新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
黒田さんが気にかけて、声をかけてくださることもありましたし、自分から聞くこともありました。黒田さんは、惜しみなく教えてくれる方だったので僕自身も聞きやすかったです。
大切なのは、ただ熱くなるだけじゃなくて、熱くなっている自分を見ているもうひとりの自分がいること。闘争心と冷静さのバランスが重要だと思っています。
まず、高校に進学する時、北海道に行くことには何の迷いもありませんでした。どこで野球をしたいかということだけを考え、自分で選んで進んだ道です。
卒業してから随分経ちましたが、北海道は今でも自分にとって、とても大事な場所。野球部の香田誉士史監督に出会ったことも、大きな転機となりましたから。技術はもちろん、人としても成長させていただいたことをとても感謝しています。
マウンドに上がれば、自分を疑うことはありません。
スイッチを入れて、ギアでいえば一番高いところに入っていって、フルスロットルで行くって感じです。スイッチは自然に入る時もあるし、自分で意識して入れることもあります。
多分キャッチャーをやっていたからというのもあると思うんですけど、体の軸を右側に残しておくことも重要です。足が着いたときでも軸が右(後ろ)にあれば、自然と肘が上がってくると思うし。マウンドは傾斜がありますが、意識は後ろに重心を残した状態で足を着くという感じです。
自分自身が自分を信じてあげないと、相手と戦えないし、チームからの信頼を得ることもできない。
野村監督からはこれまで厳しいことを言われ、何クソ、見返してやろうと。でも、それも愛情だと思っていた。
すべての現象には理由があるんです。ただやみくもに自分を信じるというよりも、きちんとひとつひとつ考えながらやっていくしかない。
どうして打たれたかを考えればいいだけです。打たれるのは、自分に理由がある。足りない部分があるわけです。
ニューヨークには仕事しに行ってるんで。もともとアメリカの生活に憧れてっていう部分ではない。
少なくとも、日本代表として声をかけられる選手であり続けないといけないと思っています。
北海道日本ハムのダルビッシュ有投手の存在は大きいです。もし渡米されることになったら、もう日本で投げ合って勝負することができなくなる。そう思うとなおのこと、勝ちたかったという想いが強くなります。
東日本大震災が起こり、被災地の皆さんに元気を届けるためにも、チームを挙げて意気込みは強くなりました。
遠い未来は目指さない。常に「明日の目標」をクリアし続ける。
メジャーリーグだって、昔は考えたことがなかった。あまりに遠くの話だった。だから、自分の中では仕事場がアメリカに移っただけ。
本格派だろうが何派だろうが、抑えりゃいいんですよ。
これだけは変えられない、これだけはずっと持っていないといけないというものを大事にして欲しい。ブレてはいけない。絶対に軸がないと駄目です。
大切なのは、ただ熱くなるだけじゃなくて、熱くなっている自分を見ているもうひとりの自分がいること。闘争心と冷静さのバランスが重要だと思っています。
とにかく自信を持ってやるということに尽きると思います。
夢や目標に向かって頑張る姿は、とても素敵なものです。また、その頑張りはやがて人生の財産になっていくはず。
全く考えていない。いまやるべきことをやるだけ。そのことは二度と聞かないでほしい。
打たれる理由をひとつずつ消していくしかないんです。
自分が今までやって来たことを信じてあげないと。
僕はもともと野球エリートじゃない。中一のときはレギュラー入りすらできなかった。プロに入っても最初は試行錯誤だった。結果、なにがあっても「しょうがない」と思えるようになった。打たれても「しょうがない」。次の打者に気持ちを集中する。負けても「しょうがない」。次の試合に全力を尽くす。
人生に無駄なんてことはない。この時間を生かすも殺すも自分次第。
僕たちは挑戦者 相手に向かっていく やるべき事をやる。
