新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
暗くやっても楽しくないですし、同じ時間を練習するんだったら、気持ちを高めてやるほうが自分を成長させてくれる。
骨折しても走れるんだっていう事と、僕が感じたのは骨折ってまで走ってはいけないという事ですね(笑)。良い子はマネしないように(笑)。
サッカーを続ける以上、マゾじゃなければいけない。続けていれば、ケガはつきものだし、僕も痛みのない身体がどういうものか忘れてしまった。
どうして「ゴン」という愛称になったかって?それは僕が大学時代、ポッチャリしてて「オレたちひょうきん族」というテレビ番組が流行っていて、その中でビートたけしさんが演じていた「鬼瓦権造」にそっくりだったからです。諸説ありますが、これは本当の話ですよ。
最近はスーパーサブが多い?まあ、使ってもらえるだけいいけど、目指すのはもっと高いところ。サブがいい動きをしていれば「スーパーサブ」になるわけだ。何もできない「ダ・サブ」にならないように努力したい。
今回は(秋田と)同じ部屋になるのではないかという恐怖心がありました。
Jリーグでもタイトなマークを食らっているので、同じ部屋でのタイトなマークを避けられて良かったです(笑)。
僕はチームが下痢のときと便秘のときだけ使われる。
僕にとってW杯は、もうDカップやEカップなんて問題じゃない大きさです。
Wカップですからね。
全国8500万の中山ファン、キミたちを悲しませない。ボクのプレーにクギづけさ。
競り合いでボールを奪うには、気持ちの強さが左右する。僕なんか下手くそだったから、気持ちの部分がなければ全く勝負にならない。それは敵チームに対してだけではなく、自分自身にもです。
最近思うのは、「あきらめるために頑張る」ということ。この「あきらめる」は「明らかに極める」って意味で使っています。自分が極めたいと思うものがあるから、工夫するし、高い意欲を持ち続けられる。これからもサッカーを極めるために、全力で取り組んでいきたい。
プロだったら頑張るのは当たり前。大事なのは、どう頑張るか。
僕は下手なプレイヤーで幸せでした。下手なことが悔しい。試合後に「なんであのプレーができなかったのかなぁ」と反省点が出て、イラついて眠れません。でも、その気持ちが成長の活力になる。
いまも「のびしろ」がたくさんある。欲張りたいね。一歩でも理想像に近づきたい。
プロは決められた状況でやり尽くす。たとえ、年齢でフィジカル面が落ちても、それを感じさせたら負け。
当たり前のことを、当たり前にやることが、実は一番スーパーなプレー。
僕は諦めの悪いプレーが特徴。最後までボールを追いかけるし、諦めが悪いからゴール前で相手がヘディングしそうな所にも飛び込んでいく。
戦う気持ちを全面に出して練習・試合に臨みたい。
僕にスランプはない。あれは一流の選手がなるもの。得点できないのは、ただ未熟なだけ。スランプと言えば逃げることになる。だから、まず自分の力がないと認める。
すべてのプレーを偶然ではなく必然にしたい。
自分は、人と違うプレーをする。そうしないと自分の居場所はない。
失敗でもいい、大きな挑戦。経験として、僕の中で蓄えられればいい。
『神様お願い』という前に、やれることはやり尽くしてピッチに立ちますよ。
自分に甘くするのも自分で、一番厳しくできるのも自分。
勝ちたいんじゃなくて、負けるわけにはいかない。
行かないところへ行く、走れないところまで走る。それをやめたら僕の価値なんてないんです。だからそれを続けていくのが使命なんです。
中山雅史。
静岡県志太郡岡部町(現:藤枝市)出身。
日本プロサッカー選手会名誉会長。
ゴン中山の愛称で知られる。
ほかに、中山隊長、隊長の愛称がある。
1996年から1998年までジュビロ磐田でキャプテンを務めた。
日本代表として1998 FIFAワールドカップ、2002 FIFAワールドカップにも出場。
Jリーグ(J1)最優秀選手賞1度受賞、得点王2回、ベストイレブン4度受賞した経験を持ち、Jリーグシーズン最多得点、J1での最年長記録、W杯本大会日本代表初ゴールなどの個人記録なども持つ。
