デヴィ・スカルノ(デヴィ夫人)の「大切な」言葉たち~デヴィ・スカルノ(デヴィ夫人)の名言・人生・生き方など~



デヴィ・スカルノ(デヴィ夫人)の「大切な」言葉たち

幼い頃は裕福な人を見るたびに心が痛くなりました。でも今は、貧しい環境に生まれ苦労をしたことをラッッキーだと思います。貧しさは神から与えられたギフトであり、イデオロギーやパワーの源なのです。

若さを保つには、何事にも好奇心を持って、興味を持って、探究心を持って挑むことが大事。

人生最初のバンジーはマザー牧場というところで、私が催眠術にかかってバンジーができちゃうっていう企画でした。はたから催眠術なんて信じていませんが、私が飛ばなかったら催眠術が偽物だって証明することになっちゃうでしょ。その時も、その催眠術師を助けるために飛びましたよ。

人の3倍勉強して、努力して、働いたおかげで今がある。

小さい頃から世の中は不公平、不条理なことでいっぱいだと怒りを感じていたのです。社会正義のために戦わなくては。だからこそ、わたくしは勉強をしたの。教養を身につければ人の上に立てると信じて。そのためには、貪るように本を読み漁っていました。

理想を追い求めて恋のチャンスを逃すより、男性の長所を伸ばすことも時には必要。

わたくしの友人に、元々、家具の販売をやっていた某有名IT企業の社長さんがいます。家具の販売業がうまくいっているとき、彼はいつもたくさんの人に囲まれて随分と派手に生活していたのよ。でも、事業に失敗して大きな借金を背負ってしまったら、周りにいた人がさーっと一気に離れていったそう。それでも当時の彼女は絶対に彼の元を離れなかったの。 「あなたはできる人よ、私はついていくわ」 「あなたならもう一度立て直せる」 「あなたを信じてあなたに寄り添うわ」 こう彼に言い続けて献身的に尽くしていたわね。その甲斐もあって、その後彼はIT業界で大成功。今ではロールス・ロイスを3台ぐらい乗り回しているし、ドバイでも事業を成功させているわ。 「この人なら命を懸けてついていく」と心の奥底から感じたら、人生のどん底なときも彼の元を離れてはダメね。彼にしっかりと寄り添って励まし続けるの。この彼女以外にも、このパターンで大成功を収めた男性の妻になった女性は意外と多いのです。

私、あと30年は生きたいと思っているの。

終戦を迎え、あふれんばかりの人々を乗せた汽車で私たちは東京へ戻りました。上野駅に着くと、そこは浮浪者や浮浪児で溢れかえり、鼻を突く異臭が漂っていました。地下道を進んでいたとき、誰かがわたくしの袖を引っ張り、怖くて叫びそうになりました。振り向くと小さな男の子が何かちょうだいと手を差し出してきました。その時から自分を不幸だと思ったら、さらに不幸な人を思えば良いのだ、と考えるようになりました。うちは貧しいかもしれないが、わたくしにはまだ両親がいる、この子にはいないのだ、と。

仕事も遊びも限界を決めない。

娘には最低2回は結婚して欲しいと思っています。だって、最初の結婚なんてミステイクに決まってますもの。

私の知る限り、一度結婚した方って、離婚してもまた結婚するのよ。それも何度も!なんでだとお思いになりますか?それは、結婚の味を知っていると“また結婚したい”って思うぐらい、結婚って素晴らしいものだからなのではないかしら。

やっぱり元気の秘訣は、いい仕事をして充実感を得ること、それから楽しくよく遊ぶこと。

よく「美人だったから大統領に選ばれたのではないか?」ということを言われますが、理由はそれだけではありません。当時のわたくしが他の人とちがっていたところと申しますと……人並み外れた上昇志向、そして当時の日本人女性には珍しく語学力がすぐれ、社交性に飛んでいたことです。そして、未知の世界への希望と勇気を持ち合わせておりました。