最終的に勝負を決めるのは気持ち。
一つひとつ乗り越えればいい。
田中将大。
1988年生まれ、兵庫県伊丹市出身(生まれは徳島県)。
妻はタレントの里田まい。
伊丹市立昆陽里小学校1年時に軟式少年野球チーム「昆陽里タイガース」で野球を始め、4番・捕手として坂本勇人とバッテリーを組んでいた。
小学校時代の最高成績は6年時の県大会準優勝。
伊丹市立松崎中学校時代にボーイズリーグの宝塚ボーイズで硬式野球を始めると強肩を買われて投手も兼任するようになり、3年時には関西南選抜チームに選出された。
駒大苫小牧高校1年の神宮大会では正捕手で出場している。
2年夏の第87回全国高等学校野球選手権大会ではチーム最多となる25回2/3を投げ、チームも大会連覇を果たす。
決勝戦で優勝を決めた最後の1球は2年生では史上初の150km/hを計測。
大会後、AAAアジア野球選手権大会の日本代表に2年生では堂上直倫と2人だけ選出され優勝。
2年秋からはエース兼主将となり、秋季北海道大会では決勝を含む5試合中4試合で本塁打を放つなど活躍。
その後行われた第36回明治神宮野球大会でも北海道勢として初めて決勝に進出して優勝し、第78回選抜高等学校野球大会では優勝候補に挙げられていたが、部員の不祥事により出場辞退となった。
史上2校目の夏3連覇が懸かった第88回全国高等学校野球選手権大会では大会直前から体調を崩したが、チームは決勝に進出。
早稲田実業との決勝戦では3回途中からリリーフ登板して延長15回まで1失点。
チームは1-1で引き分け、37年ぶりの決勝引き分け再試合となった。
再試合でも1回途中から登板し、7回3分の1を投げ3失点に抑えたが、チームは3対4で敗れる。
自身が最後の打者となった(空振り三振)。
甲子園通算成績は春夏12試合の登板で8勝無敗だった。
大会後は日本高校野球選抜としてアメリカ遠征に参加。
2006年9月25日の高校生ドラフト会議において、北海道日本ハムファイターズ、オリックス・バファローズ、横浜ベイスターズ、東北楽天ゴールデンイーグルスから1巡目指名を受け、抽選の結果楽天が交渉権を獲得。
楽天と仮契約を結び、背番号は18に決定。
高校時代の公式戦通算成績は57試合の登板で35勝3敗、計329回2/3を投げ、防御率1.31、奪三振数は横浜高校の松坂大輔を上回る458奪三振を記録。
2007年3月29日の対福岡ソフトバンクホークス戦で初登板初先発、1回2/3を投げて打者12人に対し6安打3奪三振1四球で6失点。
4回に同点となって敗戦投手にはならなかったが、降板後のベンチで涙を見せた。
4試合目の登板となった4月18日の対ソフトバンク戦で9回を2失点13奪三振に抑え初勝利初完投。
6月13日の対中日ドラゴンズ戦で高卒新人では2005年のダルビッシュ有以来の完封勝利を記録。
同年のオールスターゲームに高卒新人では1999年の松坂大輔以来となるファン投票で選出された。
7月22日の第2戦に先発して自己最速の153km/hを記録した(2回6失点)。
7月10日には高卒新人として松坂大輔以来史上6人目、江夏豊と並び最速タイとなる96回2/3でのシーズン100奪三振を記録。
8月31日の埼玉西武ライオンズ戦で松坂大輔以来となる高卒新人、および球団史上初となる2ケタ勝利を挙げた。
リーグ4位の186回1/3を投げて11勝を挙げ、リーグ2位で高卒新人では歴代4位の196奪三振を記録。
高卒1年目で新人王を受賞した。これは、松坂大輔以来8年ぶり。
2008年はシーズン2年目。この年は9勝に終わるが、高卒新人としては40年ぶりの2年連続150奪三振を記録した。
北京オリンピック(北京五輪)の野球日本代表に選出され、大会を通じ3試合に登板、7イニングで失点、自責点は0だった。
2009年開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。同大会では大会2連覇に貢献した。
