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「株式会社SUBARU(スバル)」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『中島知久平』/沿革・歴史など~

 

「株式会社SUBARU(スバル)」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

 

「株式会社SUBARU(スバル)」の企業理念

 

 

 

私たちは常に先進の技術の創造に努め、お客様に喜ばれる高品質で個性のある商品を提供します。

 

私たちは常に人・社会・環境の調和を目指し、豊かな社会づくりに貢献します。

 

私たちは常に未来をみつめ国際的な視野に立ち、進取の気性に富んだ活力ある企業を目指します。

 

 

 

 

 

「株式会社SUBARU(スバル)」の品質方針

 

 

私たちは何より品質を大切にしてお客様の信頼に応えます

 

1. お客様に安心して長くお使いいただける商品をお届けします

 

2. お客様の声に常に耳を傾け、商品とサービスに活かします

 

3. 法令・社会規範・社内規則を遵守し、お客様に信頼される仕事をします

 

 

 

 

 

SUBARUの由来

 

 

SUBARUは、別名「六連星(むつらぼし)」とも呼ばれるおうし座の中にあるプレアデス星団のことで、純粋な日本語です。

富士重工業が中島飛行機の流れをくむ5社の資本出資によって設立されたことから、名付けられました。

 

 

 

 

 

 

「株式会社SUBARU(スバル)」の創業者・創立者『中島知久平』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

中島知久平(スバル創業者)

 

 

中島知久平。

1884年(明治17年)1月1日、群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)の農家中島粂吉と母いつの長男として生まれた。

 

父の粂吉は、農業の他に養蚕、養鶏などの副業を手がけており、商才に恵まれた人物でした。

少年時代の知久平はとても相撲が強く、周囲から「チッカン」と呼ばれ親しまれていました。

 

明治31年(1898年)3月:尾島尋常高等小学校卒業。

 

上京し、勉学に励み、2年4ヶ月後、進学に必須となる専門学校入学検定試験に合格。

明治36年(1903年)10月:海軍機関学校(海軍兵学校機関科)入学(第15期生)。

 

1903年12月、ライト兄弟の世界初の有人動力飛行ニュースを知る。

明治40年(1907年)4月25日:海軍兵学校卒業。

 

明治41年(1908年)1月16日:海軍機関少尉に任官。

明治42年(1909年)10月11日:海軍機関中尉に任官。

 

明治43年(1910年):巡洋艦「生駒」に配属されていた知久平は、ロンドンで開催される日英博覧会の視察の折に、フランスの航空界の視察を上官に願い出ます。

アンリ・ファルマンなど先進の機体工場や発動機工場の見学は、その後の人生に大きな影響を与えます。

 

明治44年(1911年)10月27日:日本最初の飛行船・イ号飛行船試験飛行(日本で2番目の操縦員)。

明治44年(1911年):海軍大学校選科に入学し飛行機と飛行船の研究に従事、12月海軍機関大尉に昇進。

 

明治45年(1912年)6月30日:海軍大学校卒業。

明治45年(1912年)7月3日:海軍航空術委員会委員としてアメリカ合衆国に出張、飛行士免状取得(日本人で3人目)を得て帰国。

 

大正2年(1913年):横須賀鎮守府海軍工廠造兵部員に配置。

大正3年(1914年):造兵監督官として再度フランス航空界を視察、帰国後に造兵部員・飛行機工場長となり飛行機の試作に従事。

 

中島は、航空の将来に着眼し、航空機は国産すべきこと、それは民間製作でなければ不可能という結論を得た。

中島の「飛行機製作会社設立願い」は海軍省内で問題となった。

 

中島はこのとき「退職の辞」として、戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を一擲して新航空軍備に転換すべきこと、設計製作は国産航空機たるべきこと、民営生産航空機たるべきことの三点を強調した。

結局、病気と偽って退官することになります。

 

大正6年(1917年)5月、群馬県尾島町に「飛行機研究所」創設。

同年12月1日、海軍を退官。

 

同年12月10日に兄弟で「飛行機研究所」を群馬県太田町に移転した。

大正7年(1918年)4月1日、東大に「航空機研究所」が設立され、混同を防ぐために、同月「中島飛行機製作所」と改称。

 

第一号機は1918年7月に完成したものの、初飛行で大破。第二号機も8月に初飛行したものの、これも破損。三号機、四号機も同様に失敗の連続でした。

大正8年(1919年)2月25日、四型6号機の試飛行成功。

 

