Hondaフィロソフィーは、「人間尊重」「三つの喜び」から成る“基本理念”と、“社是”“運営方針”で構成されています。
Hondaフィロソフィーは、Hondaグループで働く従業員一人ひとりの価値観として共有されているだけでなく、行動や判断の基準となっており、まさに企業活動の基礎を成すものといえます。
Honda は「夢」を原動力とし、この価値観をベースにすべての企業活動を通じて、世界中のお客様や社会と喜びと感動を分かちあうことで、「存在を期待される企業」をめざして、チャレンジを続けていきます。
人間尊重
自立
自立とは、既成概念にとらわれず自由に発想し、自らの信念にもとづき主体性を持って行動し、その結果について責任を持つことです。
平等
平等とは、お互いに個人の違いを認めあい尊重することです。また、意欲のある人には個人の属性(国籍、性別、学歴など)にかかわりなく、等しく機会が与えられることでもあります。
信頼
信頼とは、一人ひとりがお互いを認めあい、足らざるところを補いあい、誠意を尽くして自らの役割を果たすことから生まれます。
Hondaは、ともに働く一人ひとりが常にお互いを信頼しあえる関係でありたいと考えます。
買う喜び
Hondaの商品やサービスを通じて、お客様の満足にとどまらない、共鳴や感動を覚えていただくことです。
売る喜び
価値ある商品と心のこもった応対・サービスで得られたお客様との信頼関係により、販売やサービスに携わる人が、誇りと喜びを持つことができるということです。
創る喜び
お客様や販売店様に喜んでいただくために、その期待を上回る価値の高い商品やサービスをつくり出すことです。
わたしたちは、地球的視野に立ち、世界中の顧客の満足のために、質の高い商品を適正な価格で供給することに全力を尽くす。
・常に夢と若さを保つこと。
・理論とアイディアと時間を尊重すること。
・仕事を愛しコミュニケーションを大切にすること。
・調和のとれた仕事の流れをつくり上げること。
・不断の研究と努力を忘れないこと。
本田宗一郎。
1906年(明治39年)11月17日、静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜区)で鍛冶屋をしていた本田儀平と妻・みかの長男として生まれる。
1913年(大正2年)光明村立山東尋常小学校(現・浜松市立光明小学校)に入学。在校中に自動車を初めて見る。アート・スミスの曲芸飛行を見学するため、遠く離れた浜松町和地山練兵場まで自転車を三角乗りで訪れ、飛行機を初めて見るなどの経験をする。
1919年(大正8年二俣町立二俣尋常高等小学校(現・浜松市立二俣小学校)入学。
1922年(大正11年)高等小学校卒業、東京市本郷区湯島(現・東京都文京区湯島)の自動車修理工場「アート商会」(現在のアート金属工業)に入社(当時の表現で「丁稚奉公」)。半年間は、社長の子供の子守りばかりであった。
1928年(昭和3年アート商会に6年勤務後、のれん分けのかたちで浜松市に支店を設立して独立。宗一郎ただ1人だけが社長の榊原郁三からのれん分けを許された。
1935年(昭和10年)小学校教員の磯部さちと結婚。
1937年(昭和12年)自動車修理工場事業を順調に拡大、「東海精機重工業株式会社」(現・東海精機[2]株式会社)の社長に就任。エンジンに欠くべからざる部品としてピストンリングに目をつけるが、経験からだけではどうにもならない学問的な壁に突き当たり、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、3年間金属工学の研究に費やす。
1939年(昭和14年)アート商会浜松支店を従業員の川島末男に譲渡し、東海精機重工業の経営に専念する。
1942年(昭和17年)豊田自動織機が東海精機重工業に出資、自らは専務に退く。
1945年(昭和20年)三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入る。
1946年(昭和21年10月、浜松市に本田技術研究所 (旧)設立。39歳の宗一郎は所長に就任。
1948年(昭和23年)本田技研工業株式会社を浜松に設立。同社代表取締役就任。資本金100万、従業員20人でスタート。二輪車の研究を始める。
1949年(昭和24年)のちにホンダの副社長となる藤沢武夫と出会い、ともにホンダを世界的な大企業に育て上げる。