シーズンでは援護率がパリーグでワースト2位の3.54だったにもかかわらず、最終的にリーグ2位タイ、チームトップとなる15勝、リーグ3位となる防御率2.33を記録。
12月25日の契約更改では1億500万円増、プロ入り4年目の選手としてはダルビッシュに次ぐ史上2番目の高額契約となる年俸1億8000万円で契約(推定)。
2010年は7月に太腿の肉離れで戦線離脱。
8月に復帰するも、8月29日の対西武戦で投球中に違和感を訴えて降板すると右大胸筋部分断裂と診断され、以降の試合は欠場している。
最終成績の11勝、防御率2.50はチームトップだったが、奪三振や投球回はプロ入り後最低となった。
11月15日にはタレントの里田まいとの交際を自身のブログで公表した。
2011年は19勝5敗。奪三振は241とイニング数を超える数を記録。防御率はパ・リーグ史上2位となる1.27で、2リーグ制以降では歴代5位の記録である。
この年は最多勝利、最優秀防御率、最優秀投手、最多完封の4冠を獲得。
他に両リーグトップの完投)、無四球試合(5試合)も記録。沢村栄治賞を初受賞、他にもベストナインにも選出され、ゴールデングラブ賞、最優秀バッテリー賞も獲得した。
2012年1月26日に里田まいとの婚約を発表。
2012年はシーズン終盤に4連勝し、最終戦で10勝目を挙げ、4年連続の2ケタ勝利となった。
防御率は2年連続の1点台となる1.87、リーグ最多奪三振を記録。
また完投、完封もリーグトップを記録。
オフの12月4日に第3回WBC日本代表候補選手34人に選出された。また12月22日に3年12億円+出来高で契約更改し、将来的なメジャーリーグ挑戦の意思があることを明らかにした。
2013年は、2月20日に第3回WBC日本代表選手28人に選出された。
同大会では先発として起用されていたが、中継ぎに配置転換され、4試合に登板。7イニングで防御率2.57の成績だった。
2013年レギュラーシーズンでは開幕から連勝を重ねた。
7月は4試合登板で3完投の4勝0敗として、パ・リーグ初の3カ月連続、日本プロ野球タイ記録の年間3度目、通算10度目の月間MVP受賞となった。
8月に入っても連勝は途切れることはなかった。
8月30日の対ソフトバンク戦(ヤフオク)で開幕からの連勝を19として、にルーブ・マーカードが1912年記録したメジャーリーグの開幕連勝記録に並んだ。
8月は5試合に登板し、5勝0敗で、日本プロ野球新記録の4カ月連続、年間4度目、通算11度目となる月間MVPを受賞。
9月13日の対オリックス戦(Kスタ宮城)でシーズン21連勝、日本プロ野球新記録となり、カール・ハッベルが1936年から1937年にかけて記録したメジャーリーグ連勝記録を上回った。
楽天の優勝へのマジック2で迎えた9月26日の対西武戦(西武ドーム)で1点差で迎えた9回裏に、同季初のリリーフで登板。
田中はランナーを2人出したものの無失点で抑えて胴上げ投手となり、チームは初のリーグ優勝を決めた。
巨人との日本シリーズでは第2戦(Kスタ宮城)に先発し、シリーズ史上18人目20度目の二桁奪三振、シリーズ史上3人目の毎回の12奪三振で、自身と球団シリーズ初勝利を挙げるが、チームの日本一まで残り1勝だった第6戦(Kスタ宮城)では、9回を160球で完投も被安打12で、この年のシーズン公式戦から含めてワーストとなる4失点で敗戦投手となった。
翌日の第7戦(Kスタ宮城)でも3点リードで迎えた9回から登板。
打者5人に15球で無失点で抑えてセーブを挙げ、球団史上初の日本一が決定すると共に、田中が胴上げ投手となった。
この年は、最多勝、最優秀防御率、勝率第1位投手を獲得。
前年からの連勝を28、開幕からの連勝を24としてそれぞれ日本プロ野球新記録を達成。
規定投球回数に達し、勝率10割としたのは日本プロ野球史上4人目で、シーズン無敗で最多勝は日本プロ野球史上初。
11月23日に行われた球団のファン感謝祭において、開幕からのシーズン24連勝に前年からの28連勝と、これにポストシーズンの2勝を含めた30連勝の3つがギネス世界記録として認定され、認定証が贈られた。
