豊かな社会の実現に
貢献することを目指して
所期奉公
事業を通じ、物心共に豊かな社会の実現に努力すると同時に、かけがえのない地球環境の維持にも貢献する。
処事光明
公明正大で品格のある行動を旨とし、活動の公開性、透明性を堅持する。
立業貿易
全世界的、宇宙的視野に立脚した事業展開を図る。
岩崎弥太郎。
1835年1月9日、土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市井ノ口甲一ノ宮)の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれる。
岩崎家は甲斐武田の末裔だといわれる。
それゆえに、家紋も武田菱に由来する「三階菱」。岩崎氏は永らく安芸氏に仕え、のち長宗我部氏に仕えた。
山内氏入国後は山野に隠れて農耕に従事していたが、江戸中期にいたり郷士として山内氏に仕えるようになった。
郷士は、平時は農耕に従事しているが一朝事あるときは駈けつける「半農半士」で岩崎氏も彌太郎の曽祖父のときついに郷士の資格を売って食いつながざるをえないところまで追いつめられた。
弥太郎が生まれたとき、岩崎家は正確には「元」郷士の家であり、地下浪人といわれる立場だった。
弥太郎は伯母が嫁いだ土佐藩随一の儒学者岡本寧浦(ねいほ)について学んだ。
元々江戸に行きたがっていた弥太郎は、安政元(1854年)年、江戸詰めとなった奥宮慥斎の従者として江戸へ行き、昌平坂学問所教授安積艮斎の見山塾に入塾する。
安政2年(1855年)、父親が酒席での庄屋との喧嘩により投獄された事を知り帰国。
田に引く水のこと、年貢のこと、庄屋と百姓たちはことごとくもめており、それを弥太郎の父・弥次郎が中に入ってなんとか話をつけたが、手打ちの宴席で殴り合いになってしまった。
奉行所に訴えたが、証人は庄屋の味方をし、「不正を罷り通すがが奉行所かよ」と訴え、壁に墨で「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」と大書したため投獄された。
この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業の道に進む機縁となった。
出獄後、村を追放されるも安政5年(1858年)、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、後藤象二郎らの知遇を得る。
東洋が参政となるとこれに仕え、藩吏の一員として長崎に派遣され、清朝の海外事情を把握するためであった。
イギリス人やオランダ人など「異人」と通訳を介して丸山花街で遊蕩し、資金がなくなり、帰国するが無断帰国であったため罷免され、官職を失った。
この頃、27歳で弥太郎は借財をして郷士株を買い戻し、長岡郡三和村の郷士・高芝重春(玄馬)の次女喜勢をと結婚した。
吉田東洋が武市半平太らの勤皇党によって暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。
しかし、必要な届出に不備があったことを咎められ帰国。
武市一派の讒言によるものだった。
弥太郎にとって不本意な帰国だったが、同じ東洋門下で同行を続けた井上佐市郎や広田章次は、大坂に着いたところで岡田以蔵らによって暗殺されてしまい、命びろいする。
帰国後、弥太郎は農事に精を出した。
慶応元年(1865年)、官有林払下げ許可が下りた。
慶応3年(1867年)、吉田東洋門下の福岡藤次に同行を求められ長崎へ行く。
そのころ土佐藩は開成館長崎商会を窓口に、欧米商人から船舶や武器を輸入したり、木材並びに樟脳、鰹節など藩物産を販売しており、吉田東洋の甥の後藤象二郎が弥太郎に、その長崎商会の主任を命じた。
貿易商人ウォルシュ兄弟や武器商人グラバーと取引し、維新後グラバーは三菱に雇われた。
尚、米国人ウォルシュ兄弟が神戸に持っていた製紙会社は三菱製紙の基となった。
坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、慶応3(1867)年、長崎商会に赴任した彌太郎は土佐藩のために金策に走り、蒸気船や武器弾薬を買いつけ、さらには海援隊の活動をも支えた。
神奈川(現在の横浜港)や兵庫(現在の神戸港)が開港したことにより長崎は独占的な対外窓口ではなくなったため、弥太郎は後藤象二郎に転勤を頼み、明治元年(1868年)、開成館大阪出張所(大阪商会)に移り、責任者に抜擢された。
明治政府が藩営事業を禁止しようとしたため、明治2年(1869年)10月、土佐藩首脳林有造は海運業私商社として土佐開成社、後の九十九(つくも)商会を立ち上げた。
代表は海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之助、弥太郎は事業監督を担当した。
主たる事業は海運。
高知・神戸間に加え、東京・大阪間の貨客輸送も担う。