1973年(昭和48年)本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任することを発表。研究所所長は続けた。
1981年(昭和56年)勲一等瑞宝章を受章。
1983年(昭和58年)取締役も退き、終身最高顧問となる。
1989年(平成元年)アジア人初のアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たす。
1991年(平成3年)8月5日、東京・順天堂大学医学部附属順天堂医院で肝不全のため死去。84歳没。
技術者は哲学を持て。
ジョークを言えない人とは付き合えない。仕事だってなめらかにできない。そういうことを案外忘れているのじゃないか。借り着で表現している人は偉い人、自分の個性で表現すると下品だということになる。だから私なんかは、いつでも下品の烙印を押されてしまう。漫才みたいなことを言って、締めるところはきちっと締めるから、みんな安心して平等感を味わってくれる。
私はたえず喜びを求めながら生きている。そのための苦労には精一杯、耐える努力を惜しまない。
私の最大の光栄は、一度も失敗しないことではなく、倒れるごとに起きるところにある。私の現在が成功というのなら、私の過去はみんな失敗が土台作りをしていることになる。私の仕事は失敗の連続であった。何かを深く信じれば、誰でも自分の中に大きな力を見つけだし 自分を乗り越えることができる。
すぐれたジョークは、すぐれたアイデアに通じる。
成功者は、例え不運な事態に見舞われても、この試練を乗り越えたら必ず成功すると考えている。そして、最後まで諦めなかった人間が成功しているのである。耐える心に、新たな力が湧くものだ。全てそれからである。心機一転、やり直せばよいのである。長い人生の中で、そのための一年や二年の遅れは、モノの数ではない。
人生は「得手に帆あげて」生きるのが最上だと信じている。
勇気というのは強いからとか、勇ましいから勇気があるというのではない。たとえ、自分にとってどんなに不利な結果になろうとも、自分が真実であり、妥当であると考えたことを認め、それに賛成することこそが勇気である。
私は自分と同じ性格の人間とは組まないという信念を持っていた。
人生は見たり、聞いたり、試したりの3つの知恵でまとまっているが、多くの人は見たり聞いたりばかりで一番重要な『試したり』をほとんどしない。ありふれたことだが失敗と成功は裏腹になっている。みんな失敗を恐れるから成功のチャンスも少ない。
創業当時、私が「世界的視野に立ってものを考えよう」と言ったら噴き出したヤツがいた。
発明は恋愛と同じです。苦しいと思えば苦しい。楽しいと思えばこれほど楽しいことはありません。発明考案にしても、人より一分でも一秒でも早ければ、特許になる。すべてスピードじゃないですか。だから、スピードを否定したら、発明的創意工夫もないし、そこにウィットもないはずです。
自分は自分である。私は、他人の真似をするのが大嫌いである。私は真似が嫌いだから、うちはうちの作り方でやろうということで苦労をしたわけである。しかし、かれらに追いつくまでに時間をかけて努力したことが、追いついてからのちの技術力の差になった。
人間、生をうけた以上どうせ死ぬのだから、やりたいことをやってざっくばらんに生き、しかるのち、諸々の欲に執着せずに枯れ、そして死んでいくべき、という考え方だ。人間というものは、面白いものであり、不思議なものであり、必要のない人間というのはいないのである。
時間だけは神様が平等に与えて下さった。これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、うまく利用した人がこの世の中の成功者なんだ。長い目で見れば人生にはムダがない。身のまわりにいくらでも転がっている幸福から、自分のものを選び出し、それを最高のものに高めることだね。
われわれは勝負師ではない。負けても何が原因で負けたのかを追求することに意義がある。進歩とは反省のきびしさに正比例する。
人間が進歩するためには、まず第一歩を踏み出すことである。躊躇して立ち止まっては駄目である。なぜなら、そこにどんな障害があろうと、足を踏み込んで始めて知れるからだ。失敗はその一歩の踏み込みだと思う。前進の足踏みだと思う。
