地球はおれの遊園地だ!~冒険家とベンチャー~


起業、創業はある意味、冒険かもしれません。

慎重に準備を重ね、一歩を踏み出す。

一歩一歩をしっかりと踏みしめ、ただひたすら上り詰めていく。

必要ならスポンサーを求め歩く。

リスクを背負い、人生をかける。

ベンチャー企業の起業家は冒険家と近いように思います。

今回は登山家、冒険家から元気になれる言葉を拾ってみました!



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Contents

三浦雄一郎氏とは?

三浦雄一郎氏はご存知でしょうか。

マスコミにも取り上げられていましたので、ご存知の方も多いかもしれません。

簡単に三浦雄一郎氏の経歴をお伝えします。

三浦雄一郎氏は、青森県青森市出身のプロスキーヤー、冒険家、登山家。

父は山岳スキーヤー「三浦敬三」、長男は競技スキーヤー「三浦雄大」、二男はフリースタイルスキー・モーグル選手「三浦豪太」。

北海道大学獣医学部卒業後、同学部で助手として勤務。

スキー学校を開設してプロスキーヤーとして活動を始めます。

イタリアで開催されたスピードスキーの大会キロメーターランセに日本人初参加し、当時世界新記録を樹立。

ギネスブックに掲載されたエベレストのサウスコル8,000メートル地点からの滑走を始め、世界七大陸最高峰からの滑降を成功させました。

54歳の時に南アメリカ大陸最高峰アコンカグアからの滑降を成功させ、世界七大陸最高峰全峰からの滑降を達成。

70歳の時(2003年)に世界最高齢でのエベレスト登頂に成功。

このエベレスト登頂時、狭心症で手術も受けた身体での成功でした。

三浦雄一郎氏の名言は数多くあります。

以下、三浦雄一郎氏の名言です。

三浦雄一郎氏名言

僕の人生だって壁だらけですよ。ただ、僕の場合でいえば、心臓の不整脈や骨盤骨折があっても、治せばまたチャンスがあると本気で信じていた。時間をじっくりかけてでも、壁は乗り越えるしかない。

本田宗一郎さん、佐治敬三さん、盛田昭夫さん、私が会った一流の企業家は、やっぱりみなさん前向きで、上機嫌な人たちだった。そして、年齢に関係なく何かを追い続ける生き方は、全員に共通していたと思います。

僕も病気やけがを抱えています。80歳で3度目のエベレストに登ろうと思った時には大腿骨と骨盤を折りました。エベレストに向けて出発する1か月半前には心臓手術も受けました。あの時に目標がなかったら、今頃は寝たきりでしょう。

エベレストでお茶会をしたとき、外はマイナス25度。でも、絶対8500メートルでお茶会をやろうと決めてたんです。だから茶筅(ちゃせん)から何から全部持っていった。本当は100グラムでも軽いほうがいいのに(笑)。「お父さん、何でそんな無駄なもの」って息子や他のメンバーからは言われました。でもね、すごく効いた。8500メートルの高さでは交感神経が優位になって、興奮して眠れなかったり、落ち着かなかったりするんです。それがお茶を飲んでいるうちにスーツと心が静まって。

誰にでも失敗はつきものだし、上手くいかないこともあります。どんなに入念に準備しても、予定は狂うし怪我はするし、限界まで追いつめられることなんてしょっちゅうです。でも、そうしながらも絶対に掲げた旗印、夢はあきらめないでほしい。夢に向かう道というのは、様々な方向に伸びていて正しいと信じてやって壁に突き当たったとしても、方向転換すればいい。出口の方向には必ず光があるから、一度原点に戻ってみて光がある方へ進んでいくんです。

1983年(当時51歳)南極大陸最高峰ヴィンソン・マシフ標高4892mここで滑降スキーの途中になだれに合い、雪の波にのまれる。その時こう思ったそうです。絢爛豪華な経験。これで助かったらこんな贅沢な人生はないと思った。

65歳の糖尿病と狭心症を抱えた爺さんが、これから5年先もしエベレストに登れたらこんな面白いことないんじゃない。老いは怖くはない。夢を失うことが寂しい、怖い。

お父さんの頭の中にマイナスなことが入ってもプラスになって出てくる。プラス変換機ですよ。例えば登山中に不整脈を持っていてゼイゼイハアハアしている父に見るに絶えなくなって山を降りようかと言った時「大丈夫だ、豪太」「絶好調の不整脈だ」。

自分の弱さを乗り越えようとして、ホラを吹く。だが吹いた以上は、やり遂げる

冒険心があったからこそ、山を越え、海を渡り、人類は地球上で生き残ってきた。

夢とは幻ではなく、可能性のことだ。人間には、何歳になってもいろいろな可能性が残されているのだと思う。その可能性を信じるべきだ

原動力は単純に「やりたい」という気持ちと、やっぱり世界の天辺に登る夢ですよね。夢の力。これが大きいと思います。

夢があるから頑張れた。

三浦雄一郎

植村直己とは?

