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「テルモ株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『北里柴三郎』/沿革・歴史など~

 

「テルモ株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

「テルモ株式会社」の企業理念

 

医療を通じて社会に貢献する

私たちは、医療の分野において価値ある商品とサービスを提供し、医療を支える人・受ける人双方の信頼に応え、社会に貢献します。

 

 

 

「テルモ株式会社」のコアバリューズ

 

 

Respect(尊重) 他者の尊重

私たちは、アソシエイト、お客様、そしてビジネスパートナーに対して敬意と感謝の気持ちをもって接します。多様な文化や個性を理解し、異なる意見や社会の声にも広く耳を傾け、自らの成?に繋げていきます。

 

Integrity(誠実) 企業理念を胸に

私たちは、人々のいのちや健康に関わる企業のアソシエイトとして、常に、誠実に使命感をもって行動します。日々努力し、全てのステークホルダーとの間に、確かな信頼を築いていきます。

 

Care(ケア) 患者さんへの想い

私たちは、自らの活動が、患者さんにつながっていることを常に忘れず行動します。医療に携わる人々を深く理解することに努め、患者さんのより良い未来の実現をともに支えていきます。

 

Quality(品質) 優れた仕事へのこだわり

私たちは、安全と安心の医療を提供するために、常に現場視点で課題を捉え、解決策を見つけ出します。製品品質のみならず、供給やサービスなど、全ての活動におけるクオリティーの向上を徹底的に追求します。

 

Creativity(創造力) イノベーションの追求

私たちは、未来に挑戦する風土を大切にし、好奇心と情熱をもって取り組みます。医療現場のニーズを的確に捉え、価値ある製品やサービスを最適なタイミングで届けていきます。

 

 

 

「テルモ株式会社」の設立趣意書(現代語訳・抜粋)

 

第一次世界大戦後の世界情勢はすでに一変し、強大な国々は整理および改造の時代に入り、国力の回復、発展に尽力しており、平和的な競争が日に日に激しくなっております。

私たちが創立しようとする事業は、各種の検温器、寒暖計、理化学用計器類の製造および販売でありますが、その事業は、いままで何人も提唱したことがない特殊なものに属しており、ただ平和的営利事業というだけでなく「国民の保健は衛生思想の普及」にかかっており、「国民の健康が国家安定の基礎」であるという見地からすれば、これは国家的な工業ということができます。

思うに近ごろは衛生思想の発達や普及にともない国内における検温器の需要が急増し、また従来から先進国として供給を頼ってきた欧米諸国においても需要が増加しており、その需給バランスがくずれた結果、逆にわが国からの輸入を求める事態に至り、このことから将来は海外への輸出がますます増大するのは必然的であり、したがって本事業の前途は洋々として、その収益が極めて大きく、また継続性が見込めることは、いうまでもありません。

従来わが国の医家が主に使用する外国製検温器は、ドイツ製ビック、英国製ジール、米国製ジョンソン等であり、その示度の正確さと、感度の速さにおいては非難すべき欠点はありませんが、水銀示度の読み取りが困難で、振り下げも容易でないという二点において大きな欠陥があり、これは常に臨床医の最も遺憾とするところですが、以前、この種の工業に天才的な技術を持つ竹内英二氏はすでに五年間の長きにわたり、この二大欠点の取り除きに没頭し、幾多の犠牲をはらい、非常な苦労で検討を重ねた結果、ついに色つき検温器を発明し、わが国で並ぶものの無い精巧品であるばかりか、海外においても比類ない優良品として各方面の有力者から、愛用されるようになっております。

このことから私たちは、竹内氏の研究を深める助けをし、この国家的工業の進歩発達に役立てるため、その工業権ならびに営業権および工場すべてを譲り受け、豊富な資金によって内容の充実を図り、大正十年一月より実施された、度量衡検定法の拡張により新たに適用の範囲に加えられた検温器検定に関する下調査のため臨場された政府当局から模範的工場であると推奨を受け、ますますの発展と努力を激励された主旨に添い、内外から殺到する需要に応じ優良品の製造供給により国民保健の一助とし、かつ国家経済上の実益を挙げることを期するものとします。

要するに本企業は前途ますます需要の拡大が見込める特殊工業であり、将来増資発展の運命を持つ有望事業でありますので、皆様が私たちの志を了解し、ご賛同いただけますよう、心からお願いいたします。

 

 

 

 

「テルモ株式会社」の創業者・創立者『北里柴三郎』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

北里柴三郎(テルモ発起人)

 

北里柴三郎。テルモの筆頭設立発起人。

北里大学の創設者で「近代医学の父」とも言われる。

 

1853年(嘉永5年)肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まれる。

父の惟保は庄屋を務め、温厚篤実、几帳面な性格であった。

 

母の貞は豊後森藩士加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁いでからは庄屋を切りもりした。

柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼した。

 

幼少のころはかなりのわんぱく坊主で、剣術や槍術に憧れ、武士の家系であったこともあり将来は軍人になることを夢見ていたそうです。

柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ、漢学者の伯父から四書五経を教わった。

 

