【東京都狛江市】「狛江」の地名由来~東京北多摩の歴史散歩~

狛江市の「狛江」の地名の由来の一つ。

朝鮮半島から渡来した「高麗の人が住む入り江」から「狛江」になったという説もあるそうです。

また、他の説では、百済国王が高麗人を日本に帰化させた地で「狛(高麗)の里」と呼ばれていたことを由来として「狛江」となったという説もあるそうです。

 

 

「狛江」の地名由来

 

狛江の由来は諸説ありますが、7世紀に朝鮮半島で百済や高句麗が倒れて海を渡ってきた人々が帰化人として武蔵国に移り住んだことが、日本書紀などに書かれており、高麗人の居たところの「高麗居」が「駒井」となったという説がよく言われています。

狛江の地名が文献に現れるのは、平安時代のはじめです。

承平5年(935)ころ源順によってかかれたといわれる「和名類聚抄」に登場する「武蔵国狛江郷」は、現在の調布市、三鷹市や武蔵野市の一部をも含めた地域として載せられています。

 

 

狛江市の歴史

 

弁財天池周辺の弁財天池遺跡からは、縄文時代以降の住居跡が多く発見され、人々の生活の痕跡が色濃く見られます。

例えば、縄文時代の落とし穴の遺構が発見されていますが、これは、水を求めに来た動物を捕まえるためのものと考えられます。

 

また、狛江駅北口の開発工事にともなう発掘調査では、縄文時代の敷石住居という珍しい住居跡が発見されました。

さらに、弥生時代の方形周溝墓、古墳時代の古墳の周溝が発見されています。

方形周溝墓は一辺が18メートルもある大きなもので、弥生時代の狛江に、地域における指導的な立場の人物がいたことをうかがわせます。

古墳が多いことから、「狛江百塚」と呼ばれます。

 

かつては70基前後が群集していたとも言われています。

ほとんどが径10~40mの中小型古墳で、古代豪族の墳墓だとも言われているそうです

ただし、現在、市内で確認できる古墳は13基になってしまいました。

古墳時代は、3世紀の終わり頃から7世紀の初め頃までの約450年間を指しますが、狛江の古墳の多くは、5世紀半ばから6世紀半ばの約100年間に集中して造られました。

 

古墳の形は、円墳がほとんどですが、亀塚古墳は帆立貝形の前方後円墳でした。

狛江への古墳築造の文化の伝播に、渡来人がかかわっていたともいわれますが、伝播の流れは定かではありません。

古墳築造の文化は、畿内から北武蔵を経由して南武蔵へ伝播し、多摩川をさかのぼるようにして広まったものと考えられます。

室町時代には、吉良氏が世田谷に領地を持ち、狛江もその影響下にあったと考えられます。

 

さらに、戦国時代になり北条氏が小田原を拠点として関東に勢力を拡大すると、北条氏の影響も受けます。

北条氏が家臣に与えた領地を書上げた『小田原衆所領役帳』という史料には、「多波(多摩)川北駒井本郷」や「駒井登戸」、「駒井宿河原」と記され、「駒井」という狛江の地名が確認できます。

現在の市域は、江戸時代の和泉村、猪方村、岩戸村、覚東村、小足立村、駒井村の六か村にほぼ該当します。

狛江は江戸時代を通して畑地の多い農村であり、慶長14年(1609)に開削された灌漑用水路である六郷用水、昔の野川、弁財天池から流れる清水川等が重要な水源でした。

 

和泉村は三給支配といって、彦根井伊家、旗本石谷家、旗本松下家の三家が一か村を三分割して所領としていました。

明治政府は、明治2年(1869)の版籍奉還、明治4年の廃藩置県によって中央集権国家へ向けて動き出し、地方行政の改革も進めていきました。

廃藩置県後、狛江は神奈川県に属し、大区小区制という地方制度により神奈川県第10大区第10小区となりました。

明治11年(1878)の郡区町村編成法により県と各村を結ぶ郡が設置されると、狛江は神奈川県北多摩郡に属しました(後に、北多摩郡は東京府へ移管されます)。

 

そして、明治22年(1889)の町村制の施行によって、狛江の六か村が合併し、狛江市の前身となる狛江村が誕生しました。

明治時代以降も、狛江村は畑地の多い農村であり、米や麦の他に果樹蔬菜の栽培、養蚕、また多摩川での漁業が副業でした。