そして、もう一つ、登山家と言えば、この人。

伝説の登山家、植村直巳氏。

簡単に経歴をお伝えします。

植村直己【1941年~1984年】登山家、冒険家、探検家。

日本人ではじめてエベレストの頂上に立ったのが、植村直巳氏。

また、世界初の五大陸最高峰登頂者として、海外でも著名。

(五大陸最高峰は、北米のマッキンリー(6194m)、南米のアコンカグア(6960m)、アジアのエベレスト(8848m)、アフリカのキリマンジャロ(5895m)、ヨーロッパのモンブラン(4807m))。

さらに、1978年には、犬ぞりで人類史上初の北極点単独行を果たし、日本人として初めてナショナル・ジオグラフィック誌の表紙を飾りました。

1984年2月12日、43歳の誕生日に世界初のマッキンリー厳冬期単独登頂を果たすも、翌日2月13日を最後に音信不通となり、消息不明に。そのため、1984年2月13日が彼の命日とされています。

その後何度も捜索が行われるも、現在まで植村の遺体は発見されていない。

国民栄誉賞受賞。

植村直巳氏は、明治大学卒業後、就職試験に失敗。

周囲の反対を押し切り、とび職の仕事で稼いだお金4万円(110ドル)を元手に、移民船に乗り、ロサンゼルスへ向かいます。

英語もしゃべれないにもかかわらずです。

すごいですね。

植村直巳のすごさは、もともと気遣いできる優しい人が、夢を実現させる、その強さ。

つまり、やさしい人の強さではないでしょうか。

その優しさが、海外で言葉も通じない場所で多くの人の支援を得てきた背景かもしれません。

当時海外は日本人もほとんどいない、決して安全ではない場所ばかりでした。

コネも何もない場所で仕事を探し、夢を実現させる、その秘めたパワー。

まさに冒険家、そのもの。

以下、植村直巳の名言です。

植村直巳氏名言

大学に入学するまでは体力もないもやしっ子だった。

私はねむれないまま、過去のできごとを追った。盗賊に襲われたアマゾンのこと、無我夢中で登ったアコンカグア、ハチにさされても痛みを感じないほどガムシャラに働いたカリフォルニアの農場のことなどの思い出にふけっていると、激しい寒さも忘れられた。この厳しい壁も、きっとオレは生きぬけられるぞ、と自分にいいきかせた。

結局、というよりも、最初からわかっていたことかもしれないが、山は他人のために登るものではないのだと思う。誤解されてもしかたがないけれど、山は自分のために登るものだと思う。誰からも左右されない、自分の意志ひとつで行動できる単独行であれば、それが人のためではなく自分のためであればあるだけ、すべてが自分にかえってくる。喜びも、そして危険も。

私は五大陸の最高峰に登ったけれど、高い山に登ったからすごいとか、厳しい岩壁を登攀したからえらい、という考え方にはなれない。山登りを優劣でみてはいけないと思う。要は、どんな小さなハイキング的な山であっても、登る人自身が登り終えた後も深く心に残る登山がほんとうだと思う。

人間の社会の五里霧中をさまようより、この大自然のガスの中の方が、私にとってはずっと身に合っているのだ。

努力している人を笑うこと。それは、何よりも最低な行為である。

不安な時は、小さなことでもいい、今できる行動を起こすこと。

不思議なもの、全ての美しいものをみるために、子供の純粋な魂を持ち続けることが大切なんだ。いいかい、君たちはやろうと思えば何でも出来るんだ。

人の生きる本当の価値は、お金や肩書きなどではなく、夢を追い求め一瞬一瞬を精一杯生きることにあります。

始まるのを待ってはいけない。自分で何かやるからこそ 何かが起こるのだ。

そうだ。医者になりたいと思えば医者になれたし、登山家になりたいと思えば登山家にもなれた。船乗りにだってなれた。何にでもなれることができるんだ。

私は先へ進まなければならない。憂鬱でも気が重くても、それが私の運命のようなものなのだから、勇気をふるい起こして、先へ進まなければならない。

気が狂いそうな単調さに耐えぬき、弱音を吐きたがる自分に打ち克つ以外にない。進むこと、ひたすら前へ進むこと。

あきらめないこと。どんな事態に直面してもあきらめないこと。

植村直己

最後に

最後にもう一つずつ、お二人の名言を贈ります。

いつも前進があるだけだった。

植村直巳

地球はおれの遊園地だ。

三浦雄一郎



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