帰宅後は母の実家に預けられ、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。

その後、久留島藩で武道を習いたいと申し出たが、他藩のため許可されなかった。

 

実家に帰り父に熊本に遊学を願い出た。

1869年、細川藩の藩校時習館に入寮したが翌年7月に廃止され、熊本医学校に入学した。

 

医学校で初めて顕微鏡をのぞいたとき、拡大されたからだの組織を見て感激し、「医学も学ぶに値する」と感じたと言われています。

そこで教師のマンスフェルトに出会ったことも影響し、本格的に医学に目覚めることとなった。

 

特別に語学を教わり、3年間在籍したが、2年目からは通訳を務めている。

1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが、在学中よく教授の論文に口を出していたため大学側と仲が悪く、何度も留年した。

 

1883年(明治16年)に医学士となる。

在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた。

 

その後、内務省衛生局へ就職した。

同郷で東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)よりドイツのベルリン大学へ留学。

 

コッホに師事し業績を上げた。

1887年(明治20年)、石黒忠悳陸軍省医務局長はベルリンを訪問、北里にペッテンコーファー研究室に移るように指示したが、コッホに面会し期待の大きさを目のあたりにした石黒は、異動命令を撤回した。

 

1889年(明治22年)には世界で初めて破傷風菌だけを取り出す破傷風菌純粋培養法に成功、1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させた。

さらに血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。

 

1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。

第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に柴三郎の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。

 

論文がきっかけで欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであると、柴三郎はこれらを固辞して1892年(明治25年)に帰国した。

福澤諭吉の援助により私立伝染病研究所が設立されることとなり、柴三郎は初代所長となった。

 

その後、国の寄付により内務省管轄の国立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)となり、伝染病予防と細菌学に取り組む。ハンセン病の研究も開始。

1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績を上げた。

 

私立北里研究所(現・学校法人北里研究所。北里大学の母体)を設立。

狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。

 

諭吉の没後の1917年(大正6年)、諭吉による長年の多大なる恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となる。

1917年(大正6年)全国規模の医師会として大日本医師会が誕生、柴三郎が初代会長となった。

 

その後、1923年(大正12年)に医師法に基づく日本医師会となり、柴三郎は初代会長としてその運営にあたった。

1921年(大正10年)9月北里柴三郎ら医学者が発起人となり、赤線検温器株式会社(のちのテルモ)を設立。

 

1931年(昭和6年)脳溢血のため東京・麻布の自宅で死去。享年80。

 

 

 

北里柴三郎(テルモ発起人)の名言・考え方

 

 

偉業を成そうと思うなら、その基礎をしっかり固めなさい。

 

 

基礎とは生涯を通じての勉強。

 

 

医者の使命は病気を予防することにある。

 

 

北里研究所の事業も世界規模での医学発展において、医学あるいは衛生学のみならず他の領域まで侵入しまして農業、水産、工業などその他にも我が微生物の研究を応用して国家、社会に貢献したい考えであります。

 

 

細菌学者は、国民にとっての命の杖とならねばならない。

 

 

研究だけをやっていたのではダメだ。それをどうやって世の中に役立てるかを考えよ。

 

 

 

日本は開国して日も浅く、何ひとつ欧米諸国に肩を並べられるものがない。世界的に評価される学者も出ていない。だから、私が世界的な学者になるのだ。

 

 

学者は、高尚な研究で自己満足してはいけない。これを実際に応用して社会に貢献することこそ、本分である。

 

 

 

君、人に熱と誠があれば何事でも達成するよ。よく世の中が行き詰まったと云う人があるが、是は大いなる誤解である。世の中は決して行き詰まらぬ。若し行き詰まったものがあるならば、これは熱と誠がないからである。

 

 

 

事を処してパイオニアたれ。

 

 

 

 

「テルモ株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

1921(大正10)年9月 第一次世界大戦の影響で輸入が途絶えた体温計を国産化するために、北里柴三郎博士をはじめとした医学者が発起人となり、優秀な体温計の国産化をめざして「赤線検温器株式会社」を設立。東京市下谷区、現在の台東区御徒町で産声を上げました。

 

当時、日本で使われていた体温計の多くはドイツからの輸入品でした。
けれども、第一次世界大戦がはじまり、輸入品が入ってこなくなったことから、医師の間から「なんとか国産の良質な体温計がつくれないものか」という切実な声がわき起こってきました。
当時の東京医師会会長は、「これを機会に医師仲間で信頼のおける体温計製造会社をつくってみてはどうだろう」と考え、医学界のいわばスーパースターである北里博士に相談したのです。
北里博士は賛成し、テルモの前身の会社の設立にあたって設立趣意書の賛成人として名を連ね、設立総会では議長まで務めました。
北里博士は、「北里は今まで一商事会社の事柄にたずさわったことはない。医療用の体温計だから引き受けたのだ」と言われたそうです。

 

1922(大正11)年2月 初めて体温計を出荷する

1936(昭和11)年11月 「仁丹体温計株式会社」に商号を変更

 