国際試合における最短ハットトリックのギネス世界記録保持者でもある。
なお、2016年3月に佐藤寿人に抜かれるまで通算J1最多得点(157得点)記録保持者、同年11月にステファン・ルチヤニッチに抜かれるまでハットトリック連続世界記録保持者(4試合連続)であった。
妻は女優・タレントの生田智子で、実父の中山儀助は元岡部町町議会議員である。
【サッカー歴】
静岡県立藤枝東高等学校ではエースストライカーとして活躍し、高校2年生の1984年は全国高校サッカー選手権で準決勝まで駒を進めたが、長崎県立島原商業高等学校との対戦でPKの末に敗れた。
1986年、筑波大学体育専門学群を卒業、1990年、ヤマハ発動機に入社し、サッカー部(後のジュビロ磐田)に入部。
当時のヤマハは完全プロ化への移行は成されていなかったため、サラリーマン生活も経験。
同年の第1回ダイナスティカップ北朝鮮戦で日本代表デビュー。
翌年、ヤマハ発動機サッカー部がJリーグ開幕10チームから落選することが決定すると、Jリーグ参戦が決まった新規クラブの清水エスパルスからオファーを受けるが固辞しヤマハに残留した。
1992年に発足したオフトジャパンでは試合終盤に投入されるスーパーサブとして活躍し、第2回ダイナスティカップやアジアカップの初優勝に貢献。
1993年はクラブがジャパンフットボールリーグ(JFL)在籍にもかかわらず、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選のメンバーにも選ばれ活躍。
1994FIFAワールドカップアジア最終予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点ゴールを決められ引き分けた、いわゆる『ドーハの悲劇』はあまりにも有名。
【ドーハの悲劇】
1993年10月FIFAワールドカップアジア最終予選最終戦、第4戦終了時点で首位の日本は勝てば他会場の試合結果にかかわらず出場決定となり、日本が引き分けてかつサウジアラビアと韓国がどちらも勝った場合であっても、韓国が北朝鮮に1点差で勝利した場合には、日本の総得点が韓国と同数以上であれば日本が出場権を得られるという、かなり有利な条件で日本は最終戦に臨んだ。
悲願だったFIFAワールドカップ初出場に、日本代表は王手をかけていた。
第5戦(最終戦)日本-イラク戦は開始5分に中山のポストプレーから長谷川がシュートを放ち、クロスバーに弾かれバウンドした所を三浦知がヘディングで押し込み、日本が早々と先制。
後半に入るとイラクのサイド攻撃が活発になり、55分にアーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ、1-1の同点に追いついた。
69分にラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドラインぎりぎりで抜け出した中山が受け、ゴール右角に決め2-1の勝ち越しに成功した。
このまま逃げ切れば悲願だったW杯出場。
89分50秒、ラモスのパスをカットしたイラクは自陣からカウンターアタックを仕掛け、日本の左サイドからコーナーキックのチャンスを得た。
このキック前に90分を経過してロスタイムに突入。
ここでキッカーのライト・フセインはゴール前に直接センタリングを送らず、素早くショートコーナーを開始。
意表を突かれた日本は三浦知が対応するが、フセイン・カディムに振り切られセンタリングを上げられる。
これをニアポスト側にいたオムラム・サルマンがヘディングシュート。
ボールは、見上げるGK松永成立の頭上を放物線を描いて越えゴールに吸い込まれ、同点となった(90分20秒)。
結果、2-2の引き分けで試合終了となった。
他会場の結果が、『サウジアラビア 4-3 イラン』『韓国 3-0 北朝鮮』だったため、日本は出場権を逃した。
FIFAワールドカップ初出場に近づいていた日本代表が一転して予選敗退する結末となった。
【Jリーグへ】
1993年、ジュビロ磐田は中山雅史の活躍等もあり、JFL1部で2位となり、1年遅れながら悲願だったJリーグ昇格を果たした。