かたわら外国商館や大阪商人との物産の売買、それに紀州藩から取得した炭坑の経営も行った。
明治3年(1870年)には土佐藩の少参事に昇格し、大阪藩邸の責任者となり、英語習得を奨励した。
明治4年(1871年)の廃藩置県で弥太郎は土佐藩官職位を失い、後藤象二郎や板垣退助に説得され、九十九(つくも)商会の経営を引き受けた。
実業家岩崎彌太郎の誕生となった。
九十九商会は、藩船3隻払下げを受け貨客運航、鴻池や銭屋に抵当として抑えられていた藩屋敷を買い戻した。
当時のライバル三井、鴻池、小野組などと比較しても、九十九商会は高知~神戸航路、東京~大阪間の輸送で上潮だった。
明治6年(1873年)、三菱商会へ社名変更し、明治7年本店を東京日本橋の南茅場町に移し、三菱蒸汽船会社へ社名変更した。
また岡山県の吉岡銅山を入手した(現在の三菱マテリアル)。
さらに、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出したタイミングで、各藩が発行していた藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得るなど、時代の先見性も発揮した。
明治7年、台湾出兵で政府は軍事輸送を三菱に委託。
結局台湾出兵は英国公使の調停によって、清は50万元の賠償金を払うなどの条約が締結された。
功績を挙げた三菱に対し、明治8年、日本国郵便蒸汽船会社は解散に追い込まれた。
三菱への特別助成を交付し、日本国郵便蒸汽船会社の船舶18隻が無償供与され、政府御用達の意味を込めて「郵便汽船三菱会社」と社名変更した。
海運界のトップに伸し上がった。
三菱のライバル米国のパシフィック・メイル(PM)社、そして英国のピー・アンド・オー(P&O)社とも競合したが、政府と協業の下、各種航路を獲得していった。
明治政府は三菱に命じ、明治8年霊岸島に三菱商船学校が設立(東京商船学校)、明治11年、神田錦町に三菱商業学校が設立された。
明治10年(1877年)の西南戦争で、三菱は定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸送に注ぎ込み、全社をあげての取り組みは、総勢7万にのぼる政府軍の円滑な作戦展開を支えた。
鎮圧後、三菱は、無償供与された船舶30隻の代金として120万円を上納したのち、買い増して所有船61隻となり、日本の汽船総数の73%を占めた。
明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失う。
大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。
明治13年(1880年)、東京風帆船の株を買い占め、東京株式取引場と東京米殻取引株を買収。
明治14年(1881年)、借金漬けの後藤象二郎支援のため高島炭鉱を買い取り、長崎造船所も入手した。
明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。
三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、ダンピング合戦の泥沼に突入し、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられた。
明治18年(1885年)2月7日18時30分、弥太郎は満50歳で病死した。
4月、政府はハラを決め、共同の海軍出身の社長を更迭。
その上で、三菱・共同の首脳会談をセットした。
川田小一郎と井上馨のギリギリの話し合いで両社の合併が決まり、伊藤博文、松方正義ら実力者も諒解した。
三菱は海運事業部門を手放すことになったが、三菱は彌之助が引き継ぎ、その後の三菱グループの原型を作り上げていった。
一、天の道にそむかない
二、子に苦労をかけない
三、他人の中傷で心を動かさない
四、一家を大切に守る
五、無病の時に油断しない
六、貧しい時のことを忘れない
七、忍耐の心を失わない
弥太郎の母、井ノ口村の地下浪人岩崎弥次郎に嫁いだ美和は、もともとは町医者の娘。
13歳で父を失い、15歳の時には母をも失った。
長兄、次兄とも医者になり、姉は土佐藩随一の儒者岡本寧浦に嫁いだ。
のちに弥太郎が実業界で成功してからも岩崎家の精神的支柱であり続け、いわばゴッドマザー的存在として一族の敬愛を一身に集めた。
孫のうち、彌太郎の長女春路が嫁いだ三菱の社員加藤高明(たかあき)と四女雅子の嫁いだ外交官幣原喜重郎も後に首相になった。
創業時の九十九商会が船旗号として採用した三角菱が現在のスリーダイヤ・マークの原型です。
これは岩崎家の家紋「三階菱」と土佐山内家の家紋「三ツ柏」に由来すると言われています。
後に社名を三菱と定める機縁ともなりました。
ひとたび着手せし事業は必ず成功を期せ。
およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである。
勤倹身を持し、慈善人にまつべし。