帝国飛行協会主催の第一回東京、大阪懸賞郵便飛行大会に参加。

往復6時間58分で優勝します。

 

同年4月、陸軍から20機初受注。

同年11月30日、川西と訣別、三井物産と提携。

 

当時の中島飛行機は細々と試作機を作っていた頃とは違い、月産6~7機のペースで安定した生産を重ねていました。

工場も次々と拡張していき、社員も400人近くまで増えていました。

大正11年(1922年):中島商事を設立。

 

1924年、中島飛行機は現在の東京都杉並区荻窪に発動機(エンジン)の製作を目的とする東京製作所を開設します。(のちのプリンス自動車)

昭和5年(1930年)2月:第17回衆議院議員総選挙に群馬1区から無所属で立候補して初当選(以後5回連続当選)、3月に立憲政友会に入党。

 

昭和6年(1931年):中島飛行機製作所の所長の座を弟喜代一に譲り、営利企業の代表を全て返上。

12月の犬養内閣の商工政務次官に就任。

 

昭和8年(1933年)3月:立憲政友会の総務委員を拝命。

昭和9年(1934年):国政一新会を結成(後の中島派形成の中核となる)。3月に政友会顧問となる。

 

昭和11年(1936年)5月:政友会総務拝任。

昭和12年(1937年)2月:病身の鈴木喜三郎総裁の辞意表明後に鳩山一郎、前田米蔵、島田俊雄とともに政友会の総裁代行委員に就任。

 

昭和13年(1938年)6月:第1次近衛内閣の鉄道大臣として初入閣。夏以降、政友会は中島派と鳩山派の対立が激しくなる。

昭和14年(1939年)4月:政友会の分裂に伴い、中島派(革新派)は党大会を開き中島を政友会の第8代目総裁に選出した。

 

昭和15年(1940年)7月:政友会(中島派)は新体制運動に伴い解党。

10月に大政翼賛会へ合流し、中島は参議に就任。

 

昭和16年(1941年):中島飛行機の一式戦闘機、陸軍に正式採用。9月には翼賛議員同盟の顧問となる

昭和17年(1942年)2月:翼賛政治体制協議会の顧問となり翼賛選挙を推進。

 

陸海軍の生産要請に対して、中島飛行機は1942年から1944年にかけて次々と製作所を増設していきます。

 

海軍の「天山」「彩雲」を生産するために愛知県半田市に半田製作所を、海軍発動機を増産するため埼玉県に大宮製作所、陸軍の「疾風」を生産するために栃木県に宇都宮製作所、陸軍発動機を増産するため静岡県に浜松製作所、補機関係を生産するために静岡県に三島製作所など、日本各地に突貫工事で建設されていきました。

 

昭和20年(1945年)8月:終戦。

終戦直後、東久邇宮内閣で軍需大臣および商工大臣として敗戦処理にあたる。

 

8月17日、中島飛行機はその名を富士産業株式会社と改め、平和産業への転換の第一歩を記します。

その後の12月にGHQよりA級戦犯に指定されたが、病気を理由に中島飛行機三鷹研究所内の泰山荘(現在の国際基督教大学敷地内)にて自宅拘禁扱いとなる。

 

昭和20年(1945年)8月17日東久邇宮内閣で軍需相、軍需省廃止で8月20日商工相。

翌昭和21年(1946年)公職追放となる。

 

昭和22年(1947年)A級戦犯指定解除。

1947年に富士産業から発売されたスクータータイプのオートバイ「ラビット」は爆発的な大ヒットとなり、国民の脚としてその後も改良を加えながら1968年まで生産が続くロングヒットとなりました。

 

1949年10月、日本初のモノコックボディ・リアエンジンバス「ふじ号」完成。ふじ号はバス技術の転換点となり、その後主流はリアエンジンへと移行していきます。

 

昭和24年(1949年)10月29日、脳出血のため他界。享年65歳。

 

 

 

 

 

中島知久平(スバル創業者)の名言・考え方

 

 

 

経済的に貧しい日本の国防は航空機中心にすべきであり、世界の水準に追いつくには民間航空産業を興さねばならない。

 

 

 

いくらやっているように見えても、何も考えていないようなら良い飛行機はできない。一日ボケッと煙草を吸っていても、本当の技術者は(いつも考えていて)やるべきことをやるのだ。植木屋は煙草を吹かしながら、半日以上何もせず、ただ空を眺めている。あの枝はどういう形にしたらよいかを考えているのだ。

 

 

 

