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新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。変えられるのは自分と未来だけです!
世の中の常識を少しでも変えるっていうことは、人間としての生き甲斐でもありますから。
壁というのは、できる人にしかやってこない。超えられる可能性がある人にしかやってこない。だから、壁がある時はチャンスだと思っている。
びっくりするような好プレーが、勝ちに結びつくことは少ないです。確実にこなさないといけないプレーを確実にこなせるチームは強いと思います。
僕は僕の能力を知っていますから、いくらでも先はあるんですよ。人の数字を目標にしているときというのは自分の限界より遙か手前を目指している可能性がありますけど、自分の数字を目指すというのは、常に限界への挑戦ですから。
進化する時っていうのは、カタチはあんまり変わらない。だけど、見えないところが変わっている。それがほんとの進化じゃないですかね。
どうやって、ヒットを打ったのかが問題です。たまたま出たヒットではなにも得られません。
『できなくてもしょうがない』は終わってから思うことであって、途中にそれを思ったら 絶対に達成できません。
やってみて『ダメだ』とわかったことと、はじめから『ダメだ』と言われたことは、違います。
驚かれているならまだまだです。驚かれないようになりたいです。
僕は決して「打率4割」とは言わないんです。6割の失敗は許してやるわ、と。いつもそう言っているんです。
しっかりと準備もしていないのに、目標を語る資格はない。
準備というのは、言い訳の材料となり得るものを排除していく、そのために考え得るすべてのことをこなしていく。
過去のつみかさねがどれだけ大事なものかは、感じています。それがなければ、今の技術や精神は作られなかったのですから。
考える労力を惜しむと、前に進むことを止めてしまうことになります。
努力せずに何かできるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうじゃない。努力した結果、何かができるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうだと思う。人が僕のことを、努力もせずに打てるんだと思うなら、それは間違いです。
「楽しんでやれ」とよく言われますが、 僕には、その意味がわかりません。
一番になりたい。「オンリーワンがいい」なんて言っている甘いやつが大嫌い。
フォアボールを狙いにいくようなバッターは、その時点で負けています。
チームの調子が悪くても自分が崩れることはありません。
去年、行き着いたひとつの答えは、プレッシャーを克服する方法なんて、結局はないんだということです。以前はプレッシャーがない普通の状態に近い自分をどうやって取り戻すことができるのか、そういう薬みたいなものを探していました。でも、そんなものはないんだというのが現段階での結論です。そう思えたことは大きいですよ。あるかもしれないと思っているのと、ないんだと割り切っているのとでは、プレッシャーに対する向き合い方はまったく違ってきますから。
前向きに食事をし、前向きに買い物をした。何事も前向きに行動することが可能性を生む。
自分を支えているのは良い結果ではない。屈辱が自分の支えている。
応援してください、という気はない。応援してもらえる選手であり続けたい。
結果が出ないとき、どういう自分でいられるか。決してあきらめない姿勢が、何かを生み出すきっかけをつくる。
小さいことを積み重ねることが、とんでもないところへ行くただひとつの道。
夢や目標を達成するには1つしか方法がない。小さなことを積み重ねること。
苦悩というものは前進したいって思いがあって、それを乗り越えられる可能性のある人にしか訪れない。だから苦悩とは飛躍なんです。
イチロー(本名:鈴木一朗)
1973年10月22日生まれ。
出身愛知県。
生後間もなく名古屋市守山区から西春日井郡豊山町へ転居。
二人兄弟の次男だったが、祖父「銀一」から「一」の文字を取り「一朗」と命名された。
イチローと兄に限らず、祖父「銀一」の全ての孫の名には漢字「一」が付けられている。
小学校時代は地元の少年野球チーム・豊山町スポーツ少年団に所属。
子供のころは「投げても、打っても」活躍する二刀流でした。
「4番ピッチャー」でチームを牽引。
6年生の時には全国大会に出場しています。
豊山町立豊山中学校では小学生時代の仲間と共に学校の野球部に所属。
学業も優秀で、学年では常にトップ10に入っていました。
エースで中軸(主に3番)を打ち、中学3年の時に全日本少年軟式野球大会に出場し3位入賞を果たす。
地元・愛知の多くの高校から誘いが来たが、愛知工業大学名電高等学校(愛工大名電)に進学する。
1年時からいきなりレギュラーを獲得(ポジションは三塁手で打順は主に1 – 3番) 。
2年時に夏の甲子園(左翼手として出場)、3年時に春の甲子園(投手として出場)と2度甲子園に出場したものの、いずれも初戦敗退に終わっている。
3年間の高校通算成績は536打数269安打、打率.501、本塁打19本、二塁打74本、三塁打28本、盗塁131。
高校時代は投手だったが、交通事故(自転車での通学中に車と接触している)による怪我が原因で投手から野手転向を余儀なくされます。
ドラフト会議では、イチロー自身は幼少期からファンだった地元中日ドラゴンズを希望していましたが、中日を始め各球団からの上位指名はなく、結局4位で指名したオリックスに入団。(年俸430万円、契約金4000万円)
高く評価していたのはオリックス・ブルーウェーブの東海地区担当だった三輪田勝利スカウト。
イチローは三輪田の死後、墓参りを毎年欠かしたことがなかったようです。
プロ1年目の1992年、2軍からのスタート。
1年目打率.366でウエスタン・リーグの首位打者を獲得するも、翌1993年は打率1割台という不振のため再び2軍落ちとなります。
続く1994年、公式戦開幕直前に登録名を本名「鈴木一朗」から現在の「イチロー」に変更、日本人選手初の名字を除いた名前での選手名登録となりました。