川や海に魚が群れをなしてくることがあるが、機会が訪れるのもそれと同じだ。それっ、魚が集まった、といって網をつくろうとするのでは、間に合わぬ。いつ魚がきても、すぐに捕えられるように、不断に準備をしていて、その場になってまごつかぬようにしておかなければならぬ。
機会は、人間一生のうちに誰でも、一度や二度は必ず来るものである。それをとらえそこねると、その人は一生立身できない。
決して投機的な事業を企てるなかれ。
部下を優遇するにつとめ、事業上の利益は、なるべく多くを分与すべし。
小僧に頭を下げると思うから情けないのだ。金に頭を下げるのだ。
酒樽の栓が抜けたときに、誰しも慌てふためいて閉め直す。しかし底が緩んで少しずつ漏れ出すのには、多くの者が気づかないでいたり、気がついても余り大騒ぎしない。しかし、樽の中の酒を保とうとするには、栓よりも底漏れの方を大事と見なければならない。
小事にあくせくするものは大事ならず。
創業は大胆に、事業を受け継ぐには小心で当たれ。
自信は成事の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。ゆえに事業は必成を期し得るものを選び、いったん始めたならば百難にたわまず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ。
国家的観念を持って全ての事業に当たれ。
日本で初めての株式会社といわれる坂本龍馬の海援隊が近江屋事件後に後藤象二郎に委ねられ、その後岩崎弥太郎に受け継がれて九十九商会となった企業の流れを汲んでいる。
九十九商会は、後に、三菱商会、三菱蒸汽船会社(後に郵便汽船三菱会社として2016年現在の日本郵船が分離)、三菱社と変遷している。
三菱財閥の4代目総帥、岩崎小弥太が確立した三菱の経営理念は「所期奉公」「処事光明」「立業貿易」である。
大正時代に入ってから第一次世界大戦にかけて、取り扱い品目数の飛躍的向上をみたため、小弥太は各事業部門を独立させ、三菱合資営業部は「立業貿易」の方針に則り、1918年(大正7年)に、総合商社である三菱商事として独立した。
第二次世界大戦後は三井物産と並んでGHQの直接指令によって解散し、174の会社に分裂したが、旧財閥系企業の活動制限緩和により、不二商事、東京貿易、東西交易の三社に集約された後、1954年(昭和29年)に旧三菱商事の清算会社であった光和実業が三菱商事の商号に復帰後、三社を吸収する形で大合同を果たして復活した。
1954年、総合商社・三菱商事が新発足し、東京・大阪両証券取引所に株式上場。
藤野忠次郎が社長に就任した1970年代より資源開発への直接投資(天然ガスや原料炭)を手掛けるようになり、1980年代には菱食などの食料流通などのバリューチェーンの構築を展開、1990年代に入り、コンビニエンスチェーンローソンを通じた消費者マーケットの開拓など、川上から川下までの領域にわたっての投資や経営参画を通じて収益を上げる体質変化を遂げ、収益拡大を続けている。
1968年、初の大型投資となるブルネイでのLNG開発事業への投資決定。オーストラリアやカナダの鉄鉱石・原料炭、メキシコの塩田事業に代表される、単なる商取引にとどまらない開発投資型ビジネスをグローバルに展開。
1971年、英文社名を“Mitsubishi Corporation”とする。
新たな収益体制の構築に向け、業務の合理化・効率化に着手。
1986年、社内に売上高より収益重視の方針を徹底し、経営計画「K-PLAN」を策定。
1989年には、ロンドン証券取引所に上場。
1992年、「健全なグローバル・エンタプライズ」を目標とする経営方針発表。
連結重視と資産の優良化を進めるとともに、組織・人材のグローバル化を強化。
1998年、経営計画「MC2000」を策定、事業の選択と集中、戦略分野の強化、顧客志向重視の方針を打ち出し、足場固めに着手した。
2001年、経営計画「MC2003」を策定。
バリューチェーンの拡大・収益力強化に加え、新規事業の創出を重点施策とするなど「攻めの経営」へ転じる。
2004年、経営計画「INNOVATION 2007」を策定。
2007年、イノベーション事業グループ、新産業金融事業グループを新設。
2008年、経営計画「INNOVATION 2009」を発表。
2009年、イノベーション事業グループを発展的に改組し、全社開発部門を設置。
2010年4月、全社開発部門を地球環境事業開発部門・ビジネスサービス部門に改組し拡充を図る。
2010年7月、経営計画「中期経営計画 2012」を発表。
収益モデルの多様化を踏まえたマネジメントシステムや経営インフラの整備を図る。
2013年5月「経営戦略2015」を発表。
2020年頃の姿を描き、非資源分野の安定収益を高めて、ポートフォリオの充実を図る。
2016年5月、経営計画「中期経営戦略2018」を発表。
2018年11月、経営計画「中期経営戦略2021」を発表。