患者様と生活者の皆様の喜怒哀楽を考えそのべネフィット向上を第一義とし世界のヘルスケアの多様なニーズを充足する
一人ひとりが法令と倫理を遵守したビジネス活動を徹底し いかなる医療システム下においても存在意義のある ヒューマン・ヘルスケア企業
エーザイは、ヘルスケアの主役が患者様とそのご家族、生活者であることを明確に認識し、そのベネフィット向上を通じてビジネスを遂行することを企業理念に掲げています。
この理念を一言に集約したものをhhc(ヒューマン・ヘルスケア)と呼び、社員一人ひとりが患者様の傍らに寄り添い、患者様の目線でものを考え、言葉にならない思いを感じ取ることが重要であると考えています。
そして、すべての社員が就業時間の1%を患者様と共に過ごすことを推奨しています。
現在では、この理念がエーザイグループの社員一人ひとりに浸透し、国籍・国境・性別・年代を超えて共有化され、日常業務として実践されています。
全社員が、患者様とそのご家族、生活者のベネフィット向上のために何をなすべきかを誰よりも早く着想し、それを試し、実証し、世界に発信していきます。
これが、私たちのめざしているヒューマン・へルスケアです。
フィロソフィーマーク「hhc(human health care)」は、献身的な看護活動や公衆衛生の発展に貢献したとされるフローレンス・ナイチンゲール(1820~1910)の精神に、“ヒューマン・ヘルスケア”に込められた思いを重ね合わせ、ナイチンゲールの直筆サインをもとにデザインされたものです。
内藤豊次。
福井県丹生郡糸生村(現・越前町)出身。
農家の3男坊で6番目の子供でした。
7歳のとき母が亡くなり、幼い豊次は朝5時に起きて、朝食を用意し、お弁当をつくって学校へ出かけ、1里半(6km)の山道を往復し、帰るとすぐ夕飯の支度をするという生活でした。
尋常小学校4年と高等小学校2年を終えた豊次は、武生(たけふ)中学校に進みます。
当時の中学は県の最高学府でした。
明治36年(1903年)武生中学校を2年で中退したが、この時点で旧制高等学校卒業程度の学力を持っていたためという。
中学、高校、大学と学歴コースの年数と学費をかけるよりも、当時はやりだした通信教育と実地勉強をしながら独学で身を立てることを決心し、中学は2年で中途退学します。
英語は、東京の国民英学会で勉強した義兄に習い、後の豊次のキャリアに大きく影響を与えます。
1905(明治38)年、15歳の豊次は故郷を離れ大阪に出ます。
最初は、貝ボタン工場で新米小僧として使い走りの仕事をしていましたが、英語力を買われ、ドイツ商館・ウィンケル商会に入社しました。
ウィンケル商会で、輸入や輸出業務を書物でなく実地で学びます。
勤務の傍ら、パルモア英学院(現・パルモア学院専門学校)に入学し翌年卒業。
その後、20歳で徴兵検査を受け、東京の近衛師団に入営しますが、豊次は生来、片目だけを閉じることができません。
射撃訓練の際に片目をつぶることができないため衛生兵となり、治療や薬の手ほどきを受けました。
明治42年(1909年)から2年間近衛師団歩兵第二連隊の衛生兵となり、この2年間の衛生兵としての経験が、豊次を薬の商売に入らせるきっかけとなりました。
除隊後、1911(明治44)年、豊次は第2の故郷である神戸に戻り、英国人が経営する薬局、タムソン商会へ入社しました。
その頃、タムソン商会は、欧州製薬企業の日本総代理店を引き受け、薬剤の知識と英語のできる日本人を求めていたのです。
薬の世界に入り、豊次は、軍隊仕込み程度の医薬の知識ではものの用をなさないことに気づき、薬に関する専門書の原書を、辞書を片手に片っぱしから読破するなど猛勉強を重ねました。
豊次は、海外から輸入した医薬品の製品説明書を翻訳し、それを携えて薬問屋を回り、老舗の販売元に輸入した新薬の取り扱いを取り付けていく。
