだ愛(かな)しき」。(万葉集:読み人知らず)
万葉集では、多摩川にさらした手織りの布のようなかわいい女児を詠み、さらには江戸後期の浮世絵師歌川国芳の美人画「武蔵国調布の玉川」にも、女性が多摩川に布をさらす様子が描かれています。
この多摩川近辺のこの地域と「布」との関係性は、今だはっきりしませんが、万葉集を出発点に、浮世絵師ら後世の人々がイメージを作り上げたという説もあるようです。
広大な武蔵野台地の南縁に位置する調布市の地形は、多摩川によって形成された2つの段丘と沖積低地からなっています。
段丘と段丘、段丘と低地の境には急な崖があり、古くから「はけ」と呼ばれています。
そしてこの「はけ」から湧き出す水や、そこからの流れに沿って、はるか昔から人々の暮らしが営まれてきました。
調布市の縄文時代の遺跡は、飛田給・下布田・東原など、やはり湧き水の得られる「はけ上」に分布しています。
多摩川の流域では4世紀に入ると古墳が造られ始め、市内でも5から7世紀にかけて造られた飛田給・下石原・上布田・下布田・国領南などの古墳群が知られています。
また、各遺跡からは、この時代の住居跡や掘立柱建物跡などがみつかっています。
武士の時代となった鎌倉時代以降は、多摩川とその周辺が度々合戦の舞台になりました。
国の史跡深大寺城跡も戦国時代の遺産で、文献によれば深大寺城は扇谷上杉氏が小田原の北条氏に対抗するために再興したものとされています。
また、布多天神社には秀吉が小田原攻めに際して乱暴狼藉を禁止した「太閤の制札」が残っています。
江戸に幕府を開いた徳川家康は、全国の交通網を整え、江戸と諏訪を結ぶ甲州街道を重要路線として整備しました。
調布市内では、国領・下布田・上布田・下石原・上石原が宿場となり、「布田五宿」として宿場のつとめを交替で果たしました。
この宿場は長さ3キロメートル余り、街道沿いにまち並みができました。
しかし、旅籠は幕末の天保14年ごろでも9軒しかなく、宿継ぎ中心の宿場でした。
江戸時代、調布市域の村は18か村を数えましたが、その大部分は天領(幕府の直轄地)と旗本領でした。
天保5年には、上石原の農家宮川家で、後に幕末動乱の京都で新選組局長として討幕派と戦い一躍名を高めた近藤勇が生まれています。
明治維新の後、調布市域は品川県・入間県・神奈川県などと目まぐるしく変わり、東京府に属するようになったのは、明治26年のことでした。
この間、明治22年には、市制・町村制が施行され、調布町と神代村が発足しました。
大正2年、京王電気軌道(京王線)の笹塚から調布間が開通しました。
大正4年には新宿から調布間、その翌年には調布から多摩川原間、調布から飛田給・府中と路線を伸ばしていきました。
昭和の初めには、京王閣や日活撮影所などの近代的な建物に続いて商店や料亭などが続々とできました。
昭和6年には、甲州街道が舗装され、昭和10年には稲城村と調布町を結ぶ多摩川原橋が架橋され、産業開発と交通の発展に大きく寄与しました。
昭和30年、調布町と神代町が合併し、人口4万5090人、1万391世帯の「調布市」が誕生しました。
昭和39年の東京オリンピックでは、甲州街道がマラソンコースとなり、飛田給が折り返し地点になりました。