起こってしまった事に対して執着していたら、自分が病気になるんじゃないかしら。

私の人生は、シンデレラのようなものではない。幼いころに体験した戦争と貧困が、どんな逆境でも生き抜く力を与えてくれた。

くよくよ考えてもしょうがない。

「絶対に出来ない」「絶対不可能」と思うことに挑戦してみると出来ちゃう。だからあなたでも出来るのよ、やろうと思えば。おほほほほ。

不名誉のまんまじゃいられないわ。

私はさまざまなことに対して挑戦する気持ちを、いつまでも持っていたいと思っているんです。挑戦する気持ちを失った時が、自分が年を取ったということになるんじゃないでしょうか。

ドアはノックしないと開かないから。

誰にでもチャンスは訪れているはず。これがチャンスだって思うか思わないか。

新しい事に挑戦するのは、まったく怖くないわ。私が、本当に怖いのは挑戦する気持ちが、なくなってしまう事よ。

いいのよ。天国行ったってお友達いないから。

ほとんどの方は毎日を「生活」していますが、私は毎日を「生きて」いる。この差、わかります?

人生はいつだって自分の気の済むようにして良いものですから。

一番の贅沢は完全に独立していることなのです。私は精神的にも、経済的にも、物理的にもすべてにおいて独立しています。だから誰かに遠慮して意見を曲げることも、義理を忖度することもありません。思ったこと、感じたことをストレートに発言しているだけ。これを珍しいというのですから、日本の皆さんがどんなに人に気を使っているかが分かります。

後悔していることがあるなら、自分の人生を塗り替えるつもりで行動してみましょう。

デヴィ・スカルノ(デヴィ夫人)とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

デヴィ・スカルノ。

通称デヴィ夫人。

本名・インドネシア名:ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno)、旧名・日本名:根本 七保子(ねもと なおこ)。

インドネシアのスカルノ元大統領第3夫人。

東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)に父・兵七郎と母・政子(浪江町出身)の間に出生。

父は麻布区霞町界隈の大工の棟梁であり、八曾男という弟がいました。

1955年(昭和30年)、15歳の時、新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演。

中学卒業後は、東京都立三田高等学校定時制部に進学すると同時に、150倍の難関を突破して千代田生命保険(現・ジブラルタ生命保険)に入社したが、昼休みや休日にも貧しい家計を維持するため、喫茶店などでのアルバイトを掛け持ちする日々を送った。

1956年に父が亡くなった事に伴い高校を中退した後、赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働く。

1959年(昭和34年)、19歳のときに、インドネシアへの開発援助に伴い「東日貿易の秘書」という名目で、スカルノ大統領のもとに送り込まれた。

独立後間もない上に、東西冷戦下にあったインドネシアにおいて、当時スカルノ大統領は日本外交や資金援助の取り付け等を非常に重要視していた。

インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年(昭和37年)にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人となる。

しかし、同時期にマスコミの執拗な取材により体調を崩していた母が亡くなった。

更にその2日後、セールスマンに全財産を騙し取られたうえ、母の死に目に逢えなかった実弟の八曾男が、自宅アパートでガス自殺。

3年後の1965年(昭和40年)9月30日に起きた軍事クーデター、いわゆる9月30日事件でスカルノが失脚、代わってスハルトが大統領となった。

スカルノは軟禁状態におかれ、デヴィ夫人はインドネシアの日本大使館に亡命を希望したが、国際的立場上の理由で断念。

1967年(昭和42年)3月、スカルノ大統領の8番目の子供を都内病院にて娘のカリナを出産。

デヴィ夫人は政治的に寛容なフランスに亡命。

スカルノ大統領はクーデターを予期し、以前よりインドネシアからスイスへ巨額の資金を確保していたとささやかれるものの、1970年(昭和45年)のスカルノ死去時にスカルノ家、ならびにインドネシア政府から財産の相続の権利や子供のスカルノ一族としての地位などを喪失し、第3夫人としての資産は与えられなかったとも、実際には死去時に遺産が与えられたとも言われている。

日本政府や日本の企業財閥側も、クーデターで失脚したスカルノ夫人を擁護することはなかったとされる。

フランスの貴族、エルゼアル・ド・サブラン=ポントヴェス(サブラン公爵)と婚約したが破局。

1991年(平成3年)にアメリカのニューヨークへと移住。

ここからインドネシアの第一線から退き、その後の政変や第1夫人・第2夫人を中心とした政治の動乱には巻き込まれることもなく、日本に帰国し、その後は日本でタレントとして活躍。

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