また、病院や開業医にも直接販売するため、神戸だけでなく京都や大阪まで足を伸ばし、着実に輸入薬の販売下地を築いていった。
その労あって、豊次の医薬の知識は医師や薬剤師へも十分に対応できるレベルになり、新薬の情報提供のため京阪神から東京までの病医院を地道に訪問しました。
売り上げは年々向上、3年後には数人の社員を増やすまでに発展しました。
その後、エーザイの伝統となった社員のディテール(商品紹介)コンテストなど、医薬品の情報提供に重きをおく文化は、豊次のこの経験が生かされています。
1914年(大正3)、欧州で第1次世界大戦が勃発。
豊次が勤めていたタムソン商会も閉鎖の危機に陥りました。
豊次は身の振り方を、大阪・道修町の田辺五兵衛商店に相談したところ、東京・日本橋本町の支店(田辺元三郎商店、現在の田辺三菱製薬)で、海外との取引を一手に仕切っていた店主が病で倒れたので助けてほしいとのこと。
豊次は、その場で東京行きを決意し、1915年に上京しました。
大正4年(1915年)、東京の田辺元三郎商店(現・田辺三菱製薬)に入社。
サロメチール(鎮痛剤)、チミツシン(鎮咳剤)、ハリバ(粒肝油)などを手がける。
田辺元三郎商店に着任した豊次は、新薬開発と斬新な広告宣伝で、大戦後の不況や関東大震災の苦境を乗り切っていく。
新薬開発では、「ひまし油」を飲みやすくした『カスタロール』、塗る鎮痛剤『サロメチール』の2つの製品を開発し、戦後不況の打撃を受けた田辺元三郎商店を立て直した。
1924(大正13)年、日本で初めての血圧降下剤『アニマザ』を売り出す際に、「高血圧」という言葉を創製し、この三文字を大きく掲載した新聞広告を展開。
『アニマザ』の売り上げは増大した。
また、1933(昭和8)年には、『サロメチール』の新聞広告が、第1回新聞広告奨励会賞で最優秀賞に輝いている。
当時、最先端の薬の輸出国であったドイツが参戦し、日本の薬業界は大きな影響を受けました。
田辺元三郎商店で貿易業務を手がけていた豊次が海外に目を向けだしたのもこの頃からです。
1917(大正6)年には7カ月間の東南アジアの市場調査に、その後、1937(昭和12)年には、ドイツの客船で3カ月余り、欧米薬業界の視察へ出かけます。
豊次にとって、中国、インドの先の世界は幼少の頃からのあこがれの地でした。
欧米の先進製薬企業を自らの目で確かめたことで、新薬づくりや研究所の規模に開眼させられます。
1930年代に入ると、日本は軍国主義の色合いを強めていく。
これを背景に、国民の健康増進・体力向上が急務とされ、ビタミンAやビタミンDが脚光を浴びていた。
そこで、豊次はビタミンAやビタミンDを含む肝油剤『ハリバ』を開発。
従来の肝油は1日1杯(4g)を飲まなければならなかったが、『ハリバ』は1日1粒がセールスポイントだった。
新聞広告では「ハリバ肝太郎」という連載マンガを掲載するという斬新なプロモーションで、当時の田辺元三郎商店の全売上高の3分の2を占める商品に成長させた。
こうして、新薬開発と広告宣伝で活躍をした豊次であったが、日本の製薬業界が外国製品の輸入に頼りすぎていることへの憂いもあり、昭和11年(1936年)、田辺元三郎商店に在籍のまま、新薬研究開発を目的とした「合資会社桜ヶ岡研究所」を設立する。
豊次は研究員にビタミンE製剤『ユベラ』の開発を命じた。
これが、日本におけるビタミンE開発の本格スタートであった。
桜ヶ岡研究所は1938(昭和13)年、小麦胚芽油から抽出した日本で初のビタミンE剤『ユベラ』を開発したのをはじめ、生理用品『さんぽん』、薬用香粉『らへんで』などを世に出した。
この頃、桜ヶ岡研究所の工員は74人に膨れ上がり、三河島の敷地では手狭になっていた。