この年から招聘された仰木彬監督はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと即座に一軍に呼び、2番打者に抜擢。
4月末から1番打者に定着し、大きく開花し、69試合連続出塁で日本プロ野球新記録を更新、また1試合4二塁打タイ記録した。
パシフィック・リーグ新記録となる打率.385で首位打者を獲得、打者としては日本プロ野球史上最年少でシーズンMVPを獲得しました。
4年目の1995年。開幕前の1月17日に発生した阪神淡路大震災において本拠地の神戸市が壊滅的な害を被りイチロー自身も神戸市内にあるオリックスの寮で被災。
この年のオリックスは「がんばろう KOBE」を合言葉にスタートした。
イチローは震災からの復興を目指す「神戸のシンボル」的存在として、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得。「打者五冠王」に輝いた。
2年連続となるシーズンMVP・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞も受賞。そしてチームは悲願のリーグ優勝を達成した。
1996年から2000年も大活躍。
1998年には日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成。
1999年には日本プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。
6年連続となる最多敬遠(パ・リーグ記録)も記録し、7年連続通算7度目となるベストナイン・ゴールデングラブ賞をそれぞれ獲得した。
そして2000年10月記者会見でポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦の意向を表明。
2000年11月、日本人初のポスティングシステムによる独占交渉権をシアトル・マリナーズが1300万ドル余りで獲得。
3年総額1400万ドルで正式契約を結び、日本人野手初のメジャーリーガーとなった。背番号は51。
大リーグ1年目から大活躍。
4月から5月にかけて2か月連続でこの年から制定された月間新人MVPを受賞し、オールスターゲームではファン投票で337万票を獲得。日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となる得票数で初選出された。
結果、シーズン242安打を放ちチームの地区優勝に大きく貢献、コミッショナー特別表彰を受けとることになる。
メジャーリーグの新人最多安打記録を更新するとともに、新人王・MVP・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞という数多くのタイトルを獲得。
この年の打率.350は、アメリカンリーグ1年目選手の歴代最高打率でした。
2年目の2002年以降も大活躍。
2004年にはNPB/MLB通算2000安打を達成。さらにシーズン安打記録を262安打で更新。
得点圏打率(.372)、対左投手打率(.404)、敬遠数(19)、出塁数(315) でもリーグ1位を記録。
出塁率(.414)、盗塁数(36)などではリーグ2位を記録、月間50安打をシーズンで3度達成したのは史上初、またロード打率(.405)、後半戦打率(.429)を記録。
2006年はこの年初めて開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出。
王監督が率いた日本が栄えあるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の初代チャンピオンに輝いた。
イチローは1次リーグから全8試合連続安打。
キューバとの決勝戦は1点差に迫られた9回にイチローの適時打などで4点を追加し勝負を決めた。
イチローは大会ベストナインに選ばれた。
大リーグでは2007年は41連続盗塁の記録を打ち立て、7年連続で出場したオールスターゲームにおいてオールスター史上初のランニング本塁打を含む3打数3安打2打点の活躍でオールスターMVPを受賞。
2008年8年連続200安打を達成。3年連続最多安打(史上7人目)、史上初となる3年連続両リーグ最多安打を記録。
2009年第2回WBCの日本代表に選出。
通称「侍ジャパン」、原監督の下、第1回大会での優勝に続き、第2回大会も優勝。
成績は決して本調子ではなかったが、リーダー的存在を発揮し、チームを鼓舞した。
最大の活躍は韓国との決勝戦。
9回裏3-2と日本がリードする場面で、ダルビッシュ有が抑え投手として登板するも、まさかの同点に追いつかれてしまいます。同点の10回表2アウト2,3塁の場面で7球粘ったのちの優勝を決めた2点タイムリーヒットを放ち、2回連続のWBC優勝を果たした。
大リーグでは2009年、2010年と9年、10年連続200本安打達成するなど成績を維持してきたものの、2011年に大きく成績を落としてしまう。
2012年、D.J.ミッチェルとダニー・ファーカーとの2対1のトレードでニューヨーク・ヤンキースへ移籍、マリナーズのユニホームを脱いだ。
2013年、メジャー通算2000試合出場、NPB/MLB通算4000本安打に到達した。
2014年前年より少ない143試合の出場、102安打に止まりながら打率.284と前年を上回る成績を残したが、オフにFAとなる。
2015年1月マイアミ・マーリンズと年俸200万ドル+出来高の1年契約を結んだ。
2015年は153試合に出場したもののキャリア最低の91安打、打率.229にとどまった。
2016年両リーグで2番目に年長の選手となった。史上30人目のMLB通算3000安打を達成。
2017年メジャー史上最高齢記録を更新。NPB/MLB通算5863塁打とし、王貞治が持っていた日本記録を日米通算で塗り替えた。
2018年に再びマリナーズに復帰。15試合の出場で9安打、打率.205に留まる。
5月、マリナーズと「スペシャルアシスタントアドバイザー(会長付特別補佐)」の契約を結び、選手としては今季の残り試合は出場しないことが発表された。
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