人生が、予定通り順調にうまくいくことなんて絶対にないの。

人生が、予定通り順調にうまくいくことなんて絶対にないの。


コンサートを開けば即完売、チケットがとれないと言われるピアニスト、ご存知でしょうか?

それがフジコ・ヘミング

ご存知の方も多いのではないでしょうか。

その情感あふれるダイナミックな演奏は多くの人の心をとらえ、「魂のピアニスト」とも呼ばれています。

しかし、フジコ・ヘミングは壮絶な半生を生き抜いてきた人物でした。

今回はフジコ・ヘミングについてお伝えします!



聴力を失った女性ピアニスト「フジコ・ヘミング」

日本で今、最も有名なピアニストの一人と言われているフジコ・ヘミング。

少しその半生を追ってみましょう。

フジコ・ヘミングは1932年12月ベルリンで生まれます。

現在85歳、現役ピアニストです。

父親がロシア系スウェーデン人(画家・建築家のヨスタ・ゲオルギー・ヘミング(Josta Georgii Hemming))で母親が日本人(ピアニストの大月投網子)のハーフ。

フジコの母親がピアニストでもあり、そのためフジコは小さい頃から母親が弾くショパンを聴きながら眠ったといわれています。

フジコがピアノを習い始めたのは4歳。

しかし、母親のレッスンは厳しいスパルタ式のものでした。

外で遊びたくても駄目、トイレに逃げ込んでも引っ張り出されて練習…。

怒鳴られながらも、グッと歯を食いしばって練習に励んだようです。

しかし、ここで一つ目の大きな苦難が。

16歳の時、中耳炎で右耳の聴力を失ってしまいます。

まだ片方の耳は残っている、そう奮い立たせ、ピアノの技術を磨きます。

高校を卒業後、東京芸術大学に入学。

コンクールに入賞し、また数々の賞を受賞した後、念願だった、ドイツのベルリンへピアノ留学を果たします。

「難民」フジコ・ヘミング

ところが、ここで再び大きな壁が立ちはだかります。

フジコは父の祖国、スウェーデンの国籍を持っていましたが、生まれてから一度もスウェーデンを訪れたことがなく、当時の規則でスウェーデン国籍が抹消されてしまったのです。

ならば日本国籍をと、何度も日本の役所に掛け合いましたが、それもかないませんでした。

スウェーデン人でもなく、日本人でもない。

一体自分はどこの国の人間なのか。

後に、フジコはこう語っています。

「日本では「異人」といじめられ、生まれたドイツでは「東洋人」と見られ、日本人の留学生からは「よそ者」とされて仲間に入れてもらえない・・・。「どうして?私の故郷はどこ?」抱いていた夢が消えそうだった」

