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府中市「是政」。
東京競馬場の南側から多摩川にかけての地名「是政」は、井田是政という人名に由来していると言われています。
井田是政は戦国時代に北条氏に仕えた武士で、豊臣秀吉の小田原攻めで主家が滅びた後、戦乱で荒れ果てていたこの地を開墾し領主となったという、伝説的な人物でした。
是政という地名の歴史は古く、天正十八年(1590年)北条氏の八王子城陥落した時、家臣井田摂津守是政が府中に逃れて開拓し、是政の子の井田太郎左衛門是勝が父の名を地名にしたといわれています。
日吉町1丁目(東京競馬場内)には井田是政の墓(昭和4年都旧跡に指定)があり、同墓地から発見された鎌倉・室町時代の板碑(33基)は、昭和36年府中市有形文化財に指定されています。
井田氏は、もともと武蔵国の府中に在し、ルーツをたどれば源頼朝が弟の義経を追討した陸奥討伐にも従軍、代々摂津守を自称していたそれなりに名門の家柄でした。
戦国時代には関東の有力土豪のひとつとして、府中周辺をまとめており、やがて関東に一大勢力を誇った北条氏に仕えるようになったそうです。
是政は、北条氏照に仕えて北条軍の一員として豊臣秀吉の軍勢と戦いましたが、結果はあえなく敗戦。
氏照は切腹し、北条氏は滅亡。
失業した是政は、どうにか府中の地に逃れ、生き残るために武士を廃業して帰農する道を選んだようです。
本拠とした府中の横山村は、相当な荒れ地だったようです。
是政はその未開拓の地を、まさにゼロからのスタートで懸命に開墾し、やがて農地としての開拓に成功し、村は栄えていったそうです。
是政は開拓の父となり、そんな功績をたたえて、この土地は「是政」と呼ばれ、一説には、是政の子・是勝が苦難に耐えて頑張った父の名を残そうと名付けたともいわれています。
東京競馬場の中に、井田摂津守是政という人のお墓があり、都の旧跡に指定されています。
墓地からは、鎌倉・室町時代の板碑が出土しており、井田氏が古くからの有力者であったことを物語っています。
墓があるのは、競争コースの3コーナーから4コーナーへかけてのカーブの内側で、競馬ファンならよく知っている「府中の大けやき」と呼ばれている場所です。
是政塚とも呼ばれています。
ただ、実際に植わっているのはケヤキではなくエノキの木とのことのようです。
1933年、目黒にあった競馬場が府中に移設される際、井田家の人々の希望でここに残されることになったそうです。