資本がないから事業が思わしくないとの声をよく聞くが、それは資本がないからではなく、アイデアがないからである。
我々は、最初から苦しむ方向をとったから、あとは楽になった。真似をして楽をしたものは、その後に苦しむことになる。研究者として大事なところはそこだろうと、私は今でも考えている。一度、真似をすると、永久に真似をしてゆくのである。創意工夫、独立独歩、これをつらぬくにはたゆまぬ努力がいるし、同時に、ひとりよがりに陥らぬための、しっかりした哲学が必要となるわけだ。
人間にとって大事なことは、学歴とかそんなものではない。他人から愛され、協力してもらえるような徳を積むことではないだろうか。そして、そういう人間を育てようとする精神なのではないだろうか。
私はうちの会社のみんなに、「自分が幸福になるように働け」っていつもいってるんですよ。会社のためでなく、自分のために働けって。私はたえず喜びを求めながら生きている。そのための苦労には精一杯に耐える努力を惜しまない。
社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない。
こちらが望んでいること、こうやりたいと欲していることをスムーズに受け入れてもらうためには、まず先方の心を知らねばならない。人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになれる人である。そのかわり、他人の気持ちになれる人というのは自分が悩む。自分が悩んだことのない人は、まず人を動かすことはできない。
人間に必要なのは困ることだ。絶体絶命に追い込まれたときに出る力が本当の力です。百のうち九十九は失敗。伸びる時には必ず抵抗がある。飛行機は飛び立つときより着地が難しい。人生も同じだよ。必死のときに発揮される力というものは人間の可能性を予想外に拡大するものである。
天才とか聖人とかいう人を除けば、人間はみな似たりよったりの能力と、感情の持ち主である。これを悟らなければならないと思う。つまり、我も人なら、彼も人なのである。
失敗が人間を成長させると私考えている。失敗のない人なんて本当に気の毒に思う。困れ。困らなきゃ何もできない。新しいことをやれば、必ず、しくじる。腹が立つ。だから、寝る時間、食う時間を削って、何度も何度もやる。金をかせぐよりも時間をかせげ。
開拓者精神によって自ら新しい世界に挑み、失敗、反省、勇気という3つの道具を繰り返して使うことによってのみ、最後の成功という結果に達することができると私は信じています。多くの人は皆、成功を夢見、望んでいますが、私は、”成功は、99パーセントの失敗に与えられた1パーセントだ”と思っています。
私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は失敗の連続であった。そして、その実を結んだ1%の成功が現在の私である。日本人は、失敗ということを恐れすぎるようである。どだい、失敗を恐れて何もしないなんて人間は、最低なのである。チャレンジして失敗を怖れるよりも、何もしないことを怖れろ。
思想さえしっかりしていれば技術開発そのものはそう難しいものではない。技術はあくまでも末端のことであり、思想こそが技術を生む母体だ。
日本一になるなどと思うな。世界一になるんだ。
人生は冒険、仕事も冒険、そして生きるのも冒険。
やってみないと、できるかどうかわからないんだろ? なら、やってみろ。
1946年本田宗一郎が、本田技術研究所を開設。旧陸軍無線用発電機を改造した冷却2サイクルの本田エントツ型エンジンを自転車に搭載した通称バタバタを発売。
1947年自社設計第1号製品、A型自転車用補助エンジン生産開始。のちに2代目社長となる河島喜好が11人目の社員として入社。
1948年本田技研工業株式会社創立、従業員34人、資本金100万円。浜松の小さな町工場で自転車用補助エンジンの製造からスタート。
1949年に藤沢武夫を経営パートナーとして迎え、以降、技術の本田宗一郎と経営の藤沢武夫による2人3脚の経営が始まる。
ホンダ初の二輪車「ドリームD型」製造開始
1950年東京・京橋に営業所開設。同時に北区上十条の東京工場が稼動を開始。
1951年埼玉県和光市に白子工場を建設。
1952年:二輪車の輸出開始
自転車用エンジンを搭載したカブF型発売。全国5,000を超える自転車販売店にダイレクトメールを送り販売網を確立。