貧乏国日本が列強並みに建艦競争をつづけるのは、国費のムダづかい。そんなことをしていてはやがて行き詰る。能率的軍備に発想を切り替え、二艦隊(軍艦八隻)をつくる費用で、八万機の航空機を作るべし。

 

 

 

差を縮めるには、まず追いつき、次に追い抜くという精神でいかねばならない。そのためには、欧米の良いところはどんどん吸収せねばならない。

 

 

 

犬の喧嘩を見ても、最初の出会いで双方が睨み合い、負けた方はしっぽを巻いて逃げていくが、勝者は必ずしも大きくて、強そうなものとは限らない。実力が無くても、眼力で勝った方が最後までイニシアティブをとるのだ。人間もまた然りである。

 

 

 

もし外国の飛行機と戦って負けたとき、真似をするのがイヤだったからと言い訳ができるか。そんな馬鹿なことはしない。

 

 

 

海軍における自己の既得並びに将来の地位名望を捨てて野に下り、飛行機工業民営起立を劃(かく)し、以てこれが進歩発展に尽くす。

 

 

 

俺の財産は土地でも、金でもない。一人当たり何万という価値をもつ技術屋を、四十人も五十人も持っている。それが唯一の財産だ。その財産は、ほっておいてもどんどん価値が増えるのだよ。

 

 

 

日本は今は焼け野原である。…しかし、私は日本の復興は意外に早いと思う。日本の民族は優秀である。特にその科学的技術において、決して欧米のエンジニアに劣る者ではない。必ずや近い将来に日本の産業は復活する。何よりも大切なことは、精神的にまいらないことだ。…もし対等の資源を与えられたならば、少なくとも中島飛行機の技術はアメリカには負けていなかったと思う。したがって、負けたからだめだ、というような心理的な敗北感をいつまでも持たないで、早く自分の気持ちを復興させることだ。

 

 

 

 

 

 

「株式会社SUBARU(スバル)」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

 

1917年(大正6年)5月、中島知久平(元海軍機関大尉)によって群馬県新田郡尾島町(現:太田市)に設立された民営の飛行機研究所を前身とする。

 

太平洋戦争(第二次世界大戦)終戦後、GHQにより財閥解体の対象となった中島飛行機(1945年(昭和20年)に富士産業と改称)がプリンス自動車工業と共に解体されたのが 、富士重工業のルーツである。

 

軍需から非軍需産業への転換、スクーターやバスなどの輸送用機器開発、企業分割などを経て、旧中島系の主要企業の共同により1953年(昭和28年)に富士重工業を設立。

1955年(昭和30年)に参画各社が富士重工業に合併されることで企業としての再合同を果たした。

 

1958年(昭和33年)発売の軽乗用車「スバル・360」と、その派生型である1961年(昭和36年)発売の軽商用車「スバル・サンバー」が技術的・商業的に大きな成功を収めたことで、以後「スバル」ブランドの自動車メーカーとしての地位を確立。

 

その他の分野にも多角的に進出しながら現在に至っている。

中島飛行機は、主として太平洋戦争敗戦まで陸海軍の需要に応え、軍用機および航空用エンジン開発・製造に取り組んだメーカーである。

 

三菱重工業、川崎航空機と並ぶ、日本最大規模の航空機製造会社であった。

特に技師長小山悌の指揮下、陸軍(陸軍航空部隊)の歴代主力戦闘機・九七式戦闘機、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」、四式戦闘機「疾風」など、多数の著名な軍用機を送り出した。

 

実戦投入は成らなかったが、日本初のジェットエンジン搭載機「橘花」の機体製造も中島の手に依っている。

 

航空発動機部門では、軍用ゆえの生産性や戦闘における生存性、前線での整備性などから空冷星型エンジンにほぼ特化しており、一式戦「隼」や零式艦上戦闘機(零戦)に搭載された「榮(ハ25)」、四式戦「疾風」や「紫電改」に搭載された「誉(ハ45)」などを開発した。

 

1918年 4月 中島飛行機製作所と改称

 

1919年 2月 四型6号機(中島の出世機)試飛行大成功

 

4月 陸軍から中島式五型複葉機20機初受注(初の日本人設計の量産機となる)

10月 四型6号機、東京?大阪間第1回懸賞郵便飛行競技に出場、往復6時間58分で優勝
12月 野球チーム「雄飛倶楽部」結成

 

1922年 3月 日本初の準金属製機、中島式B-6型「軽銀号」を上野の平和記念東京博覧会に出展、金牌受賞

 