ポスティングシステムの新協定成立後の12月17日には翌シーズンのMLB挑戦を希望していることを表明し、25日に球団からポスティングシステムの行使を容認される。
2014年1月22日にニューヨーク・ヤンキースと総額1億5500万ドルの7年契約に合意したことが発表された。
投手としてはMLB史上5位の契約額となり、4年目終了後には契約をオプトアウトしてFAとなれる条項が付く。
開幕4戦目となる4月4日のトロント・ブルージェイズ戦でMLB初登板となる初先発を果たした。
1回裏に先頭打者のメルキー・カブレラに本塁打を打たれたが、7回を6安打3失点(自責点2)8奪三振の投球で、NPB/MLB通算100勝目となるMLB初勝利を挙げた。
5月14日のニューヨーク・メッツ戦では9回を4安打無失点の好投でメジャー初完封勝利を挙げ、9回の第三打席ではMLB初安打も記録。
6月3日には日本人投手史上3人目となる5月のリーグ月間最優秀投手に選出され、ヤンキースの新人投手では史上初の受賞となった。
前半戦は18試合の先発で12勝4敗、防御率2.51、WHIP1.01の成績を残し、オールスターに選手間投票1位で選出されるが、7月9日に右肘の違和感を訴え15日間の故障者リスト入りしオールスター出場も辞退。
翌日に右肘靭帯の部分断裂で全治6週間と診断され、PRP療法という保存療法での回復を目指しリハビリを行う。
9月21日のブルージェイズ戦で復帰し、投球数70球で5回1/3を5安打1失点の投球で13勝目を挙げるが、チームはポストシーズン出場を逃し、復帰後は右肘に異常なくシーズンを終えた。
2015年4月6日のトロント・ブルージェイズとの開幕戦で日本人4人目となる開幕投手を務めたが、4回5失点(自責点4)で敗戦投手となった。
この年は24試合に先発し、12勝7敗。防御率3.51の数字を残し、シーズンオフの10月に右肘の骨片を取り除く手術を受けた。
2016年は4月5日のヒューストン・アストロズとの開幕戦、日本人2人目となる2年連続の開幕投手を務め、5 2⁄3回2失点と好投したものの勝ち負けはつかなかった。
9月21日のタンパベイ・レイズ戦では自己最多となる14勝目を記録、メジャー3シーズン目にして初めて規定投球回に到達。
チームトップの14勝を挙げたほか、防御率は最終盤まで最優秀防御率獲得のチャンスがあったが最終的に3.07のリーグ3位で1位とは0.07差で終えた。
2017年、日本人投手初の3年連続開幕投手となったが、3回途中で7失点と炎上した。
8月27日のマリナーズ戦で同年シーズン10勝目を挙げ、日本人メジャー初のデビューから4年連続2桁勝利を記録した。
シーズン成績は13勝12敗、防御率4.74だったが、ポストシーズンでは2勝1敗、防御率0.90を記録した。
11月3日、オプトアウト権を行使せずヤンキースに残留することを発表。
2018年3月31日、開幕2戦目に登板。
6回を3安打1失点8奪三振という好投ぶりを見せ、ルーキーイヤーから実に4年ぶりとなる白星スタートを飾る。
シーズン中盤、4週間のDL入りをするものの、最終的に「5年連続12勝」を達成した。
日本時代から含めると「10年連続2ケタ勝利」を達成しており、NPBだけの記録では1980年に当時近鉄の鈴木啓示が記録した「15年連続2ケタ勝利」以来38年ぶりの快挙でMLBだけの記録では当時・ドジャースのグレッグ・マダックスが2008年に記録した20年連続以来10年ぶりで「NPBとMLBに跨っての10年連続2ケタ勝利」は史上初の快挙である。
2019年3月28日、ボルチモア・オリオールズとの開幕戦で日本出身の投手として最多となる4度目の開幕投手を務め、5回2⁄3を6安打2失点(自責1)無四球5奪三振の好投で、念願の開幕戦初勝利を飾った。
【なぜ日本の食の安全基準だけが…
1985年日航機墜落事故!日本…
【日本会議と統一教会、そして勝…
【えっ!選挙に出るのに必要な供…