1994年のJリーグ開幕当初は試合に出場したが、前年までの代表及びクラブでのフル稼働が原因で、恥骨結合炎及びスポーツヘルニアが悪化し、専門医のいるドイツで手術を受ける。以後リハビリが続き、8か月もの間ピッチを離れシーズンを棒に振った。
1995年には怪我から復帰し開幕から好調なスタートを切った。元イタリア代表サルヴァトーレ・スキラッチとのコンビはJリーグ最強と言われた。
1997年は、ドゥンガや山本昌邦らとのトレーニングにより、「オフ・ザ・ボールの動きの質」に開眼。
第2ステージでは自身Jリーグにおいては自身初となるハットトリックも記録するなど結果を残してステージ優勝に貢献。
直後に1998 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終局面で代表へ復帰して今度は日本代表の予選突破に貢献。
日本の本大会初出場を決めたアジア第3代表を決めるイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」)では、岡田武史監督から2トップ組む三浦知良と共に交代を命じられ、呂比須ワグナー及び城彰二が投入された。
更に鹿島アントラーズとのチャンピオンシップでも3ゴールを挙げてMVPとなる活躍を見せ、磐田のリーグ初制覇に貢献した。
1998年、FIFAワールドカップに日本代表として出場。
グループリーグで敗退したものの、3試合すべてで先発し、ジャマイカ戦でセオドア・ウィットモアに2点を取られ、日本は敗れたものの、日本代表のワールドカップ初ゴール・日本人初ゴールを決める。
その直後の相手選手との接触で脚を骨折しながらも試合終了まで走り続けたことは、日本代表としての誇りと魂の象徴として、今も語り草になっている。
同年のリーグ戦では4月15日の対セレッソ大阪戦での5得点(「1試合1人での最多得点」タイ記録)を皮切りに、4月18日の対サンフレッチェ広島戦で4得点、4月25日の対アビスパ福岡戦で4得点、4月29日の対コンサドーレ札幌戦で3得点と4試合連続のハットトリックを記録し、ギネスブックに掲載された。
シーズン合計では27試合出場で36得点を記録し当年度の得点王、MVP獲得など個人タイトルを総なめにした。
1999年にJリーグ選手協会副会長に就任。
2000年J通算100ゴールを達成、シーズン通算でも20得点を記録しJリーグ史上初の2回目の得点王を獲得。
2001年に井原正巳に代わりJリーグ選手協会会長に就任。
2002年、2002FIFAワールドカップ代表入りを果たし、日本のワールドカップ初勝利となったロシア戦で後半途中からピッチに立つ。
「ドーハの悲劇」、1998年W杯、2002年W杯を日本代表として経験した唯一の選手となった。
2002年、クラブでは同年のリーグ得点王となった高原直泰とのコンビで再開後のリーグ戦でゴールを量産し、自身は16ゴールを上げ、この年のリーグ戦では日本人のみなら得点王の高原に次ぐ得点をとった。
そして、磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝に貢献しベストイレブンに選出された。
2005年Jリーグ史上初の個人150ゴールを達成。
2008年J1リーグ戦15年連続ゴールを達成。
2009年シーズンは出場機会が激減。
自身が同年42歳の高齢となったこともあり、11月9日に磐田から戦力外通告を受け、磐田での最後の試合を終えた。
コンサドーレ札幌(J2)に移籍。
2010年シーズンは途中出場で主に出場するも、得点には至らなかった。また、11月に膝の手術をした。
2011年は怪我の影響で公式戦無出場に終わったが、札幌のJ1昇格が決まった。
2012年、シーズン終了後、現役続投か引退かの結論を保留していたが、12月に今季限りでの現役引退の決意を固め、4日に現役引退を発表。
引退後は、色々なバラエティ番組やスポーツ番組、ニュース番組などにゲスト出演したり、サッカー解説を行っている。
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