1925年 11月 東京工場完成、発動機生産開始

 

1930年 6月 日本初の国産空冷星型9気筒「寿」型試作発動機完成

 

1931年 12月 中島飛行機株式会社と改称、資本金600万円

 

1934年 11月 太田新工場完成、旧太田工場は「呑竜工場」と改称

 

1936年 9月 純国産中型高速旅客機AT-2型初飛行に成功

 

1938年 4月 武蔵野製作所開設、陸軍発動機生産開始
11月 増資により資本金5,000万円となる

 

1939年 4月 中島知久平、政友会第8代総裁に就任

 

1940年 4月 小泉製作所開設、海軍機体生産開始

 

1941年 2月 太田飛行場開設

11月 多摩製作所開設、海軍発動機専用工場となる
12月 三鷹研究所起工式挙行

 

1942年 6月 半田製作所開設、海軍機体生産開始
11月 中島知久平、6発爆撃機「Z機」の基礎計画を策定

 

1943年 3月 大宮製作所開設、海軍発動機生産開始
4月 三島製作所開設、海軍機器生産開始
11月 武蔵野、多摩両製作所を統合し、武蔵製作所とし、陸海軍
発動機生産を一元化

 

1944年 1月 宇都宮製作所開設、陸軍機体生産開始
艦上偵察機「彩雲」、四式戦闘機「疾風」、「誉」発動機制式
採用、4発陸上攻撃機「連山」試作完成

 

1945年 4月 「航空機事業国営に関する件」が閣議決定され、中島飛行
機は国家管理の「第一軍需工廠」となり、中島喜代一が長官
に任命される
設立時の規模は、工場数102(疎開工場を含めると500)、敷地3,531万㎡、建物232.3万㎡、機械30,735台、人員25万名
撃機「橘花」(ジェット機)試作完成

8月15日 日本、無条件降伏(第2次世界大戦終結)
17日 第一軍需工廠長官に対し、軍需大臣から生産停止命令下る

 

1945年 8月17日 中島飛行機㈱を富士産業株式会社と改称、定款を改定し平和産業への転換を図る
8月 中島乙未平が取締役社長に就任

 

1946年 6月 ラビットスクーター1号車誕生
6月 大宮工場、船外機エンジン生産開始
7月 野村清臣が取締役社長に就任
12月 宇都宮工場、戦災車両の復旧1号車完成
12月 バス1号車完成
太田工場(1月) 電機部品、小型モーター、電熱器
三鷹工場(1月) 占領軍の食器類、トラック部品
三鷹工場(3月) スクーター
三島工場(3月) 度量衡器、農機具、時計、小型発動機、
バリカン
宇都宮工場(5月) 鉄道車両
浜松工場(6月) ミシン、タイプライター、計算機、乳母車
太田工場(7月) スクーター
半田工場(10月) 木造船、客車電車修理
前橋工場(11月) 農機具、トラクター、農耕機
小泉工場(12月) バスボディ

 

1948年 7月 東京富士産業㈱を設立

 

1949年 8月 国産初のフレームレス・リヤエンジンバス「ふじ号」完成
10月29日 中島知久平死去

 

1950年 ― 企業再建整備法による第二会社12社が7、8月から発足
富士工業㈱、富士精密工業㈱、愛知富士産業㈱、富士自
動車工業㈱、大宮富士工業㈱、宇都宮車輛㈱、岩手富士
産業㈱、富士機械工業㈱、富士機器㈱、田沼木材工業㈱、
㈱富田機器製作所、東京富士産業㈱

 

1950年 7月12日 富士自動車工業㈱設立
13日 富士工業㈱設立
20日 宇都宮車輛㈱設立
8月7日 大宮富士工業㈱設立
12月 バスボディ、生産1,000台突破

 

1951年 2月 汎用エンジンM6型生産開始
7月 国鉄木製車の鋼体化生産に着手、この年50両納入(以後1955年までに302両納入)

 

1952年 5月 ラビット消防ポンプ生産開始

 

1953年 4月 スクーター、月産2,000台達成
4月 軽三輪貨物車ダイナスター発売
8月 宇都宮公共飛行場の業務開始
11月 メンターT-34初等練習機の輸入機組立開始

 

1954年 2月 四輪乗用車P-1(1,500cc、45馬力)の試作完成、1955年に「すばる」と命名
8月 戦後初のジェットエンジンJO-1完成

朝鮮戦争は、戦後不況にあえぐ日本に「朝鮮特需」をもたらし富士工業(太田、三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)を中心とした旧・中島飛行機グループ内での再合同の動きがにわかに活発化。