そこで、埼玉県本庄町(現、本庄市)の鶴巻製糸工場を買い取り、1941(昭和16)年12月6日、資本金18万円の日本衛材株式会社を設立(現在のエーザイの母体)。
豊次53歳、太平洋戦争が始まる2日前のことであった。
これは桜ヶ岡研究所を存続させるために、軍需生産を行うことを目的とした会社であった。
1942(昭和17)年5月、戦争を遂行する名目で、資本金50万円以下の企業は合併か廃業かを強制する企業整備令が公布された。
そのため、1944(昭和19)年12月26日、桜ヶ岡研究所と日本衛材は合併して存続することになった。
戦局が悪化し、本土空襲が始まる中、日本衛材の経営を支えたのは軍の携帯食(乾燥食糧)だった。
医薬品工場というより、軍の食糧工場という色合いを強めていた。
昭和18年(1943年)、田辺元三郎商店を退職(常務取締役)。
桜ヶ岡研究所と日本衛材の経営に専念する。
本社を東京都小石川区竹早町88番地(現・東京都文京区小石川)に移転し、豊次が社長に就任。
1945(昭和20)年8月15日、戦争が終結すると、日本衛材は民需中心の「平和産業」に切り替えることを決断し、民需製品の開発に力を注いだ。
当時、戦後の日本ではベビーブームが起こっていた。
そんな折、英国の医学雑誌「Lancet」に掲載された、酢酸フェニール水銀の避妊効果に関する論文を目にした豊次は、女性用避妊薬『サンプーン』を開発し、1948(昭和23)年に発売した。
豊次は自ら全国各地を回り、“計画産児”を啓発する講演を行った。
戦後の混乱期を乗り越え、1951(昭和26)年上期は、創業以来初の黒字決算となった。
そしてこの年、長らくエーザイを支え続けることになるヒット商品が生み出された。
チョコラブランドの第1号『チョコラA』である。
夜盲症、皮膚乾燥症、小児の栄養障害などに幅広く用いられた『チョコラA』は順調に売上を伸ばし、その後、『チョコラC』、『チョコラD』を相次いで発売した。
1953(昭和28)年には喘息剤『アストフィリン』、消化性潰瘍治療剤『メサフィリン』などの新製品が発売され、事業は急成長した。
さらに、1955(昭和30)年5月、社名を「呼びやすく、かつ書きやすく」との考えから、日本衛材株式会社からエーザイ株式会社へと改名。
こうして、戦時中、軍需産業として出発した日本衛材株式会社は、新社名「エーザイ」のもと、新たにやってくる高度経済成長の時代を迎えようとしていた。
カタカナ表記にした理由は「第1に、書くのに手間がかかる。第2に、電話帳で引いても「日本」という字が何ページも続いていて見つけるのに骨が折れる。第3に、衛材の字が包帯材料業なるかのごとき印象を与えやすい。」という理由からでした。
昭和41年(1966年)、社長を退き、代表取締役会長に就任。
昭和44年(1969年)に内藤記念科学振興財団を設立し理事長に就任。
昭和45年(1970年)に名誉会長となり経営から退く。
昭和53年(1978年)3月20日死去。享年88。
天は自ら助くるものを助く
(サミュエル・スマイルズ「西国立志編」より)
働けることが、いちばんの幸せ
長生きしても体が弱くては。早くから健康の習慣づくりを
定年から、人生再出発
若いときからそのつもりで、体力づくりに気を配る
夜の宴会には、出ない習慣
社交上にはマイナスでも、健康上にはプラスになる
昼は鬼、夜は仏
家庭は安息の場所、すべてを忘れてのんびりと
よく眠れば、気分爽快
毎晩10時には床につき、5時前後までぐっすりと
楽しい朝食づくり
生野菜とミカンのビタミン食、おいしい半熟卵も
毎朝、歩きながらの体操
首や手や腹の屈伸運動で、関節や筋肉の硬直がほぐれる
健康で文化的な住まい
台所、バス、トイレを衛生的に、居間や寝室には通風と採光を
色:赤い血は動脈から、青い血は静脈から、心臓を中心に一刻も休まずに活動しつづけている。われわれの仕事はこの動きが滞らないようにと、健康を保ち生命を続けさせることである。
