【東京都西東京市】「田無」の地名由来と、田無神社・五龍神~東京北多摩の歴史散歩~
西東京市「田無」の地名は非常に古く、1559年(永禄2年)の後北条家の文書にあったそうです。
「田無」地名由来は4つの説があるそうです。
①田んぼが無かったため
②「棚瀬」が変化
③「田成」が変化
④「種なし」が変化(税の取立てが厳しく種(種籾)まで収めたため)
伝統ある地名なんですね!
「田無」の地名由来
田無の地名は、1559年(永禄2年)の後北条家の文書にあるのが最も古く、江戸時代以前より集落が形成されていたことが分かります。
そのため地名の由来は定かではなく、いくつかの説があります。
中でも有力な説が以下4つです。
1、田んぼが無いため田無となった説
2、棚瀬が変化し「たなし」となり、田無の字があてられた説
3、田成が田無に変化した説
4、種なしが田無となった説
1の説では、畑作が中心だった現在の多摩地域ではどこでも田は無い(陸稲が中心)という意味と言われています。
2の説では、この地域にある谷戸という谷上の地形から湧水が出て、その流れがごく浅い階段状(棚瀬状)だったためという説です。西東京市谷戸町の湧水を水源とする「新川(しんかわ)」と呼ばれる川がありますが、この新川の流れが、棚瀬状の流れであったのではないかと言われています。
3の説では、古村一帯に水田を開くところから、いわゆる「田を成す」ことが、「たなし」になったとする説と言われています。
4の説では、昔、田無では税の取立てが厳しく、種(種籾)までとられてしまうため、周囲の村から種なしの村と呼ばれた、という説です。
田無の語源については様々な説がありますが、定説は得られていません。
田無神社(田無市)
田無神社の始まりは、今から約1000年前の鎌倉時代、正応年間です。
現所在地より北に位置する谷戸の宮山に鎮座し、尉殿大権現(じょうどのだいごんげん)と呼ばれていました。
ご祭神は龍神様です。
尉殿大権現(じょうどのだいごんげん)は、すべての命の源である水と、災いを祓(はら)う力がある風、つまり豊穣と除災の神様として信仰されてきました。
また尉殿大権現は雨風の神様で「級津彦命(シナツヒコノミコト)」「級戸辺命(シナトベノミコト)」という神様のことで、この二柱は夫婦神だと考えられています。
田無神社では、その姿が金の龍となって御本殿に祀られています。
元和八年(1622年)に上保谷に分祀し、正保三年(1646年)に宮山から田無(現在の地)に分祀し、寛文十年(1670年)には、宮山に残っていた尉殿大権現の本宮そのものを田無に遷座しました。
さらに、尉殿大権現は明治五年(1872年)に熊野神社、八幡神社を合祀し、田無神社と社名を改めました。
その際に、主祭神・大国主命と須佐之男命(すさのおのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、八街比古命(やちまたひこのみこと)、八街比売命(やちまたひめのみこと)、日本武尊命(やまとたけるのみこと)、大鳥大神(おおとりのおおかみ)、応神天皇(おうじんてんのう)をお祀りして、現在に至っています。
田無神社・五龍神
田無神社には五行思想に基づいて五龍神がお祀りされています。
中心の本殿に金龍神、東方を青龍神、南方を赤龍神、西方を白龍神、北方を黒龍神が御守護されています。
■金龍神
土用を象徴する中央並びに大地・豊穣の守護神です。他に家庭運・頭領運・事業運等に関する事を司り、大地に根ざす様な基盤を作れる様に導きます。本殿の中に合祀されています。
■青龍神
春を象徴する東方並びに樹木・風の守護神です。他に庭園・話術・音楽性・積極性等に関する事を司り、新芽が出る様に発展へと導きます。
■赤龍神
夏を象徴する南方並びに火の守護神です。他に書斎・学業・勝負事・昇進等に関する事を司り、灯火の様な先見の明を与えます。
■白龍神
秋を象徴する西方並びに金属の守護神です。他に倉庫・金運・飲食・結婚運等に関する事を司り鉱脈を掘り出す様な収穫へと導きます。
■黒龍神
冬を象徴する北方並びに水・雨の守護神です。他に厠・浴室・健康運・夫婦運・交際運等に関する事を司り、流水の様な新鮮な気を保たせます。