【東京都国分寺市】「都立武蔵国分寺公園」と「武蔵国分寺跡」~東京北多摩スポット・観光・イベント・公園・大学など~

【東京都国分寺市】「都立武蔵国分寺公園」と「武蔵国分寺跡」~東京北多摩スポット・観光・イベント・公園・大学など~

 

 

 

都立武蔵国分寺公園

 

 

武蔵国分寺公園。正式名称は東京都立武蔵国分寺公園。

国分寺駅と西国分寺の間にある大きな公園です。

遊具やアスレチックなどの遊び場は少ないのですが、人と密集することが少なく、非常にゆったりとできる、「癒し」の公園と言えるかもしれません。

 

公園の敷地は南北に別れており、北側にあたる泉地区は外周500mの円形芝生広場や扇の滝が流れる武蔵の池などがあり、南側の西元地区には、木々に囲まれたこもれび広場や、国分寺崖線につながる野鳥の森が広がっています。

 

 

また周辺には、史跡の武蔵国分寺跡やお鷹の道、真姿の池などの名所や旧跡もあり、園内の散策にぴったりの場所です。

春にはソメイヨシノをはじめとした約100本の桜の木を楽しむことができ、四季折々の自然の表情を楽しむことができます。

 

都立武蔵国分寺公園の始まりは、1987年、国鉄が分割民営化される際に、国鉄の債務を返済する目的で閉鎖された中央鉄道学園の跡地を住宅と公園として整備して2002年4月1日に中央鉄道学園跡地の泉地区が開園しました。

2004年には中央鉄道学園跡地の南側を通る東京都道145号立川国分寺線(通称:多喜窪通り)の向かいにあった郵政省(当時)の社宅(逓信住宅)跡地を整備した西元地区が開園。

公園北側にはJR中央本線が通り、公園中央を東京都道145号立川国分寺線(通称:多喜窪通り)が通り、泉地区の西側には中央鉄道学園跡地の敷地を整備した際に発掘され、整備された東山道武蔵路。

 

都営住宅を挟んで府中街道(埼玉県道・東京都道17号所沢府中線)が通っています。

 

 

 

 

そもそも「国分寺」とは?

 

 

飛鳥時代、大化の改新のあと「武蔵国」の国府が現在の府中市に設置されます。

府中から東山道武蔵路で繋がった、北の隣接地に武蔵国分寺と国分尼寺が設けられました。

そもそも国分寺は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院です。

国分僧寺と国分尼寺に分かれています。

 

国分寺建立の背景には自然災害や伝染病などが国内で多発し、これらから国を守るために仏教信仰を背景に創られました。

聖武天皇は、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と『大般若経』を写す詔、天平12年(740年)には『法華経』10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出しています。

 

 

国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどと定めました。

 

国司の怠慢のために、多くの国分寺の造営は滞ったそうですが、 天平19年(747年)11月の「国分寺造営督促の詔」により、造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに、完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示し、ほとんどの国分寺で本格的造営が始まりました。

律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れます。

国分尼寺の多くは復興されませんでしたが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もあります。

 

 

 

 

 

武蔵国分寺跡

 

 

聖武天皇の「国分寺造営督促の詔」により、旧武蔵国分寺の創建は、8世紀半ばの750年代末から760年代初と推測されています。

武蔵国分寺は、府中市の国府から北方約2㎞の地に「東山道武蔵路」を挟んだ東西に「僧寺」と「尼寺」が建立されました。

武蔵国分寺は、国分寺としての規模も大きく、七重塔が建立されるなど壮大な寺だったと思われます。

承和2年(835)に七重塔が落雷により焼失し、その10年後、再建願が出て許可されたことが『続日本後紀』に記されていますが、10世紀前半頃には寺域区画溝が埋没し、徐々に衰退していきます。

 

新田義貞と鎌倉幕府方による分倍河原の合戦(1333)により国分寺は焼失し、建武2年(1335)には義貞により薬師堂が再建されたと伝えられています。

武蔵国分寺の地は、現在も国分寺が法燈を受け継いでいるとともに、国分寺崖線の湧水や緑に恵まれた良好な地であることも重要です。

伽藍そのものは巨大と言えるほどの規模ではありませんが、それでも金堂正面は7間で幅36m強におよんでいます。

伽藍配置ははっきりとは判っていませんが、これまでに中門跡、金堂跡、尼坊跡、尼坊付属施設跡、築地塀跡が検出されています。

 

現在判明している限りでは、築地塀に囲まれた伽藍中枢部は中門、金堂、尼坊が一直線に並ぶ形であり、金堂と尼坊の間の空間、かつて宅地開発で破壊された辺りに講堂が存在したのではないかと推測されています。

尼坊は5坊を備えており、その規模から合計で10名程度の尼僧が起居していたと考えられています。

薬師堂に安置する薬師如来坐像は国の重要文化財です。

仁王門は宝暦年間(1751年-1763年)の建立で、入母屋造の八脚門。

楼門は米津寺(東久留米市)の楼門を明治28年に移築したもので、これら薬師堂・仁王門・楼門は、市の文化財に指定されています。

また境内には「万葉植物園」として、元国分寺住職が昭和25年-38年(1950 – 1963年)の間に万葉集に歌われた植物160種を集めて造った植物園があります。

この植物園は市の天然記念物に指定されています。

 

 

 

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