もっと怒れよ、もっと褒めろよ。~ラモス瑠偉名言集と軌跡~





新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■ラモス瑠偉名言集

本に来て、この国がいろいろいい思いをさせてくれたから、恩返しをしたいくらい好きになった。好きでたまらない国を愛するし、育ててくれた国に恩返しをする。

みんな死ぬときは死ぬやん!何をやっても。ビーチサッカー日本代表のユニフォームを着て死んだら、こんな名誉なことはないよ。

もし、俺たちがドーハでボコボコにされて負けて、『やっぱりW杯の壁は厚いな』と思ったら、4年後のフランス大会にも出てなかったと思うし、Jリーグも盛り上がってないよね。あそこまで頑張ったから、『4年後はフランスに行くぞ』が合言葉になったんです。だからあのメンバーを、忘れて欲しくないですよ。そんなに技術があったわけじゃない。今の選手に比べたら下手くそだったけど、戦っていたからね。

年上の人は自分より絶対に経験があるわけだから、先輩の話を聞かないなんて損ですよ。

どんな小さな支えでも、子どもたちに与えれば倍になって返って来る。

すべて、気持ちですよ。怒られたからやる気なくすなんていう人は、何をやっても成功しないです。

怒られて悔しいなら、「ようし、やってやろうじゃないか。必ずあんたの口からほめ言葉を言わせてやるぞ!」と、なんで思わないのか?そう思える人が絶対に成功するんですよ。

ベテランがいなくなって俺たちの時代が来る、なんて思ってたら甘いぞ。

ボク自身、なぜ苦しい思いまでして日本で頑張れたのか?お母さんに家を買ってやって、ラクをさせたかったからだよ。結婚してからは初音と娘、息子のために頑張ってきた。人間、背負うものがないと力も出せない。自分のためだけだったら、サッカーなんかやめて、くだらない人生を送ってたんじゃない?

リーダーは口だけじゃなくて、行動で見せないといけない。

サッカーで一番大事なのは、ハート。いつだってそう思ってやってきた。スピード、テクニック、戦術眼・・・・・。そりゃね、必要だよ。でも、ハートがなかったら、そんなもの役に立ちゃしない。

何をやるにしてもやるからには100%の力でやれ!

もっと怒れよ、もっと褒めろよ。人のために何かをしてあげなきゃダメだよ。それが才能ある選手に対する本当の愛情だと思うんだ。

給料のことなんて、どうでもいい。そんなこと構わない。おカネなんて、いつでも稼げる。それよりも大切なのは、ワタシがどういう人間か、どんなサッカー選手か、それを皆に見せてやること。このままじゃ終われない。

世界に出たら、ハートのあるやつじゃなきゃ生き残れない。

テクニックは人から教わることができる。でも、ハートは自分で鍛えるしかない。

今日やらなきゃ明日はないと思って生きているか?

■ラモス瑠偉とは?

ラモス瑠偉。

1989年に日本に帰化。

ブラジル名はRuy Goncalves Ramos Sobrinho(ルイ(フイ)・ゴンサゥヴェス・ラモス(ハモス)・ソブリニョ)。

1957年2月9日、ブラジルのリオデジャネイロから山側に70-80キロほどにあるメンデスという小さな町で、サッカー好きな公認会計士の父フーベンと母マリアのハモス家の、5男1女の第4子として出生。

兄らに混じって空き地や道路で球蹴りに興じ、定期巡回で訪れるサッカークラブのセレクションを幾度も受け続けるが尽く不合格。

1966年9歳のとき、父が他界して大きなショックを受け、父の死が受け入れられず憤慨して一時家を飛び出す。

当時住んでいた家が、父親が会計士を務めていた会社の社宅だったため、実父の死亡に伴いリオからサンパウロに住んでいた叔母の家に引っ越す。

高校に通うのを中断し、ほとんどの時間をサッカーとアルバイトに明け暮れ、アマチュアの大会などに参加。

18歳の終わり頃に、当時サンパウロ州1部リーグ中位から下位に位置していたサアジFCに加入。

1977年1月、19歳の時に、当時読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)でプレーしていた与那城ジョージにスカウトされる。

1977年4月、来日し、中央大学法学部(通信教育部)入学、20歳で読売クラブに加入。

当時のニックネームは、ラモスの細い肉体にちなんで「エンピツ」。

JSL時代の登録名は「ラモス・ソブリニョ」。

ブラジル時代はDF(スイーパー)としてプレイしていたが、来日からしばらくはFWとしてプレイした。

初めは若さと日本語もわからなかったためトラブルを起こす。

1978年1月対日産自動車サッカー部戦でラモスがファウルをし、相手選手が痛がる演技をしレッドカードでラモスが退場処分を受けた後に、当の相手選手が笑っているのを見て激怒し、その相手選手をグラウンドで追い掛け回したことで、異例ともいえる1年間の出場停止処分を受けた。

