【東京都立川市】「砂川」(すながわ)の地名由来と「砂川事件」~東京北多摩の歴史散歩~
立川市「砂川」地名由来。
砂川は「残堀川」との関連が多いようです。
残堀川は「砂の川」と呼ばれていました。
これが縮まって「砂川」という地名がつけられたと言われています。
又、砂川村は年貢徴収の単位として西から順に一番組、二番組、三番組など集落があり、番号は今も地名として残っています。
立川市「砂川」の地名由来
立川市「砂川」。
地名の由来は、残堀川がいつも枯れたように水量が少なく「砂の川」に見えたためとされます。
土地は砂利の上に火山灰が堆積(たいせき)した関東ローム層で、保水力はなく、吹き荒れる冬の北風は、赤土の砂ぼこりを巻き上げ「赤っ風」と呼ばれたそうです。
そのため、残堀川は「砂の川」と呼ばれていました。
これが縮まって「砂川」という地名がつけられたと言われています。
立川市「砂川」の歴史
立川市砂川の地域は、江戸初期、多摩川へ注ぐ残堀川に沿って開拓が始まった地域で、歴史的にはまだ新しいそうです。
玉川上水から砂川分水が導かれた1657年、五日市街道の両側に細長く集落を形成。
秋川渓谷から炭や薪を江戸へ運ぶ途中に宿場がなかったため、秋川から朝出ると、ちょうど昼ごろ、立川周辺の砂川に着くことから、休憩場所として発展した可能性もあるそうです。
その後、砂川村として成立するのが、江戸時代。
幕府に新田開発を願い出た村野(後の砂川氏)三右衛門を中心に砂川村として誕生しました。
1654年(承応3年)玉川上水が竣工。1657年(明暦3年)には砂川分水を許可開削され、新田開発が行われました。
1736年(元文元年)(旧)砂川新田を砂川村と定め、1867年(慶応3年)(新)砂川新田および砂川前新田を砂川村に組入、1879年(明治12年)殿ヶ谷新田・宮沢新田・中里新田・芋窪新田・八軒新田・榎戸弁天新田を砂川村に組入。1889年(明治22年)4月1日、町村制施行により、上記の新田とともに神奈川県北多摩郡砂川村が成立。
1954年(昭和29年)6月30日、町制施行し砂川町となりました。
砂川◯番って何?
立川市砂川。
モノレール駅名にもありますが、砂川◯番という地名があります。
この砂川◯番というのは、江戸時代の年貢の徴収単位であり、地域の呼称でした。
初めは、八番まで組分けされ、最後は十番まで増えたそうです。
バス停や交差点などで◯番との呼び名が残っています。
砂川事件とは?
砂川事件を知っていますでしょうか。
砂川事件は、アメリカ軍の基地拡張に反対する住民の反対闘争のことです。
1957年に事件が発生し、東京都北多摩郡砂川町(現・立川市)付近にあった在日米軍立川飛行場の拡張を巡る闘争における一連の訴訟です。
当時の住民や一般人の間では主に「砂川紛争」と呼ばれ、全学連も参加し、その後の安保闘争、全共闘運動のさきがけとなった学生運動の原点となった事件だとも言われています。
1963年の最高裁の確定判決で決着をみますが、その過程でなされた最高裁判所の判決が「憲法9条が我が国の自衛権を否定するか」「安保条約に対して司法の審査権が及ぶか」などの重要な論点について判断を下しており、今日に至るまで重要な判例として影響を与え続けています。
当時、非常に注目された事件で、その後の法令にも大きな影響を与えた事件だったそうです。
事件の発端は終戦10年を経過した1955年です。
同年3月、在日米軍は日本政府に立川ほか4飛行場の拡張を要求しました。
同年5月に、立川基地拡張を通告された住民は、砂川基地拡張反対同盟を結成、翌1956年10月には砂川町の芋畑で地元農民らと武装警官隊が衝突し、千人を超える負傷者が出る事態に至りました。
翌1957年7月にふたたび事件が起こり、特別調達庁東京調達局が強制的に測量を行ったことが原因となって、基地拡張に反対するデモ隊が、基地内に侵入、その際立ち入り禁止境界柵を壊します。
学生や労働組合員23人が検挙され、そのうち7人が「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法」第2条違反の罪に問われ、起訴されます。
第一審は東京地裁で起訴された7人に対して無罪判決。また、「駐留米軍は違憲」としました。
その後、最高裁が取り消し、憲法9条には違反しないという判断を下し、有罪が確定しました。
米軍は判決後、首都圏域の防空基地を横田基地に一本化する方針に変更、1977年11月に立川基地は日本に全面返還されました。
跡地は国営昭和記念公園、立川広域防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地などに転用されていきました。
学生運動の発端にもなり、その後の法令にも大きな影響を与えた砂川事件。
立川「砂川」の地名は、この事件で一気に全国区となったそうです。