【東京都武蔵村山市】「武蔵村山かてうどん」と「武蔵村山デエダラまつり」~東京北多摩スポット・観光・イベント・公園・大学など~
武蔵村山かてうどん
武蔵村山市の名物の一つが「かてうどん」。
「村山うどん」は、地粉(地元国産の小麦粉)を配合した冷たい麺を温かい醤油味の魚介ダシのつけ汁に浸し“かて”と一緒にいただきます。
別名「村山かてうどん」とも呼びます。
「かてうどん」は、江戸時代(1835年)から武蔵村山(村山村、中藤村、三ツ木村)及び周辺で食べられていた伝統食です。
村山うどんに付いている「かて(糧)」とは茹でた季節の地場野菜などをうどんに添えたものです。
武蔵村山名産の小松菜やほうれん草、ナスなどが一般的です。
近年人気の豚肉を使った「肉汁」との相性も考え、季節感のある揚げものなどを添えることもある村山かてうどんは、栄養バランスのよい食事といえます。
“かて”は長ねぎや茗荷、生姜などの薬味とは異なります。
村山かてうどんは地粉(地元国産の小麦、特に多いのが農林61号等の赤小麦)が配合され、また赤小麦の表皮が入っているため真っ白ではなく茶褐色またはやや灰色の麺です。
そのため小麦本来の風味が強くタンパク質が多いのが特徴です。
また、赤小麦の表皮の主成分はセルロースやヘミセルロースといった不溶性食物繊維で、鉄分、カルシウム、マグネシウム、亜鉛、銅などのミネラルやビタミンが豊富に含まれています。
赤小麦の表皮には食生活に欠かせない栄養素が豊富に含まれているため、理想的な健康食材と言えます。
村山うどんの汁はつけ麺スタイルで、かけうどんとは異なる濃いめの醤油味。
ダシは鰹などの魚介系が基本ですが、辛味、甘味、うま味の配合バランスは店舗、家庭によって異なります。
近年、村山かてうどんの中でも「肉汁かてうどん」が人気で、武蔵村山市内のうどん店でも定番メニューとなっています。
魚介系の出汁に豚肉のうま味を合わせて仕上げる肉汁は、使う豚肉の部位や仕込み方なども店舗によって異なり、それぞれに特徴ある味わいを創りあげています。
武蔵村山かてうどんの歴史
奈良時代和銅3年(西暦710年)に創建された武蔵村山の古刹である眞福寺の宗派真言宗には麺料理専門の僧がいました。
また、村山うどんは手延べ製法でなく切麺製法であることなどから、真言宗の開祖である弘法大使(空海)が唐から日本に伝えた切麺文化が村山かてうどんの源流はではないかと考えられます。
眞福寺は、承久2年(西暦1220年)に落雷によって焼失し正応3年(西暦1290年)には滝性法師により再興され江戸時代になると徳川家から寺領20石を拝領し村山壇林という宗門学校になるなど、この地域の中心的寺院でしたので、村山のうどん文化は奈良時代から真言宗の僧によって長期に渡り流布したと考えられます。
江戸時代に入り、狭山丘陵の村々は武蔵野台地に進出し畑作が盛んになりますが、川が少なく、乾燥地域のため1700年代前半頃から肥料が使われだし、江戸の市場で肥料を購入し穀物を売る貨幣経済が発達しました。
この頃作られていた作物は、大麦、小麦、粟、ひえなどです。
江戸の元禄期から江戸時代後期にかけ、畑作の増加と水田の減少によって農間余業として木綿織業などが始まります。
武蔵村山でうどんが食べられていた最も古い記録はこの頃で1835年に指田日記の中で「饂飩(うんとん)を出す」と書き記されています。
明治に入ると、農業は江戸時代の畑作がそのまま発達し、作物は麦、粟、ひえなどの穀類が大半で新しい農作物としてはお茶、桑が作られました。
武蔵村山は長年水に恵まれない時代が続きますが昭和4(1929)年に多摩湖の建設が始まります。
当時の武蔵村山の人々は織物業と農業で生計を立てておりました。
織物で現金を得て、食事は「大麦」や「サツマイモ」などを栽培する自給自足の食生活です。
