新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
人間が進歩するためには、まず第一歩を踏み出すことである。長い目で見れば人生にはムダがない。
我々の相手は1億の日本人ではなく、世界30億の人間。世界で売れる車なら、必ず日本でも売れるはずだ。
「得手に帆を揚げて」とはよく言ったもので、得意な道を一生懸命に打ち込んでおりさえすれば、チャンスは必ずある。
不況、不況と言う前に、もう一度自分自身を、あるいは経営者なら会社を「総点検」してみるといい。きっと、何か忘れているものがあるよ。
技術者は哲学を持て。
少しでも問題意識が深まるような日常感覚を磨き、そして、そういう話題を共有しよう。沈黙は金ではなくて泥だ。
重役会に出ている社長の前で、本音を言う役員なんていませんよ。だってね、女房の前で浮気の話をする亭主がいますか?どこの会社も社長が重役会に出ないようになれば、儲かる会社になると思うな。
24時間は1秒たりとも伸ばすことはできない。一定の時間の中により多く自己の生活を楽しむためには、働く時間を酷使するより他に方法がない。
企業で一番怖いのは社長の無知です。問題は持っている知恵が古くなることです。そうすると、過去がどんなに偉かった経営者でも、会社をつぶすことになります。
通産省に言われたことと全部反対のことをやってきた。だから、ホンダの今日がある。
その油まみれの手がいいんだ。俺は油の匂いが大好きなんだよ。
資本がないから事業が思わしくないとの声をよく聞くが、それは資本がないからではなく、アイデアがないからである。
私はうちの会社のみんなに、「自分が幸福になるように働け」っていつもいってるんですよ。会社のためでなく、自分のために働けって。
当時、一生懸命がやたらと尊ばれた。たんなる一生懸命には何ら価値がないことを為政者は教えなかった。だから国民は一生懸命が価値を持つためには、正しい理論に基づくことが前提条件だということを悟らなかった。
輸入規制などはとんでもない。オートバイを輸入しろ。輸入して外国製品と競争していくと日本のオートバイ・メーカーがちゃんとしたものを作れるようになる。
僕らの若い頃も「いまどきの若い奴らは……」とよく言われたよ。でも、こんなものそれほど気にすることはないよ。結局、若い時に何をしたかが大事なんじゃないか。
人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになれる人である。そのかわり、他人の気持ちになれる人というのは自分が悩む。自分が悩んだことのない人は、まず人を動かすことはできない。拝む心がなければ人は動かない。つねに素直に。
人生は『得手に帆あげて』生きるのが最上だと信じている。
世の中で一番素晴らしいものは若者のエネルギーだよ。こりゃあ進歩の原動力だ。社会ってのは常に有為転変するものだ。若い連中はそれに合わせて、ちゃんとやっていけるけど、年寄りはそうはいかない。だもんだから「今の若いものは……」なんて批判する。口で言うだけならまだいいが、伸びる芽まで摘んでしまっちゃ駄目だよね。そうなったら、老害以外の何物でもないからね。そう考えたから、俺は第一線から身を引いたんだ。人間、はじめるよりも終りのほうが大事なんだよ。
社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない。
息子や親せきでないと社長にしないとか、東大出でないといかんとか、企業に関係のない条件で社長を選んでいるところがある。みんなが見ているというのに、それでいいと思っているんですかね。会社は大勢が飯を食うところ、大勢の生命の源泉です。そこを忘れたら会社は潰れますよ。
教わった知識を鵜呑みにせず、自ら実行し体験から掴む知識と合わせると、未来へ進む力になる。
藤沢(武夫)は自分にないものを持っている。考え方は違うけれど、違うからこそ組む価値がある。世界には45億も人間がいるが、みんなとつきあうわけにはいかない。藤沢と僕の出会いはその代表みたいなもので、藤沢はいわば45億の代表ですから。
創業当時、私が「世界的視野に立ってものを考えよう」と言ったら噴き出した奴がいた。
人間死ぬときは、金も名誉も関係ないはずだ。なまじ金持ちになったりするから、家庭や兄弟が悶着を起こしたりする。死ぬまで金に執着したり、金の力に頼らなきゃ何もできない人間は不幸だと思う。別に金持ちになりたくて働いていたわけじゃない。仕事が面白くて仕方がなかったんだし、遊びたいために、一生懸命に働いた結果、会社の若い連中もついてきて、今日まで発展してきたんだ。
私は怒っても、その人間を憎むことはしない。偽りのない気持ちを相手にぶつけることが大切。
人生は「見たり」「聞いたり」「試したり」の3つの知恵でまとまっているが、多くの人は「見たり」「聞いたり」ばかりで一番重要な「試したり」をほとんどしない。ありふれたことだが失敗と成功は裏腹になっている。みんな失敗を恐れるから成功のチャンスも少ない。
勇気というのは強いからとか、勇ましいから勇気があるというのではない。たとえ、自分にとってどんなに不利な結果になろうとも、自分が真実であり、妥当であると考えたことを認め、それに賛成することこそが勇気である。
耐える心に、新たな力が湧くものだ。全てそれからである。心機一転、やり直せばよいのである。長い人生の中で、そのための一年や二年の遅れは、モノの数ではない。
