【東京都国分寺市】姿見の池・恋ヶ窪地名由来~東京北多摩の歴史散歩~
国分寺市恋ヶ窪にある「姿見の池」は「東京の名湧水57選」の一つ。
鎌倉時代、遊女達が朝な夕なに自らの姿を映して見ていたという伝承がある池です。
この姿見の池にある「一葉松」には悲しい恋の伝承があり、地名「恋ヶ窪」の由来とも言われています。
国分寺市・姿見の池とは?
西国分寺駅のすぐそばにある「姿見の池」です。
この池は中央線の線路のすぐ脇にあります。
姿見の池は、かつて付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水を湛えていました。
現在の府中街道とほぼ同じ道筋にあたる東山道武蔵路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていたことから、「姿見の池」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。
「武蔵野夫人」(大岡昇平著)など文学作品にもよく登場する名所です。
平成5年に東京都の「国分寺姿見の池緑地保全地域」に指定されました。
恋ヶ窪の地名の由来「一葉松(ひとはのまつ)」
姿見の池は「一葉松(ひとはのまつ)」という伝承にも登場します。
鎌倉時代の武将・畠山重忠(はたけやまのしげただ)は源頼朝の平氏追討に際し、いち早く寄りともに従い、本拠地のある埼玉と鎌倉の間を往復するようになります。
そしていつしか、この地の遊女・夙妻太夫(あさづまたゆう)と恋に落ちます。
しかし、やがて重忠は寄りともに従い出陣。
その間に太夫に恋をしたもう一人の男が太夫に、重忠が戦死したという偽りの知らせをもたらし、嘆き悲しんだ太夫はこの姿見の池に投身し亡くなります。
彼女の死を哀れんだこの地の人は彼女の墓に1本の松を植えます。
その松は枝に一つしか葉をつけないという不思議なものだったそうです。
一方、何も知らず凱旋した重忠も同じく彼女の死を哀れみ阿弥陀堂を建て霊を祭ったということです。
このようなエピソードからこの地は「恋ヶ窪」と呼ばれるようになります。