白洲正子の「大切な」言葉たち~白洲正子の名言・人生・生き方など~

白洲正子の「大切な」言葉たち

私は、美しいきものはほしくない。顔のきれいな人が羨ましいとも思わない。ただ、人ときものの完全な調和をのぞむのである。

好きなことを、何でもいいから一つ、井戸を掘るつもりで、とことんやるといいよ。

人間に年などありません。少くとも一所にじっとしているのならば、それはすでに老いたのです。

失敗しないよう、間違いのないよう、安全第一を目指すのも怪我の元です。たのしみがないから、直ぐあきる。物を覚えるのに、痛いおもいや恥ずかしい目をおそれたのでは成功しない。きものを見る眼も同じことです。

どこかひとところぬけているというのが、おしゃれの原則だと私は思う。

お能には橋掛り、歌舞伎にも花道があるように、とかく人生は結果より、そこへ行きつくまでの道中の方に魅力があるようだ。

今は命を大切にすることより、酒でも遊びでも恋愛でもよい、命がけで何かを実行してみることだ。そのときはじめて命の尊さと、この世のはかなさを実感するだろう。

遠くを見ようとして、頭で考えたりまた、四方八方をきょろきょろ見廻すだけでは何の足しにもならない本当に「遠くを見る」ためには肉眼ではとらえられないものをあたかも見るがごとく全身で感じとることである。

文化は発達しすぎると柔弱に流れる。人間は自然から遠ざかると、病的になる。多分に野性的なところはあるけれども、そういう危機からいつも救ったのは山岳信仰の野性とエネルギーだった。

人によって好きな色はいろいろあるだろうが、日本人全体としては藍にとどめを刺すと思う。

春だ、春が来たのだ、そういう感動がいきいきと伝わって来る。ただそれだけのことなのだが、いっきに謳いあげた淀みのない調べには、爽やかな水音と、しのびよる春の気配が聞こえて来るようで、やっとめぐって来た陽光のおとずれを、天地をあげて謳歌している感じがする。いわゆる万葉調の中でも、これほど勢がよく、しかもゆったとしていて、生れ出づるいのちの美しさを讃えた歌は少ないと思う。

発見するのはいつも「人間」です。個性であり、自我であり、意識である。

若いものは老いる。新しいものは古くなる。形あるものは滅びる。これは如何ともなしがたい自然の掟で、「もののあはれ」の思想はそういう日常生活の中から生まれた。兼好法師は『徒然草』の中で螺鈿は少し剥げ落ちたところに風情があるといい、また「花は盛りに、月はくまなきを見るものかは」といって、不完全の美を愛した。あまりに完璧なものはいいにきまっているが、完璧すぎると却って情緒に欠ける。一点非の打ちどころのない美人を毎日眺めているうちに、つまらなくなってくるようなものだ。――といえば、日本人が骨董に人間そのものを見ていたことがわかるであろう。だから、美しい箱に入れ、似合ったきもの(被服)を着せ、凝った銘をつけて愛したのである。

美しいものは若いのです。美しいものはつねにあたらしいのです。

出家はしても仏道に打ちこむわけではなく、稀代の数奇者であっても、浮気者ではない。強いかと思えば女のように涙もろく、孤独を愛しながら人恋しい思いに堪えかねているといったふうで、まったく矛盾だらけでつかみ所がないのである。人間は多かれ少なかれ誰でもそういうパラドックスをしょいこんでいるものだが、大抵は苦しまぎれにいいかげんな所で妥協してしまう。だが、西行は一生そこから目を放たず、正直に、力強く、持って生まれた不徹底な人生を生きぬき、その苦しみを歌に詠んではばからなかった。

本当に国際的というのは、自分の国を、あるいは自分自身を知ることであり、外国語が巧くなることでも、外人の真似をすることでもない。

彼は四男に生まれたので、家を継ぐつもりはなかったが、三人の兄たちが死に、父親も若くして亡くなると、末っ子の少年の肩に、家代々の職人と、家族の生活が一時にのしかかった。陶器の技術は、子供の頃から見様見真似で知っていたものの、だまされたり、利用されたりで、人の世のつれなさが身にしみてわかったという。「九十円で売った鉢を、京都の店で、五百円の値がついているのを見た時は、茫然となって、町の中を気が抜けたようにさまよいました」「眦が耳まで裂けた」のは当然である。その危機を脱して、今日のような生活を楽しむ人間に、彼が成長したのは見事という他はない。生活と仕事が分離したところに、美しいものは生まれない。それが日本の伝統というものだろう。福森さんのような職人に接するとき、明日の文化は都会からではなく、足がしっかりと地についた人々の中に、鬱勃と興って来るに違いない、そう私は信じている。

田舎に住んで、まともな生活をしている人々を、私は尊敬こそすれ、田舎者とはいわない。都会の中で恥も外聞もなく振舞う人種を、イナカモンと呼ぶのである。

世阿弥を育てたのは、まったくこの物真似の精神に他なりません。独創ばやりの世の中では、真似とか模倣とかいうことは、えらく落ちぶれてしまいましたが、本来それは学ぶから出た言葉で、まなぶ、まねる、まね、という風に変わって行ったと聞きます。だから、「物学」という字を当てて、ものまねと読ませているのですが、近頃、独創がしきりに叫ばれているのも、本気で学ぶ気持を失った為か、と勘ぐれないこともありません。模倣も極まれば独創を生むことを、身をもって示す結果となりました。