1年間の出場停止が解け、復帰した直後の試合から1979年2試合連続ハットトリックを含む14得点7アシストを記録。

得点王・アシスト王の二冠を獲得した。これは日本サッカーリーグ史上、釜本邦茂とラモスしか達成していない。

この頃後に結婚することとなる、当時美大生だった清水初音がサッカー好きの男友達の仲介でラモスと対面した。

1981年8月2日にバイク事故を起こし、左足のすねを複雑骨折し選手生命の危機に陥る。

入院生活を送る中、往復に4時間以上かけて病室に日参する初音の献身的な看病に感激して結婚を決意。

このケガにより1981年の後期を棒に振り、1982年シーズンは復帰したものの1得点のみに終わる。

1983年には復活し、10得点で得点王を獲得。

1984年2月、初音とブラジルサンパウロにて挙式、結婚。

この頃より日系ブラジル人の元選手であるセルジオ越後らと共に全国で少年サッカー教室を開き、後のJリーグ世代となる多くの子供たちの憧れの選手となる。

日本サッカーが低迷する時代、読売サッカークラブ対日産自動車サッカー部だけはラモスの活躍もあり「黄金カード」として注目の的であり続けた。

敵チームながら木村和司らと不遇の日本リーグ時代を支え、Jリーグ開幕、W杯出場へと日本サッカーを発展させた。

当時、外国人出場枠3人に対して4人の外国人選手を抱えていた読売クラブは、この問題を解消するため日本国籍の取得条件を満たしていたラモスに日本への帰化を勧める。

日本国籍取得の申請を届け出て1989年11月に日本国籍を取得した。

本名の「Ruy」の当て字「瑠偉」は初音夫人の考案によるもの。

1986年に読売クラブがコーチとして招聘したジノ・サニの指導を受けてプレースタイルを変え、30歳前後からMFに下がり、引退したジョージ与那城に代わる司令塔として君臨。

1986-87シーズンより背番号10番を付け、1990年代初頭は二年連続の日本年間最優秀選手賞(1990年・1991年)、2連連続アシスト王、3年連続ベストイレブンとキャリア円熟期に達した。

1990年アジア競技大会で横山謙三が指揮する日本代表に初選出されると、1991年のキリンカップ初優勝に貢献する。

同年のダイナスティカップ、AFCアジアカップで優勝し、オフトジャパンの頼れる司令塔としてワールドカップ出場を目指すことになる。

日本代表では1993年5月5日、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選の1次予選F組第7戦のスリランカ戦で、前半31分に得点し、「36歳85日」の日本代表最年長得点記録(2011年時点)を打ち立てた。

同年10月のアジア最終予選では厳しいマークを受けながら奮戦したが、最終戦イラク戦で後半ロスタイムに同点とされ、あと一歩でワールドカップ出場を逃す(ドーハの悲劇)。

1993年のJリーグの開幕で、読売サッカークラブからヴェルディ川崎になっても、中心選手としてJリーグ創生期のクラブ黄金時代を支える活躍を続ける。

1995年8月9日に国立競技場で行われた親善試合日本対ブラジル戦が事実上の日本代表引退試合となった。

1996年夏にV川崎の監督に就任したエメルソン・レオンとは以前から確執があったことから、レオンの下でプレーする事に対して拒絶反応をあからさまに示し、読売クラブ時代の盟友である与那城ジョージが監督代行を務めていた京都サンガへ移籍する。

移籍会見では「京都パープルサンガを関西ナンバーワンのチームにする」と宣言していたが翌1997年夏にレオンがV川崎の監督を解任されるとすぐさま古巣のV川崎に復帰。

1997年、ビーチサッカー日本選抜を編成し、1997年ビーチサッカー世界選手権に出場。

1998年11月14日の柏レイソル戦で現役を退く。

41歳9ヶ月5日という最年長出場記録は2009年に中山雅史に抜かれるまではJリーグ記録だった。

サッカー引退直後の1999年2月、フットサル日本代表に招集された。

ラモスの加入により知名度の低いフットサル日本代表への関心が高まった。

同年3月、マレーシアで開かれた第1回AFCフットサル選手権に主将として出場、4位となった。。

2001年5月、Jリーグ入りを目指して活動していた沖縄かりゆしFCのテクニカルディレクター(TD)に就任。

2004年10月にJリーグの監督を務めるために必要なJFA公認S級コーチライセンスを取得。

2005年、リオデジャネイロで開催される2005 FIFAビーチサッカーワールドカップに出場するビーチサッカー日本代表の監督に就任し、4位入賞(フェアプレイ賞も獲得)。

同年9月13日、J1リーグで残留争いの真っ只中にあった柏レイソルのコーチに就任。

2006年からはJ2落ちした古巣の東京Vの監督に就任。

東京VのJ1復帰を成し遂げた。

シーズン終了後に監督を退任。

2008年よりエグゼクティブディレクター(ED)として東京Vのフロント入り。

Jリーグの選手経験者として初となるクラブ経営者として注目を浴びた。

2008年4月からは常務取締役を兼務した。

2009年4月に退任すると、5月には東京Vスーパーバイザーに就任したが、同年末の契約切れと共に退任した。

2009年、4年ぶりにビーチサッカー日本代表の監督に就任。

2013年、フランス領ポリネシア・タヒチで開催された2013 FIFAビーチサッカーワールドカップではグループDを2位で通過したが、決勝トーナメント初戦でブラジルに敗れベスト8となった。

2014年1月、FC岐阜と監督契約。

2016年7月に監督解任。

2018年2月、3度目となるビーチサッカー日本代表監督に就任。

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