形:われわれの活動する舞台は東も西もない。人類のあるところ、これすべてひとしくわれわれの活動を待ちうけている。目標の重点は上や下がなくて中堅であり、中庸であり、中央であり、健全なる調和である。
また、エーザイの欧文表記は「Eisai Co., Ltd.」と定められているのですが、“Eizai”でなく“Eisai”とした理由は文書に残されていません。
社員たちの言い伝えによると、以下の点があげられるといいます。
医学は、ドイツが本家であり、“sa”は、ドイツ語読みで、「サ」でなく「ザ」である。
「s」は、形がきれい。「z」は、アルファベットでは最後の文字で、終わりを意味する。
製薬業の核になるのは研究室でなくてはならない
本気になるから、知恵が出る。知恵が浮かばないのは本気で研究していない証拠。頭の良し悪しとは関係がない。努力しても知恵が浮かばなければ、もっと努力する。知恵は無限の経営資源。
神も仏も、むろん他人も頼むに足らず、頼りになるのは自分自身以外にはない。自らを良くするには自分自身で勉強し、工夫し、努力する以外に秘訣などありようがなく、それに励めば良くなり、怠れば当然の報いとして悪くなる。
1889年(明治22年)8月15日、福井県丹生郡糸生村にて、創業者・内藤豊次が、父・内藤菊次と母・ふじの間に第6子(3男)として誕生
1905年(明治38年)豊次、15歳で故郷を旅立ち、上阪
1906年(明治39年)豊次、ウィンケル商会に就職し、夜間は英語のほか、ドイツ語や中国語、簿記も学んだ
1909年(明治42年)豊次、ウィンケル商会を退社して、東京・九段の近衛第2連隊に入隊
1911年(明治44年)豊次、除隊後、タムソン商会に就職し、輸入薬品を取り扱い
1914年(大正3年)第一次世界大戦が開戦
1915年(大正4年)豊次、上京して田辺元三郎商店(現、田辺三菱製薬)に就職
1917年(大正6年)豊次、約7ヵ月間の東南アジア視察へ
1921年(大正10年)豊次、田辺元三郎商店にて、芳香ひまし油『カスタロール』、マッサージ薬『サロメチール』の開発に携わる
1924年(大正13年)豊次、田辺元三郎商店にて、日本で初めての血圧降下剤『アニマザ』を取り扱い。キャッチコピー“高血圧”の三文字は豊次の創作
1933年(昭和8年)豊次が田辺元三郎商店在職中に携わった『サロメチール』の新聞広告が、第1回新聞広告奨励会賞で最優秀賞を受賞
田辺元三郎商店にて、ビタミンA剤(1粒肝油)『ハリバ』を発売
1936年(昭和11年)「合資会社桜ヶ岡研究所」(東京)を設立
1937年(昭和12年)豊次、欧米の薬業界視察へ
1938年(昭和13年)ビタミンE剤『ユベラ』を発売
内柔外硬の球形でチョコレート色のコーティングをし、洒落た包装で注目を集めた
日本で初めての内装式生理用品『さんぽん』を開発
1941年(昭和16年)埼玉県本庄町に「日本衛材株式会社」を設立
1944年(昭和19年)「合資会社桜ヶ岡研究所」と「日本衛材株式会社」は対等合併により「日本衛材株式会社」となる
1950年(昭和25年)戦後のベビーブームを機に研究開発を進めていた避妊薬『サンプーン錠』が国家検定にパス
強心剤『ネオフィリン』を日本で発売
1952年(昭和27年)高単位B2B1剤『チョコラBB錠』を日本で発売
乗物酔防止薬『トラベルミン錠』を日本で発売
1955年(昭和30年)社名を「エーザイ株式会社」に改称
1957年(昭和32年)第1次長期計画「三六計画」がスタート
本社ビル(東京)が竣工
1961年(昭和36年)第2次長期計画「三八計画」がスタート
台湾に事務所を開設(台北支店)
東京・大阪証券取引所第1部に上場
緑の胃ぐすり『サクロン』『サクロン錠』を日本で発売
1964年(昭和39年)豊次、日本宣伝賞を受賞