嫁入前の女性や住み込み労働者が多かったで経営者は親の代わりに嫁入前のしつけとして「現金収入を稼ぐ事」と「自分の食事は自分で栽培し調理する事」が人間形成の基本である事を教えました。
大麦の食事が多い日常でしたので、正月や地域のお祭りやお盆などの休日には、よりおいしい食事を求め、小麦を製粉し「手打ちうどん」や「やきもち」や「茹でまんじゅう」などを作りました。
嫁入前の女性の努力や経験の成果が今日の「村山かてうどん」のおいしさを作り上げたのです。
村山では古くから、嫁に入る条件としてうどんを打てなければならないとも言われ、冠婚葬祭や祭事のときは最後の〆にうどんを食べる習慣もありました。
現在でもその習慣は市内に残り、地域のお祭りや宴会の〆にうどんを食す場面が多く見受けられます。
武蔵村山デエダラまつり
毎年10月下旬に開催している市内最大のおまつり「村山デエダラまつり」。
会場内では、ステージイベント、飲食販売ブース、展示PRブースといった出店もあります。
まつりのクライマックスは、光り輝くパレード隊と山車が一体となり会場を盛り上げる「デエダラ市民パレード」。
現代によみがえった伝説の巨人「デエダラボッチ」をモチーフにした“地域山車”が、踊り、太鼓、お囃子のリズムとともに宵の武蔵村山を華麗に、勇壮に盛り上げます。
村山デエダラまつりは、活力にあふれたにぎわいのあるまちを目指し、地域の伝統、文化、自然など地域の素晴らしさを再認識し、相互の交流を図り新たなつながりを生み出すとともに、市民と市が一体となってまち全体を盛り上げ、地域の活性化と観光の振興を図ることを目的に開催しています。
まつりの名前は、市内に古くから伝わる「デエダラボッチ(大多羅法師)」という巨人伝説にちなんで名づけられ、現在も「デエダラボッチ」が歩いた足跡とされる井戸が残っています。
デエダラボッチの井戸伝説
武蔵村山市では、「デエダラボッチ(大多羅法師)」という大男(巨人)の伝説が古くから語り継がれています。
ダイダラボッチ(巨人伝説)に関する伝承地は、関東から中部地方にかけて広く見られますが、東京都内はとりわけその伝承が濃厚に見られた地域と言われています。
湧き水出現にまつわる水神信仰と深い関係があります。
藤ヅルでこしらえた籠で土を運んでいた時、ツルが切れて落ちて出来たのが富士山で足を滑らせたときはねあげた土が伊豆七島になったとかスケールの大きな話が多くあります。
漫画ゲゲゲの鬼太郎や宮崎駿アニメの「もののけ姫」にもモチーフとして使われています。
その「デエダラボッチ(大多羅法師)の井戸」があるのが、横田トンネルのすぐ近くです。
横田トンネルは武蔵村山市内にある小さなトンネルで、“村山貯水池(多摩湖)を造るために敷設された羽村山口軽便鉄道”の線路跡を整備して造られた自転車歩行者専用道路です。
横田トンネルを出ると、すぐ先には赤堀トンネルがあり、その赤堀トンネルを出て一般道へと出て坂をちょっと上ると、「大多羅法師の井戸」があります。
藤づるで丸山を背負って歩いた大多羅法師の足跡が井戸になった、という伝説が残る井戸です。
別名「でびいしゃら井戸」とも呼ばれています。
ただ、今は干上がっていますので、その面影を感じる程度となっています。
「大多羅法師の丘」と「デエダラボッチの頭像」
西武狭山線の西武球場前駅から徒歩10分ほどの場所にある、多摩湖橋近くの慶性門(けいしょうもん)の横道が小高い丘になっており、そこは『大多羅法師の丘』と呼ばれています。
慶性門は、村山貯水池建設にあたり慶性院というお寺が移転した際、残された山門で、慶性院自体は大正11年(1922年)に、東京都東大和市芋窪に移転しています。
その丘の頂上にあるのが『デエダラボッチの頭像』。
正式には東大和市になりますが、多摩湖サイクリングロード近くですので、お近くに行った際には一度訪れてみてはいかがでしょうか。