武蔵村山市。
「村山」の語源は狭山丘陵の峰々を指した「群山(むれやま)」が語源と言われ、平安時代末期の武士団「村山党」が、「村山」という名を始めて用いたと言われています。
昭和45年市制施行時「村山市」は山形県にもあったため、武蔵野の「武蔵」を冠して「武蔵村山市」となったそうです(^^)
「武蔵村山」の地名由来
武蔵野台地の西辺は、古くから村山郷と呼ばれていました。
「村山」という地名の起こりは、狭山丘陵の峰々を指した「群山(むれやま)」が訛って「村山」になったといわれています。
「村山」の名前が初めて歴史に刻まれたのは、平安時代末期に登場した武蔵七党のひとつ、村山党でした。
この村山党は、狭山丘陵の生産力を背景にした武士団で、「村山三里」という丘陵の南側が地形的に守りやすいことから、この地に根を張ったといわれています。
村山の各村は、明治22年に中藤村ほか3か村組合として発足しました。
以後、幾多の変遷を経て、大正6年4月1日、各村は合併してひとつの村となり、中世の村山党の名にちなみ、「村山村」と命名しました。
そして昭和29年11月3日町制が施行され、さらに昭和45年11月3日には市制が施行され現在に至っています。
この時、市名は「村山市」となるはずでしたが、山形県に同名の市があったため、緑豊かな武蔵野の「武蔵」を冠して「武蔵村山市」となりました。
武蔵村山の歴史
武蔵村山市の歴史は、狭山丘陵を発祥の地として、数万年前の旧石器時代にさかのぼって始まります。
狭山丘陵は、きれいな水が豊かにあり、飲み水には困らずに自然に恵まれた環境の中で生活していました。
狭山丘陵の南斜面の土地からは、土器や石器が発見されています。
そして、これらの遺物は、縄文時代から弥生時代を経て奈良時代の住居蹟へとつづいています。
平安時代に、「村山七党」といわれる武士団のひとつの「村山党」が、住み着きました。
慶長8年(1603年)、徳川家康が、江戸に幕府を開き、江戸は日本の政治の中心になりました。
江戸時代の武蔵村山は、中藤村、横田村、三ツ木村、岸村の4つが幕府や旗本に支配されていました。
人々のほとんどは農業をいとなみ、粟、ひえ、麦を中心とした農作物の生産によって生計をたてていましたが、水田が少ないため、幕府におさめる年貢の米がなく、養蚕は江戸時代のなかごろから、年々さかんになっていきました。
農業の開発がさかんになってくると、古くから住み慣れた土地を離れて新しい土地を開墾し、村をつくっていきました。
明治政府のもとでは、村山は韮山県という県に属し、そののち神奈川県に変わり、明治26年に東京府はいりました。
また、それより前の明治22年には村山の各村は、中藤村ほか3ヶ村組合として発足しました。
大正時代にはいると、村々を合併しようという動きが大きくなり大正6年4月1日、ひとつの村になり「村山党」の名前にちなんで「村山村」と命名されました。
このころには、村山貯水池(多摩湖)の工事がはじまり、電灯もつき、立川からのバスも開通していました。
また、伝統工芸である村山大島紬もたいへんにさかんになり、家々から機織りの音が絶え間なく聞こえていました。
太平洋戦争を契機として、昭和13年4月、現在の湖南衛生組合の一帯に「東京陸軍少年飛行兵学校」が開校し、多摩飛行場(現在の横田基地)、東部78部隊(現在の国立療養所村山病院)など、軍の施設が次々とつくられました。
これらの軍の施設と都民の飲み水である村山貯水池(多摩湖)はアメリカ軍の爆撃の目標となり、大きな被害を受けました。
やがて、太平洋戦争が敗戦に終わってからは、村山村も産業、経済、文化にめざましい発展をとげ、昭和29年11月3日に「村山町」になりました。
さらに、昭和45年11月3日には市制が施行され、「武蔵村山市」になりました。
その後、日産自動車村山工場をはじめ、たくさんの工場が作られました。
また、住宅も三ツ藤住宅や都営村山団地などの造成によって、人口も一挙にふくれあがりました。
そして、「農業と織物のまち」から「ベッドタウン」に変化したのです。