【東京都東大和市】「蔵敷」(ぞうしき)の地名由来~東京北多摩の歴史散歩~

東大和市「蔵敷」地名由来の一つ。

平安時代、雑役夫を「雑色」(雑式とも)と呼び、その居住地。

 

のちに当て字「蔵敷」となったと言われています。

また江戸時代、地頭の屋敷蔵(年貢米・特産物の倉庫兼邸第)があったこともその由来の一つです。

 

「蔵敷高札場」は東京都の旧跡に指定されています。

 

 

 

「蔵敷」(ぞうしき)の地名由来

 

 

「蔵敷」は、東大和市西部に位置し、東大和緑地から新青梅街道にかけての一帯にあたる地名です。

 

東大和市にあった「蔵敷村」からその地名を受け継いでいます。

しかしながら、蔵敷の地名由来は定かではありません。

蔵敷(ぞうしき)と同音の地名に「雑色」があり、平安期以降の蔵人所における雑役夫を雑色(雑式とも)と呼び、その居住地だったことが地名由来のひとつになったという説があります。

 

また、江戸初期に蔵屋敷(くらやしき)があったため、その名がついたという説もあります。

蔵屋敷とは、江戸時代に大名(藩)が年貢米や領内の特産物を販売するために設置した倉庫兼邸第の事です。

 

 

 

 

蔵敷村の歴史

 

 

蔵敷村は、狭山丘陵に刻まれた谷ッに本拠を構え、その南に広がる武蔵野の原を新田開発した村です。

現在の東大和市駅周辺は蔵敷村の人々によって開発されたと言われています。

江戸時代、石数215石で1600年代中頃から幕府料として代官の支配下にありました。

しかし、1889年(明治22年)4月1日 町村制の施行に伴い、神奈川県北多摩郡清水村、狭山村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村が町村組合を結成し、高木村外五ヶ村組合が発足します。

 

1893年(明治26年)4月1日東京府へ移管され、1919年(大正8年)11月1日には高木村外五ヶ村組合が廃止。各村が合併して大和村を新設され、同日蔵敷村が廃止されました。

 

 

 

 

蔵敷高札場

 

 

蔵敷と言えば「蔵敷高札場」が有名です。

高札場とは、江戸時代に幕府が法度や掟書を発布したり、重罪人の罪状などを記して板札を掲げられていた場所です。

幕府が板札を掲示したりする場所として重要な役割を担っていました。

いわゆる「掲示版」ですね。

 

大きさは横幅4.6メートル、高さは約5メートル。

明治時代になり、次々に取り壊され、都内に残っている高札場は蔵敷高札場と、府中にある府中高札場の二カ所のみとなっています。

 

東京都指定文化財に指定されています。

 

 

 

 

蔵敷調練場跡

 

 

日枝神社境内に「蔵敷調練場跡」の案内板があります。

調練場とは、農兵に軍事訓練を行った場所です。

江戸時代末期は日本全体が混乱し、治安が乱れていました。

このため、文久三(1863)年、韮山代官江川太郎左衛門は、治安維持のため、また頻繁に起こる百姓一揆鎮圧のため、村役人級の農民を農兵に編成し、小銃を貸し付け、農業の合間に軍事訓練を行ったそうです。

 

日野宿の名主で新撰組の育ての親・佐藤彦五郎と協力し、農兵を編成したと言われています。

 

 

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