 

1954年(昭和29年)9月、6社が合併契約書に調印。

 

1955年(昭和30年)4月1日、富士重工業は、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輛、東京富士産業の5社を吸収し、正式に富士重工業株式会社としてスタートした(当時の資本金:8億3,050万円、従業員:5,643名)。

ロゴは「富士重工」で、「重」の1画目がない形になっており、長らく使用された。

富士重工業は、1966年(昭和41年)に東邦化学株式会社と合併し、存続会社を東邦化学株式会社とした。

 

1966年(昭和41年)、それまで東京・丸の内の内外ビルディングに所在していた本社機能が新宿駅西口(新宿区西新宿)に自社建設した「新宿スバルビル」に移転する。

レオーネを発売した1970年代初頭から、本格的なアメリカ市場への進出を開始。

オイルショックや排気ガス規制などの消費者の自動車に対する要求の変化や、当時の円安を背景とした廉価性を武器に、国産他メーカーと同じくアメリカ市場での販売台数を飛躍的に伸ばすことに成功した。

 

1968年(昭和43年)から1999年(平成11年)まではメインバンク(日本興業銀行/現: みずほ銀行)が同じ日産自動車と提携、日産・チェリー、パルサー、サニーなどの委託生産を請負い、工場稼働率のアップを図っていた。

 

1968年2月にSOA(スバル・オブ・アメリカ)設立、同年イスラエル進出を皮切りに(エピソード欄も参照)、1970年代中盤から、南米、オーストラリアを中心としたアジア・オセアニア地方、中東、ヨーロッパなどにも進出。

 

1970年代以前には年産10万台にも満たなかった生産台数を、1970年代後半には20万台規模にまで増やし、順調に企業規模を拡大した。

 

1985年(昭和60年)9月のプラザ合意以降の急激な円高とアメリカ市場との「共生」が求められるようになった時代背景の中で、北米市場での深刻な販売不振に直面。

 

1987年(昭和62年)、いすゞ自動車との共同出資で、スバル・イスズ・オートモーティブ (SIA)を設立して現地生産も開始したが、主に魅力的な車種展開が図れなかったことや、企業規模から他国産メーカーと比べ製造コストを劇的に下げることができなかったことなどから、1989年には300億円もの営業赤字に転落。

しかし、折からの「バブル景気」によって資金調達のめどが順調に立ったことや、1989年1月、レガシィの発売以来、順調に国内市場、北米市場での販売を回復することに成功。

 

1990年(平成2年)には日産ディーゼル(現UDトラックス)の経営再建に手腕を発揮した川合勇の下で地道なコスト削減努力が続けられた。WRCへの出場など、CI(コーポレーテッド・イメージ)の積極的な訴求効果とあわせ、年産100万台規模の世界的に見て比較的小規模なマスプロダクツ・メーカーとして現在に至っている。

バブル崩壊後、日産自動車が経営不振に陥り、経営再建の一環として日産自動車保有の富士重工業株の売却を決め、2000年(平成12年)に放出株全てがゼネラルモーターズ(GM)に売却された。

 

2005年(平成17年)10月5日にはGMの業績悪化に伴い、GMが保有する富士重工株20%を全て放出。

放出株のうち8.7%をトヨタ自動車が引き受けて筆頭株主となり、富士重工業とトヨタ自動車が提携することで合意した。

トヨタとの資本提携によるスバルの恩恵は大きく、稼働率の下がっていたスバルの北米工場で「トヨタ・カムリ」の生産を請け負ったり、品質管理やコストダウンの方法を学んだりするなどして利益率を高めた。

また北米特化の車作りに転換する一方で、風力発電事業や軽自動車生産から撤退するなどの「選択と集中」を進めた。

軽自動車保有層の受け皿としてダイハツ工業車のOEMを受け、販売を継続することとした。

 

2016年(平成28年)5月、2017年(平成29年)4月1日付で社名を「富士重工業株式会社」から「株式会社SUBARU」に変更することを臨時取締役会で決議した。

2016年10月1日、産業機器部門が自動車部門に統合された。

その後、12月7日に「2017年9月30日をもって事業を終息し、一部技術資産と米国販売子会社10月1日付けでヤマハ発動機へ譲渡する契約を締結した」と正式に発表した。

これにより、SUBARUは自動車生産と航空関連に特化した企業となり、再スタートを切った。

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