※日本の宣伝・広告の発展に寄与した人物に与えられる名誉賞
1966年(昭和41年)
「川島工場」(岐阜県)を開所
創業者・内藤豊次が会長となり、内藤祐次が社長に就任
代表取締役会長・内藤豊次、代表取締役社長・内藤祐次、代表取締役専務・内藤達雄の3代表権体制となった
1969年(昭和44年)台湾に医薬品輸入会社を設立
1970年(昭和45年)インドネシアに医薬品の製造・販売会社を設立
内藤豊次は代表取締役会長を辞任し取締役名誉会長に就任
1971年(昭和46年)日本初の「くすり博物館」(岐阜県)を開館
1974年(昭和49年)マレーシア、フィリピンに医薬品販売会社を設立
代謝性強心剤『ノイキノン』を日本で発売
1977年(昭和52年)天然型ビタミンE剤『ユベラックス』を日本で発売
1978年(昭和53年)創業者・内藤豊次逝去、享年89歳
末梢性神経障害治療剤『メチコバール』を日本で発売
1979年(昭和54年)シンガポールに医薬品の販売支援・経営サービスの会社を設立
1981年(昭和56年)米国(カリフォルニア州)に化学品・製薬用機械の販売会社を設立
「美里工場」(埼玉県)を開所
1982年(昭和57年)「筑波研究所」(茨城県)を開所
1983年(昭和58年)原薬製造の「エーザイ化学株式会社」(現:鹿島事業所、茨城県)を設立
1984年(昭和59年)胃潰瘍治療剤『セルベックス』を日本で発売
1987年(昭和62年)医療功労賞への協賛開始(~2015年(平成27年))
3年ごとの中期計画から5年ごとの「新5ヵ年戦略計画」に移行
米国(マサチューセッツ州)に探索研究会社を設立(ボストン研究所)
1988年(昭和63年)内藤祐次が会長となり、内藤晴夫が社長に就任
米国(ニュージャージー州)に臨床研究会社を設立
英国(ロンドン)に臨床研究会社を設立
1989年(平成元年)ドイツ(ケルン)に製薬用機械販売会社を設立
タイ(バンコク)に医薬品販売会社を設立
1990年(平成2年)内藤晴夫「エーザイ・イノベーション」を提唱
英国ロンドン大学構内に探索研究会社を設立(ロンドン研究所)
1991年(平成3年)香港に医薬品販売会社を設立
中国(北京)に駐在員事務所を開設
中国(瀋陽)に医薬品の製造・販売の合作会社を設立
創業50周年を迎える
1992年(平成4年)めざす企業像と企業理念を制定
米国(ニュージャージー州)に持株会社を設立
英国の「ロンドン研究所」が竣工し、研究開発の三極体制が構築
1993年のロンドン研究所開所式にアン妃殿下がご臨席された
1995年(平成7年)米国(ニュージャージー州)、英国(ロンドン)、ドイツ(フランクフルト)に医薬品販売会社を設立
1996年(平成8年)フランス(パリ)に医薬品販売会社を設立
中国(蘇州)に医薬品の製造・販売会社を設立
ジェネリック医薬品販売会社「エルメッドエーザイ株式会社」(東京)を設立
1997年(平成9年)生命科学分野を研究する「株式会社カン研究所」(大阪府、現在は兵庫県)を設立
韓国(ソウル)に医薬品の販売会社を設立
米国(ノースカロライナ州)に製剤化研究・医薬品生産施設を竣工
アルツハイマー型認知症治療剤『アリセプト』を米国、英国、ドイツで発売
プロトンポンプ阻害剤『パリエット』を日本で発売
1998年(平成10年)『アリセプト』をフランスで発売
『パリエット』を英国、ドイツで発売
1999年(平成11年)『アシフェックス』(日本製品名:パリエット)を米国で発売
『アリセプト』を日本で発売
2001年(平成13年)米国で同時多発テロ事件が勃発
スペイン(マドリッド)に医薬品販売促進会社を設立
2002年(平成14年)第4期中期戦略計画「ミレニアム計画」がスタート
米国(ニュージャージー州)に医薬品の臨床研究会社を設立
2004年(平成16年)委員会等設置会社へ移行
