【東京都府中市】「押立」(おしたて)の地名由来と多摩川「押立渡し」~東京北多摩の歴史散歩~

 

府中市と稲城市にある「押立」(おしたて)の地名由来。

多摩川の氾濫で土手を押し切り土を盛り立てる様に由来すると言われています。

 

 

「オシ(押す、横から力を加える)」と「タテ(立つ、起つ)」という語源で多摩川の強流による圧力が、島を起こした場所といった意味もあるそうです。

 

 

 

 

 

 

「押立」(おしたて)の地名由来

 

府中市と稲城市にある「押立」。

府中市押立町は市の最南東にあり、五丁目から構成されています。

 

 

実はその地名由来の詳細は分かっていません。

ただ、多摩川のすぐ近くということもあり、多摩川の氾濫で土手を押し切り土を盛り立てる様に由来するとも言われています。

 

 

「オシ(押す、横から力を加える)」と「タテ(立つ、起つ)」という語源で、多摩川の強流による圧力が、島を起こした場所といった意味とも言われています。

ただ、諸説あり、実際のところ、詳細は分かっておりません。

 

 

その他、諸説としては、

・多摩川の洪水で村内の水田が押し切られたことから押田、転じて押立となったという説

・押立左近太夫資能がこの地に住み、鎌倉将軍家に仕えたという説

・多摩川の堤防工事で人夫を大勢押し立てたという説

等があります。

 

 

 

 

 

 

「押立」の歴史

 

もともと、押立村は多摩川の現府中市押立にあり、一つでしたが、江戸時代の多摩川の度重なる洪水で、多摩川は流路を変え、村が分断されて、今のように府中の押立と稲城の押立に分かれたそうです。

江戸の万治年間(1658~1703年)頃まで、多摩川は南北の二流に分かれており、その中島に多摩郡押立村の村人が新田開発を行って『押立新田村』が誕生したと言われています。

 

 

現稲城市の「押立」は昭和二十四年(1949年)と最近まで『北多摩郡多磨村押立』の飛び地であったことから、対岸の川北から見て「向島」「川向新田」などの別称も持っていたそうです。

府中市押立町としては、1954年(昭和29年)4月1日に府中市成立により府中市の一部となり、1963年(昭和38年)に府中市大字押立・車返・上染屋・下染屋・小田分・常久の各一部から成立しています。

 

 

 

 

 

「押立渡し」とは?

 

 

「押立の渡し」はご存知でしょうか。

多摩川を渡るため、船で人などを対岸に渡していました。

 

 

現在の稲城市押立と府中市押立町を結ぶ渡しで、島守神社の下流に渡船場が設けられていたそうです。

押立村が経営していたことからその名があるそうです。

 

 

渡しの正確な場所は、多摩川の流路変更によって上流及び下流に時々に変動していたそうです。

もともと、多摩川の流域には、上流から下流に至るまで39ヵ所の渡しがつくられました。

 

 

府中市には、一の宮の渡し、中河原の渡し、関戸の渡し、是政の渡し、大丸おおまるの渡し、常久つねひさの渡し、押立の渡しの計7つの渡しがありました。

渡しは川の両岸を結ぶ交通路であり、流域の人々にとっては、人や物資等の運搬、耕作場への移動など重要な役割を果しました。

 

 

稲城と調布・府中を結ぶこれらの渡しの成立年代は、今のところ明らかではありませんが、中世末から近世にかけてつくられたものと言われています。

押立の渡しは、江戸時代中期の『調布玉川惣画図』にも記載されており、古くから設置された渡し場でした。

 

 

新編武蔵風土記稿(幕末の地誌)の「押立村」の項には 「土橋, 多摩川に架す, 長さ34・5間, 4月より9月までは橋を廃し, 舟を用ゐて渡せり」 と誌されており、 多摩川の水量の多い時期には渡船による往来の便が施されていたようです。

府中市内の渡船場は、是政橋・多摩川原橋の架橋によって、昭和10年代には次々に廃止されていったそうです。

 

 

押立町第二公園の近くに府中市の設置した、押立の渡しの碑が立っています。

 

 

 

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