日本の自然ほど多くのものが含まれているものはない。その中には、宗教も、美術も、歴史も、文学も、潜在している。

ある日、幼稚園からの帰りに、靖国神社へ連れて行かれた。そこで、奉納能が行われるというのである。もちろん私はお能なんて何のことかわからず、着いた時には夕方になっていて、薄暗い舞台の上で、全身真赤っかな妖精みないなものが二匹で蠢いていた。お経のような合唱につれて、疳高い笛の音と鼓がその間を縫う。何だか変なものだと思って見ている間に、こっちは一向その気がな いのに奇妙にひきいれられて行く。そのとたんに電気が消えた。暗闇の舞台の上では何事もなかったように依然として音楽が鳴っている。これでも演出のうちか と思っているとそうではなく、停電で電気が切れたのであった。間髪を入れず、舞台の四隅と橋掛に紙燭がともされ、そこに夢のような世界が現出し たのである。その能が「猩々」と呼ばれることを知ったのは後のことで、たぶん舞ったのは当時の名人であった梅若万三郎・六郎兄弟で、度々いうように子供は美しいものを一生覚えているものだ。が、あの時もし電気が消えなかったら、それほどお能に熱中したかどうか。そう考えると不思議な気がしてならない。

日本の文化を知らなければ、西洋人には太刀打ちできない。

何でもいいから何かしたい。その何かがわからないので内心いらいらしていた。そうかと いって、お嫁に行く自信もない。せめて二十五歳までは、結婚するのは無理だ、と自分にも言い聞かせ、人にもそう言いふらしていた。もちろん縁談なんか見向 きもせず、両親を困らせていた。そこへ忽然と現れたのが白洲次郎である。『ひと目惚れ』というヤツで、二十五歳まで遊ぶことも、勉強も、目の前から吹っ飛 んでしまった。次郎も私と同じように、恐慌のために留学先の英国から、日本へ帰された若者の一人である。彼の場合は、もっと切羽つまった境遇にあり、父親が破産したため、家族を養って行かなければならない。

多くの人間とふれあう機会を持つ人々は、その度ごとに自分自身を新たに見直すことができるはずで、自分を見失うどころか、豊かにする可能性に恵まれているのではないか。

「物」が証明しています。多くの民芸には,昔のような真面目さもなく、無邪気さもなく、都会の、――というより外国の人々に媚びを呈する表情が現れ、感傷的で恒久性のない商品と化しつつある。形を失った思想ほど空しいものはなく、故郷を失った民芸ほど抽象的な存在はない。

何でも良いから一つ、好きなことに集中して井戸を掘りなさいよ。そうすればそのうち、地下水脈に辿り着くの。そうするといろんなことが見えてくるのよ。

伝統をうけつぐとは、過去にしがみつくことではなく、あくまでも前向きの姿勢を崩さないこと。

白洲正子とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

白洲正子。

1910年(明治43年)1月7日生まれ、東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)出身。

父樺山愛輔と母・常子の次女として生まれる。

祖父は樺山資紀(海軍大将、伯爵)、母方の祖父に川村純義(海軍大将、伯爵)。

樺山家は薩摩藩出身で、父樺山愛輔は日米協会の設立に尽力するなどの多彩な国際人でした。

幼児期より梅若宗家に能を習っていた。

1924年(大正13年)女性として初めて能楽堂の舞台へあがる。学習院女子部初等科修了。渡米しハートリッジ・スクールに入学。

1928年(昭和3年)ハートリッジ・スクール卒業。聖心語学校(現・聖心インターナショナルスクール)中退。

1929年(昭和4年)19歳で、後に吉田茂首相の側近となる実業家白洲次郎と結婚。

文芸評論家の河上徹太郎や小林秀雄、青山二郎、中原中也、三好達治、中村光夫、宇野千代、大岡昇平などと親交を持つ。

1942年(昭和17年)東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現・東京都町田市能ヶ谷)の古農家を購入。この頃から細川護立に古美術の手ほどきを受ける。

骨董など、日本伝統の美を追究した稀代の目利きに成長していく。

1943年(昭和18年)鶴川村へ転居。

1964年(昭和39年)随筆『能面』で第15回読売文学賞受賞。

1973年(昭和47年)随筆『かくれ里』で第24回読売文学賞受賞。

1997年(平成9年)町田市名誉市民。

1998年(平成10年)肺炎のため、東京都千代田区の日比谷病院で死去、88歳没。

夫、白洲次郎とは

1902年生まれ、兵庫県芦屋市出身。

白洲次郎は1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に貿易商白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた。

白洲家は元三田藩の士族の出。

1919年(大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに進学。

西洋中世史、人類学などを学ぶ。

1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。

伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。

結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた。

英字新聞記者を経て1931年セール・フレイザー商会に勤務し取締役となり、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となった。

駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。

またこの頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。

近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役をしていたこともあった。

1945年(昭和20年)戦後、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。

GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。

昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる。

1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した。

1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた。

東北電力会長退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロ)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問を歴任した。

1985年死去。

error: Content is protected !!