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国立市「谷保」。
谷保の地名由来の詳細は分かっていません。
「谷」は湿地のことを指し谷保は「湿地帯の多い台地」の意味もあるそうです。
西東京市保谷地区住民が新たな開墾地としてこの地域に移り住み、地名を谷保としたという説、古代人がわき泉を「ぼ」と呼び、当て字したという説もあるそうです(^^)
「谷保」の地名の起こりは諸説あります。
はっきりしたことは分かっておりません。
もともと、谷は「やつ」ともいい、湿地のことを指します。
谷保とは「湿地帯の多い台地」のことで、「保」は末端の行政組織を意味するとも言われています。「谷間にひらけた集落」とか「湿地帯の台地」という意味の説があります。
また、湯島、亀戸と並び、関東三大天神の一つの谷保天満宮は「やぼ」を名乗り、極めて融通のきかないことを意味する「野暮(やぼ)天」の語源ともいわれます。
その他、以下の説があります。
・豪族が湿地帯(谷)にとりで(堡(ほ))を築いたことが起源という説
・古代律令(りつりょう)制のもとで字(あざ)を示す「保」が残ったという説
・古代人がわき出る泉を「ぼ」と呼んでいたという説
・参勤交代の行程表に屋武村、百年前の新聞には藪村と書かれており、濁音が疎まれてか「やほ」になったという説
などです。
さらには、西東京市の保谷地区の住民が農作物の不作が続き、新たな開墾地として当該地に移り住み、元の保谷の出身を忘れないため谷保という地名をつけたという伝説も存在します。
「谷保の城山(やほのじょうやま)」と呼ばれる史跡があります。
国立市の南部、甲州街道(都道256号)の「国立市役所入口」交差点から南へ入り込んだ辺りに、こんもりと木々の茂ったところです。
中世の城館跡で、土塁に囲まれた二つの郭(くるわ)と自然の地形を活かした空堀が残っています。
「谷保の城山」は「三田氏館跡」として東京都指定史跡になっています。
城郭は中世の「方形的居館様式」の変形で、「複郭式館城」の特徴を残しているものだといわれています。
江戸時代からその存在はよく知られており、「江戸名所図会」には「土人(“その土地の者”の意)三郎殿屋敷跡」、「新編武蔵風土記稿」には「津戸三郎住居ノ跡」との記述があり、1924年(大正13年)の谷保郷土史では城主を三田県主貞盛としているといわれています。
従来から「三田城」、あるいは「三田氏館」と呼ばれてきたことから、中世青梅地方に勢力を張っていた三田氏との関係が推測されてきたものの、詳細はよくわかっていません。
菅原道真の子孫ともされる源頼朝の御家人・津戸三郎為守や、三田県主貞盛なる武将が支配していたなどとも伝わるようです。
現在、「都史跡三田氏館跡」は私有地となっていて立ち入ることはできませんが、その周囲が「城山公園」として整備されています。
「城山公園」のある辺りは青柳段丘の南端、青柳崖線の一角。
歴史的遺産と自然とを一体として東京都の谷保の城山歴史環境保全地域に指定されています。
公園は誰でも自由に出入りでき、森林浴に訪れる人や、初夏には水辺でザリガニを捕まえる子どもたちもやって来ます。
「城山公園」の南側には、「城山さとのいえ」と「国立市古民家」が建っています。
「城山さとのいえ」は、国立市の農業体験および農業の情報発信の拠点で、収穫体験などのイベントも開催しています。
「国立市古民家(旧柳澤家住宅)」は、国立で唯一残る茅葺屋根の建物。
元は甲州街道沿いの青柳村(現在の国立市青柳)で江戸時代から使われていた農家の住まいで、ここに移築し復元したものです。
古民家の周りには建物だけでなく、敷地を囲う生垣や風や日を避ける高垣が設けられています。
また、魔よけのための槐の木や“つるべ井戸”も再現され、当時の暮らしの様子がわかるようになっています。
この古民家でも1月には繭玉飾り、2~3月にはひな人形飾り、4~5月には五月人形と鯉のぼり飾りなど、季節ごとの飾り付けが行われるほか、イベントも随時行われています。