結果、パスポートを取ることができないフジコは、「難民」としてドイツに渡ることになります。

大学をなんとか卒業し、ドイツの隣の国、オーストリアの首都ウィーンへ移ります。

しかし。

仕事もなくお金のない生活。

ジャガイモとにんじんにカレー粉を入れたスープ、食べるものが無くなると、一週間砂糖水だけで過ごした日もあったそうです。

最高の瞬間、そして最大の悪夢

そんな辛く貧しい日々を過ごしていたフジコにチャンスがきます。

世界的な音楽家パーンスタインの演奏会が開かれることを知ったフジコはなけなしのお金でチケットを買い、そしてバーンスタインへ自分の写真と手紙を送ります。

演奏会後、バーンスタインの楽屋を訪ねたフジコ。

彼はフジコの手紙を読んでくれていて、その場で「ピアノを弾きなさい」と言ってくれます。

そして、そのあと、コジコはこう語っています。

「私は無我夢中でリストの「ラ・カンパネラ」や「愛の夢」を弾いた。すると、聴き終わったバーンスタインが私を抱き寄せ、キスしてくれたのよ。神様が微笑んだ」

まさに大チャンスをつかんだ瞬間でした。

そしてウィーンの街角にフジコのリサイタルのポスターが貼られ、まさに夢が叶った、そう誰もが思ったときでした。

リサイタルの1週間前、暖房もない寒い部屋で暮らしていたフジコは風邪をひいてしまいます。

それが原因で、中耳炎が再発

右耳に加え、左耳もまったく聞こえなくなってしまいます。

両耳が聴こえないままリサイタルを行ったが結果は最悪。

せっかく掴んだ最高のチャンスが泡と化します。

前を向くフジコ・ヘミング

しかしフジコは諦めませんでした。

その後、治療で左耳の聴力は40%まで回復しましたが、音を失っている間も、決してピアノを諦めようとはしませんでした。

耳の治療をしながら、ピアノ教師の資格をとります。

教師として働きながらコンサートを続ける暮らしを続けます。

時には、病院で清掃や介護の仕事をしながら、再起を目指します。

そして、大きな転機が。

NHKのドキュメンタリー番組「フジコ ~あるピアニストの軌跡~」に取り上げられ、一気に注目度が高まります。

念願だったCDデビューを果たし、『奇蹟のカンパネラ』はクラシック界では異例の200万枚以上の売上を記録!

フジコの創り出す独特な世界観にみな驚かされました。

2009年の日本ツアーでは5万人を動員。

コンサートを開けば即完売、チケットがとれないと言われるピアニストの一人にまでのぼりつめました。

そして、さらに、2018年6月、映画化!

2018年6月16日から映画「フジコ・ヘミングの時間」が公開されます。

公式サイト「フジコ・ヘミングの時間」

独創的ピアニスト

フジコ・ヘミングの特徴として「画家」であることも挙げられます。

フジコが描く作品は、彼女の奏でる音楽と同じような…浮遊感、線と線の織りなす独特の空気感があり、上品かつ繊細で独創的だと言われます。

心に優しく切なく響く音は、その人生そのものを映し出しているのかもしれません。

ピアニストとして、最も重要な聴覚を失ったことが、その後の人生を切り開くきっかけとなったフジコ・ヘミング。

聴覚以外の能力を最大限覚醒できた結果かもしれません。

スウェーデン人でもなく、日本人でもない、もがき苦しんだ幼少期もそう。

まさに、誰もが経験できるはずもない、独特な世界観を創り上げた背景ではないでしょうか。

人生は山あり谷あり。

なかでもその人を形成するものは、「谷」かもしれません。

最も、その人そのものを映し出すものではないでしょうか。

その「谷」の経験自体が、次の新しい自分を形成し、成長するときなのものかもしれません。

より大きな幸福のために。

最後に

フジコ・ヘミングの名言を贈ります。

人間はなんのために生きるのかって考えてみると、苦難を乗り越えていくために生きるのだと思う。なにもしないで、生きていこうなんて生き方はだめよ

辛いことがあっても私は負けなかった。いつかはこの状況から抜け出せる日が来ると信じていたから

どんなに教養があって立派な人でも、心に傷がない人には魅力がない。他人の痛みというものがわからないから

人生は諦めたら終わり。私は苦しみながらも希望を捨てませんでした。人生をくよくよしてわたらないことです

幸福な貧乏人もいれば、不幸な金持ちもいる。結局は自分が置かれた状態の中で、幸せは作りだすことができる

チャンスというものは、掴み取るだけで成功とは限りません。私はチャンスを失ってどん底を知り、回り道をしたおかげで、人間的に成長できたように思います

人生に無駄なことなんか、ひとつもない。生きるってことは、いろいろ経験すること。その時は、自分とはまったく関係のないことのようでも、その経験が大切に思える時がきっとくる

その時は不幸だと思っていたことが、後で考えてみると、より大きな幸福のために必要だったということがよくあるの

人生が、予定通り順調にうまくいくことなんて絶対にないの。ありえないことよ。そうならないように頑張るでしょ。だから人生がおもしろくなるんじゃない

フジコ・ヘミング