英国(ロンドン)に欧州統括会社(持株会社)を設立
インド(ムンバイ)に医薬品販売会社を設立
2005年(平成17年)イタリア(ミラノ)、スイス(チューリッヒ)、スウェーデン(ストックホルム)に販売会社を設立
定款に企業理念を明記
取締役名誉会長(2代目社長)・内藤祐次逝去、享年85歳
2006年(平成18年)第5期中期戦略計画「ドラマティック リープ プラン」がスタート
シンガポールに医薬品販売会社、臨床研究会社を設立
米国「ライガンド社」から抗がん剤4品を製品買収
ポルトガル(リスボン)に医薬品販売会社を設立
2007年(平成19年)英国(ハートフォードシャー)に医薬品生産会社を設立
米国バイオベンチャー企業の「モルフォテック社」を買収
インド(バイザッグ)に医薬品の原薬・製剤の生産および研究開発会社を設立
ベルギー(ブリュッセル)に医薬品販売会社を設立
2008年(平成20年)米国バイオファーマ企業の「MGIファーマ」を買収
中国(上海)に製薬用機械販売支援・メンテナンス会社を設立
関節リウマチ治療剤『ヒュミラ』を日本で発売
2009年(平成21年)オーストリア(ウィーン)に医薬品販売会社を設立
英国(ハートフォードシャー)に欧州戦略拠点「欧州ナレッジセンター」を開設
研究開発部門のグローバル新体制「エーザイプロダクトクリエーションシステムズ(EPCS)」をスタート
内藤晴夫、国際製薬団体連合会会長に就任
インド(バイザッグ)に生産・プロセス研究拠点「エーザイ・ナレッジセンター・インド」を開設
2010年(平成22年)「小石川ナレッジセンター」(東京)が竣工(第24回 日経ニューオフィス推進賞受賞)
カナダ(オンタリオ州)に医薬品販売会社を設立
生産部門のグローバル新体制「エーザイデマンドチェーンシステムズ(EDCS)」をスタート
中国(江蘇省)に医薬品貿易会社を設立
抗がん剤『ハラヴェン』を米国で発売
WHOとリンパ系フィラリア症治療薬の無償提供に関する共同声明文に調印
米国に「H3 Biomedicine Inc.」を設立
2011年(平成23年)第6期中期戦略計画「はやぶさ」がスタート
ブラジル(サンパウロ)に医薬品販売会社を設立
『ハラヴェン』を日本、欧州で発売
メキシコ(メキシコシティ)に医薬品販売会社を設立
2012年(平成24年)顧みられない熱帯病制圧に向けたコミットメントを表明(ロンドン宣言)
内藤晴夫、日本製薬団体連合会会長に就任
抗てんかん剤『Fycompa』を欧州で発売
2013年(平成25年)ロシア(モスクワ)に医薬品販売会社を設立
一般社団法人グローバルヘルス技術振興基金設立に参画(日本初の開発途上国向けの新薬開発支援基金)
肥満症治療剤『BELVIQ』米国で発売
インド・バイザッグ工場で製造するリンパ系フィラリア症治療薬「ジエチルカルバマジン」をWHOへ無償提供開始
2014年(平成26年)『Fycompa』を米国で発売
中国(蘇州)に統括会社を設立
2015年(平成27年)抗がん剤『レンビマ』米国、日本、欧州で発売
中国ジェネリック医薬品企業「遼寧天医生物製薬株式有限公司」の買収完了(新社名「衛材(遼寧)製薬有限公司」)
2016年(平成28年)第7期中期経営計画「EWAY2025」がスタート
消化器スペシャリティファーマEAファーマ株式会社発足
『フィコンパ』を日本で発売
2017年(平成29年)非感染性疾患対策に取り組むグローバルパートナーシップに参画
リンパ系フィラリア症の制圧に向けた継続支援を発表
Aducanumabを含むアルツハイマー病治療剤の開発・販売に向けたバイオジェンとの提携契約を拡大
2018年(平成30年)『レンビマ』に関する戦略的提携について米メルク社と合意
中国の新蘇州工場が本格稼働
『レンビマ』(肝細胞がん)を中国で発売