はんぱな者どうしでも、お互いに認めあい、補いあって仲よくやっていけば、仕事はやっていけるものだ。
人間、生をうけた以上どうせ死ぬのだから、やりたいことをやってざっくばらんに生き、しかるのち、諸々の欲に執着せずに枯れ、そして死んでいくべき、という考え方だ。
私の現在が成功と言うなら、私の過去はみんな、失敗が土台作りしていることにある。仕事は全部失敗の連続である。
それはみんな過去のことなんだ。俺が知りたいのは未来なんだ。
やろうと思えば人間はたいていのことができると私は思っている。
需要があるからつくるのではない。我々が需要を創り出すのだ。
私の最大の光栄は、一度も失敗しないことではなく、倒れるごとに起きるところにある。
日本一になるなどと思うな。世界一になるんだ。
人生は冒険、仕事も冒険、そして生きるのも冒険。
チャレンジしての失敗を恐れるな。何もしないことを恐れろ。
やってみないと、できるかどうかわからないんだろ?なら、やってみろ。
本田宗一郎。
自動車メーカーHONDA創業者。
1906年、静岡県磐田郡に生まれ。
小さな頃からやんちゃ坊主だったようです。
大正時代、小学2年生だった本田宗一郎は航空ショーを見に行き、自分で作った飛行機を空に飛ばしたい、という夢が幼いころからあったそうです。
小学校を卒業した1922年、15歳の本田宗一郎は、東京・本郷湯島の自動車修理工場アート商会の丁稚小僧になりました。約6年間続けました。
その後22歳のとき、主人榊原さんから自動車修理の腕前が認められ、静岡に帰って、支店を出させてもらうまでに成長します。
支店とはいっても、本田宗一郎と小僧一人のたった二人でしたが、腕前が評判を呼び、25歳の時には50人以上の工員を雇うまでに成長します。
しかし、28歳のとき、自動車修理工場を閉鎖します。
理由は自分の店で働く工員達がどんどん独立していき、自分の店の商売敵となっていったから。本田宗一郎はこれを嫌い、また別な仕事をすることを決断しました。
従来から創造性のある仕事をしたい、という想いがあり、ピストンリング製造の会社を立ち上げることにしました。
1948年、本田技研工業株式会社創立。
溜めていた資金をつぎ込み、工場を建て、社員を雇い、事業を開始するも、いきなりメーカーへの転身はうまくいきません。
浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、金属工学の研究を始めます。
勉強の甲斐もあって、ようやくピストンリング試作品が完成します。
ピストンリング製作にとりかかってからすでに9か月、50人ほどの工員をかかえ、無収入の9か月間でした。
当時、すでに大手企業だったトヨタへの販売を試みます。
ピストンリングを3万本製作、その中から選りすぐりの50本を納品するも、50本の中で検査合格したのは、なんと3本。メーカーとして、酷いスタートでした。
その後、製造工程を見直し、開発もさらに改善を続け、2年かかってトヨタの部品として正式に合格できるようになりました。
この取引本格化もあり、トヨタから約40%の資本を受け入れ、事業も拡大。自動車以外の事業にも進出し、海軍の船舶部品、中島飛行機の部品にも進出します。
その後、終戦を迎えます。
受注量も激減したこともあり、会社を一旦閉鎖。本田宗一郎はすでに39歳を過ぎていました。
次なる仕事を考え続ける中、友人が持っていた機械からあるアイディアが浮かびます。
それが旧陸軍の六号無線機発電用エンジン。自転車に、軍が使用していた通信機の小型エンジンをつけて走らせました。
しかし、自転車に取り付けたモーターバイクはスピードが出ず、どうしても強力なフレームを持った強い馬力のオートバイを作りたいと考え、そこで研究所全員の知能を集めて、1949年に完成したのがドリーム号でした。
ドリーム号での販売を進める中、1954年、本田宗一郎は世界最大のオードバイレース「マン島TTレース」への出場を宣言します。
欧米の一流トップメーカーがしのぎを削るなか、敗戦国日本、かつ、まだ中小企業にすぎないHondaが参戦することは無謀でした。
1959年、最初のチャレンジは4人のライダーを送り込みますが最高でも6位。
しかし、その2年後の1961年、125ccクラスと250ccクラスで再挑戦。
両方のクラスで1~5位を独占するという快挙を成し遂げ、世界中を驚かせました。
1964年、「マン島TTレース」でオートバイの歴史を塗り替えた「HONDA」は自動車産業に本格的に乗り出し、自動車レースの最高峰F1に進出します。
1965年、F1世界選手権で最終戦メキシコGPで初優勝。
オートバイで歴史を塗り替えた4年後、F1の世界でも歴史を塗り替え、本田宗一郎は「世界一のエンジンを作った日本人」となりました。
1981年、勲一等瑞宝章を受章。
1983年、本田宗一郎が65歳のとき、HONDA社長、取締役も退き、終身最高顧問となる。無二のパートナー藤沢氏と共に見事な勇退となりました。
引退後、全国の販売店や顧客筋に感謝の意を込めて全国行脚を実施。
1989年、アジア人初のアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たす。
1991年8月5日、東京・順天堂大学医学部附属順天堂医院で肝不全のため死去。84歳でした。
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