1955(昭和30)年10月 体温計が国内生産量の30%を占め、第1位となる

1963(昭和38)年1月 医療の安全性を高めるために、国産初の使い切り注射筒を発売し、使い切り医療機器分野に進出。12月「株式会社仁丹テルモ」に商号を変更

 

1964(昭和39)年1月 日本で初めての使い切り注射針を発売

1969(昭和44)年7月 日本で初めての血液バッグを発売し、日本の血液事業を支える

 

1971(昭和46)年4月 アメリカに「テルモメディカル社」の前身である「テルモアメリカ社」を設立。海外事業に進出。5月ベルギーに「テルモヨーロッパ社」を設立

1973(昭和48)年7月 日本で初めてのソフトバッグ入り輸液剤を発売し、輸液剤分野に進出

 

1974(昭和49)年10月 「テルモ株式会社」に商号を変更

1977(昭和52)年2月 ホローファイバー型人工腎臓(ダイアライザー)を発売し、人工臓器分野に進出

 

1980(昭和55)年2月 日本で初めてソフトバッグ入り高カロリー輸液用基本液を発売

1982(昭和57)年4月 世界で初めてホローファイバー型人工肺を発売。6月 東京証券取引所市場第二部に株式上場

1983(昭和58)年12月 予測式電子体温計を発売

1984(昭和59)年11月 環境問題への配慮から、水銀体温計の生産廃止を決断

 

1985(昭和60)年5月 東京証券取引所市場第一部に指定。9月血管造影用カテーテルシステムを発売し、高機能カテーテル分野に進出

1988(昭和63)年2月 腹膜透析システムを発売し、在宅医療分野に進出

 

1989(平成元)年11月 神奈川県中井町に研究開発センターを含む湘南センターが完成

1995(平成 7)年12月 中国 浙江省杭州市に工場「泰爾茂医療産品(杭州)有限公司」を設立

 

1996(平成 8)年3月 中国 吉林省長春市に合弁企業「長春泰爾茂医用器具有限公司」を設立

1998(平成10)年4月 独バイヤスドルフ社との合弁会社「テルモバイヤスドルフ株式会社」を設立

 

1999(平成11)年6月 インドで血液バッグを製造する合弁会社「テルモ・ペンポール社」を設立。7月 米国3M社から人工心肺事業を買収し、「テルモ・カーディオバスキュラー・システムズ社」を設立

2000(平成12)年4月 「テルモ・フィリピンズ社」操業開始

 

2001(平成13)年9月 住友ベークライト社から在宅酸素事業を譲受し、「テルモメディカルケア社」を設立

2002(平成14)年5月 ダイアライザー事業の旭メディカル(株)への営業譲渡。6月 研究開発センターの敷地内に、テルモメディカルプラネックス建設。10月人工血管の製造販売会社である英国、バスクテック社を買収

 

2003(平成15)年1月 アメリカに「テルモハート社」を設立

2006(平成18)年3月 米国マイクロベンション社を買収。4月ベトナムに「テルモベトナム社」を設立

 

2007(平成19)年1月 チリに「テルモチリ社」を設立。3月ドイツ コーラー社より人工心臓弁事業を譲受。4月 「オリンパス テルモ バイオマテリアル社」を設立。8月補助人工心臓、欧州で発売

2008(平成20)年2月 薬剤溶出型冠動脈ステント、欧州で発売。6月クリニカル・サプライ社の株式を譲受

 

2010(平成22)年1月 「テルモアメリカスホールディング社」を設立

2011(平成23)年4月 補助人工心臓、日本で発売。4月 輸血関連事業分野の世界的大手企業である米国カリディアンBCT社を買収。細胞治療などの分野で高い技術力を持つ米国ハーベスト・テクノロジーズ社を買収。8月「泰尓茂(中国)投資有限公司」を設立。11月「テルモアジアホールディングス社」設立

 

2012(平成24)年1月 Onset Medical社(米国)の大口径シース技術を獲得。4月オーストリアに支店開設。8月 国連グローバル・コンパクトに参加。12月 中国 威高(ウェイガオ)社と腹膜透析事業の合弁会社を設立

2013(平成25)年1月 ベトナムに「テルモBCTベトナムCo., Ltd.」を設立。2月 ロシアに「テルモロシアLLC」を設立。3月 ポーランドMedservice Sp. Z.o.o.を買収。7月「テルモインディアプライベートLtd.」を設立

 

2014(平成26)年1月 「テルモメディカルイノベーション, Inc.」を設立

2015(平成27)年9月 世界初の心不全治療用の再生医療等製品として、ヒト(自己)骨格筋由来細胞シートの製造販売承認を取得(2016年発売)

 

2016(平成28)年6月 脳動脈瘤治療デバイスの製造販売会社である米国シークエントメディカル, Inc.を買収

2017(平成29)年1月 米国セント・ジュード・メディカル社とアボットラボラトリーズ社のカテーテル関連事業の一部を買収。3月大動脈瘤治療に用いるステントグラフトの製造販売会社である米国ボルトンメディカル, Inc.を買収

 

 

 

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