1953年汎用事業開始。農機用エンジンのH型に始まり、1959年には耕うん機F150を発売。
東京・八重洲に二階建て社屋を建設、浜松から東京に本社を移転。埼玉・大和工場、浜松工場を開設。
1954年マン島TTレース出場宣言。二輪最高峰とされたレースへの出場を宣言。5年後の1959年に初出場。
東京証券取引所に株式店頭公開。
1955年二輪車生産台数日本一達成。
1957年東京証券取引所第一部上場。
1958年スーパーカブ発売。誰にでも扱いやすい便利な乗り物として大ヒット。世界的ベストセラーとなる。
1959年アメリカ進出。ロサンゼルスに初の海外現地法人アメリカン・ホンダ・モーターを設立。
1960年(株)本田技術研究所 設立。より自由な発想で研究開発に専念できるようにと、本田技研工業(株)から独立し発足。
1961年マン島TTレース初優勝。125cc・250ccクラス1位~5位を独占
1962年鈴鹿サーキット完成。日本で初めての本格的な国際レーシングコースとして誕生。
1963年初の海外現地生産をベルギーで開始。
待望の四輪進出。軽トラックのT360に続いてスポーツカーのS500も発売。
1964年F1 初出場。日本初のF1マシンRA271が第6戦ドイツGPでデビュー。翌年最終戦メキシコGPで初優勝。
1965年英国に販売拠点「Honda UK」設立。
1969年量産車初の4気筒エンジンを搭載したドリームCB750FOURを発売。世界で初めて最高時速200キロを突破し、今までにない数々の斬新なメカで、名実と共に世界一のバイクメーカーとなる。
1970年安全運転普及本部設立。二輪・四輪のメーカーで初の試みとなる安全運転普及活動を開始。
1972年低公害CVCCエンジン発表。当時最も厳しいとされたアメリカの排出ガス規制マスキー法を世界で初めてクリア。
1973年本田宗一郎社長、藤沢武夫副社長退任。両名は取締役最高顧問に就任。河島喜好が2代目社長に就任。
1980年売り上げ1兆円達成
1981年世界初のカーナビシステム。地図上に現在位置を表示する世界初の商品としてホンダ・エレクトロ・ジャイロケータを発売。
1982年日本初のフランツシステム車。手の不自由な方の運転操作をサポートするフランツシステムの搭載を国産車で初めて実現。
アメリカで日本メーカー初の四輪車現地生産を開始
1983年本田宗一郎、藤沢武夫が取締役を退き、終身最高顧問になる。河島喜好が社長を退任、久米是志が3代目社長に就任。
1985年軽自動車市場に再参入。「ホンダ・プリモ店」発足。四輪車販売網3系列体制確立。ホンダ青山ビル竣工。ホンダの最上級車レジェンド発売。
1986年小型航空機と航空機用エンジンの研究を開始
1988年F1史上初の16戦15勝。アイルトン・セナとアラン・プロストの操る マクラーレン・ホンダMP4/4がサーキットを席巻。
1991年創業者本田宗一郎逝去。
1997年ツインリンクもてぎオープン。日本で初めて本格的なオーバルコースとロードコースを併設。
2000年ヒューマノイドロボット ASIMO発表。小型軽量で人間の歩き方に近い二足歩行が可能になった新しい人間型ロボットを実現。
2002年燃料電池自動車FCXを世界で初めてリース販売。燃料電池自動車として初めてアメリカ政府の販売認可を取得し、日米でリース販売を実現。
2003年念願だった航空機業界への参入への第一歩となる試作機「Honda Jet」の初飛行にも成功。
2004年小型ジェット機用エンジンの事業化でGEとの提携も発表。
2006年ホンダ・エアクラフト・カンパニーを米国に設立し、ノースカロライナ州グリーンズボロにあるピードモント・トライアド国際空港隣接地に生産拠点建設
2012年パワープロダクツの世界生産。累計1億台を達成
2014年二輪車の世界生産累計3億台を達成
2015年WGP700勝達成。二輪のロードレース世界選手権シリーズで前人未踏の記録を達成。
F1再挑戦、新たな技術的チャレンジを求めパワーユニットサプライヤーとして7年ぶりにF1に参戦。
HondaJet引き渡し開始。アメリカの連邦航空局による型式証明を取得し、お客様への引き渡しが開始。
2016年燃料電池自動車CLARITY FUEL CELL発表。燃料電池自動車トップクラスの一充填走行距離約750kmを実現。
四輪車の世界生産累計1億台を達成
2017年「スーパーカブ」シリーズ、世界生産累計1億台を達成