【東京都府中市】「府中」の地名由来~東京北多摩の歴史散歩~

府中市。

「府中」の地名は、有名ですのでご存知の方は多いかと思います。

「府中」は、奈良・平安時代に武蔵国の「国府」が置かれたことに由来するそうです。

古くから政治・経済・文化の中心地として栄えていました。

この時代では、府中市周辺は関東全域でもトップクラスの街だったのかもしれませんね!

 

 

府中の地名由来

 

府中の地名は、古代律令制の下で武蔵国の「国府」所在地であったことによります。

武蔵国は、東京都、埼玉県、神奈川県にまたがる広大な土地に広がっていました。

「国府」は約1300年前、全国を統治するために国ごとに置かれた中央政府の出先機関で、奈良時代から平安時代までの約500年にわたり、その地方の政治・経済の拠点でした。

また、国府では都から役人(国司)が派遣されて政治を行ったため、その地方の文化の中心地としても栄えました。

当地以外の国府・府中と区別するため「武蔵府中」と呼ばれることもあります。

 

 

府中宿

 

府中市は古代の遺跡が多く、また645年の大化の改新後に武蔵国の国府が置かれるなど、古くから政治や経済と文化の中心地として栄えており、江戸時代は甲州街道の宿場の中でも大きな「府中宿」がありました。

鎌倉時代にも要衝地域となっており、戦後も多摩地域の主要都市として行政機関・病院等の公共機関が数多く集積していました。

江戸時代には甲州街道沿いが整備されて鎌倉街道との交差点周辺を中心とした宿場町として栄えます。

周辺の大部分は天領で、川崎定孝(平右衛門)による開拓と用水の整備が進み、田畑の耕作も盛んになります。

府中宿は鎌倉街道と甲州街道(現在の旧甲州街道)が交わる交通の要所には高札場があり、その向かいが本陣となっていて、非常に栄えた宿場でした。

これら街道は、豊臣秀吉が川越から、徳川家康は平塚から府中へ鷹狩に訪れる街道で、後には東西の甲州街道が幹線となったため、特に甲州街道に沿って六所明神を中心に発展した宿場町でした。