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新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
両親ともスポーツマンで、父は野球、母はバドミントンを社会人までしていた人です。父はプロを目指しながらも、なれなかったので「プロは甘いものじゃないぞ」といつも厳しさを伝えられてきました。周りから多少持ち上げられても、父の言葉で、身が引き締まりましたね。
僕はマイナス思考なんですよ。良かった時より、悪かった試合の記憶のほうが残る。だから弱点が見えたら、しっかり直して塗り潰したい気持ちが強いんです。
僕も高校時代は岩手の田舎で、甲子園には二度出ましたが、どちらも一回戦敗退でしたから。常に「上には上がいる」と感じながら練習し、「どのくらいの力があればプロになれるんだろう」と絶えず、悩んでいました。だから高校時代からメモをつけるようになったんです。
ピッチャーはゲームを作れる、バッターはゲームを決められる。
読む本は野球以外のビジネス書などが多いです。スティーブ・ジョブズの本などの経営者の力強い言葉に勇気をもらったり、最近は栄養学に関する本で体作りに活かそうと考えていますね。
高校時代から始めたメモをつける習慣は、今も続けています。その日の練習や試合で良かったことと悪かったこと。そして「今度からこうしていこう」という内容をまずスマホでメモして、後でノートに清書して残すようにしています。他にも読んだ本の中で、響いた言葉があればそれもメモし、自分に活かせないかと考える材料にしています。
周囲から(投打)二刀流をやめろと直接言われたことはないですね。また、「一本に絞った方が……」という声が耳に入っても、気になりません。僕にとっては小中高、そしてプロと、ずっと二刀流をするのが普通のことなので。
万人共通のピッチングフォームは絶対にありませんし、僕の体が変われば僕のフォームが変わるのは当然のことですから、オフの間に体が変われば、フォームが変わってくるのは自分でわかっていました。
特に幕末が好きですね。日本が近代的に変わっていくための新しい取り組みが多くて、歴史的に見ても大きく変わる時代。『革命』や『維新』というものに惹かれるんです。
「自分が先に170キロを突破するんだ」と思っているこの方が、すごくいいんじゃないかな。
誰もやったことがないようなことをやりたい。野茂英雄さんもそうですし、成功すれば高校からメジャーへという道も拓けると思う。
160km/hの目標を掲げた時には『無理じゃないか』と言う声もあったが、そう言われると、絶対やってやるという気持ちになる。刺激というか、やる気になる。
『二刀流』誰もやったことがないからやっている。自分しかやっていないところに魅力がある。そこに、自分にしか出来ない仕事があるんじゃないか……。
誰もやったことがないから、自分しかやっていないから、『自分にしかできない仕事』が、もしかしたらそこにあるかもしれないから、だから、二刀流をやっています どのジャンルにおいてもそういうのは魅力的です。
誰かがやった後に続くんじゃなくて、誰かがやったことをやるんじゃなくて、その上をとにかく超えていく。何か大事を成し遂げた人って、人々がムリだって不可能だって言ったことに対して『いや、できる』と思ったものが新しいものを作っていった。
無理、絶対にできないといった限界を感じたことは一度もありません。
自分の限界を作りたくない。
大谷 翔平。
プロ野球選手。
岩手県水沢市(現在の奥州市)に、社会人野球の選手だった父とバドミントン選手の母を持つ、スポーツマンの両親の家に、三人兄弟の末っ子として生まれる。
「翔平」という名前は、父が奥州平泉にゆかりのある源義経にちなんで、義経の戦うと飛ぶイメージから「翔」の字を用い、平泉から「平」を取って名付けられた。
姉体小学校3年時に水沢リトルリーグで野球を始め全国大会に出場。
小学校5年生にして110km/hを岩手県営野球場で記録している。
水沢南中学校時代は一関リトルシニアに所属し、ここでも全国大会に出場した。
菊池雄星に憧れ、彼の出身校の花巻東高校へ進学。
入部後は秋からエースを務め、最速147km/hを記録し、2年春には最速151km/hを記録し、「みちのくのダルビッシュ」と呼ばれ注目を集める。
第93回全国高等学校野球選手権大会初戦の帝京高校戦では甲子園での高校2年生最速タイ記録(当時)となる150km/hを記録。
3年夏の岩手大会の準決勝・一関学院高校戦ではアマチュア野球史上初となる160km/hを記録。
しかし決勝の盛岡大学附属高校戦では5失点を喫し、高校最後の全国選手権大会出場はならなかった。
甲子園通算成績は14回を投げ防御率3.77、16奪三振。野手としては2試合で打率.333、1本塁打。
第25回AAA世界野球選手権大会の日本代表に選出され、主に四番・指名打者として起用された。
プロ野球ドラフト会議前には日本プロ野球だけでなくメジャーリーグ球団からも注目され、本人はメジャーリーグへの挑戦を表明。
しかし、2012年10月25日に行われたドラフト会議では北海道日本ハムファイターズが大谷を1巡目で単独指名し交渉権を獲得。
「アメリカでやりたいという気持ちは変わりません」と語ったものの、指名挨拶を受け、両親を交えた入団交渉も4度に渡って行い、前年までダルビッシュ有が着用していた背番号11、投手と打者の「二刀流」育成プラン等を提示され、12月9日に日本ハム入団を表明。
2013年、春季キャンプでは投手と野手の練習メニューを並行してこなし、2月途中から一軍に合流。
オープン戦・春季教育リーグでも投手、右翼手、指名打者として出場し、3月21日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦のオープン戦では、投手として登板した後に打席に立ち、更に右翼手の守備に就くなど、本格的な二刀流起用を想定した采配をされる。
開幕戦で2安打1打点を記録、高卒新人が開幕戦で複数安打を記録したのは1960年の矢ノ浦国満(近鉄バファローズ)以来53年ぶり2人目。
5月23日の東京ヤクルトスワローズ戦、投手として初登板・初先発。5回2失点で勝敗はつかなかったが、新人投手の初登板では史上最速となる157km/hを記録。6月1日の中日戦で先発投手を務め、5回3失点でプロ初勝利を挙げる。
6月18日の広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)はセ・リーグ球団の主催試合で指名打者が使えないという事もあり、五番・投手で先発出場。
先発投手が三~五番を打つのは1963年の梶本隆夫(阪急ブレーブス)以来50年ぶり[40]。
投手としては4回3失点で降板したが、降板後に右翼手の守備に就き、打者としては1安打1打点を記録した。
オールスターゲームにはファン投票で外野手として初選出され、第1戦では5回から投手として登板し1回2安打無失点、最速157km/hを記録する投球を見せ、第2戦では高卒新人としてはオールスターゲーム史上初となる一番打者で起用され、第1打席で初安打となる二塁打を記録、続く第3戦では高卒新人としては1986年の清原和博以来となるオールスターゲームでの打点を記録し、敢闘選手賞とスカイアクティブテクノロジー賞を受賞。
投手としては13試合に登板し、3勝無敗、防御率4.23を記録、打者としては77試合に出場し、打率.238、3本塁打、20打点を記録。
2014年、3月30日のオリックス戦でプロ入り初の猛打賞を記録、4月12日の西武戦でプロ入り初の二桁奪三振とシーズン初勝利を記録。5月13日の西武戦では、9回を被安打6・奪三振9の内容でプロ入り初完封勝利、6月4日の広島戦ではパ・リーグ史上最速の160km/hを計測。
オールスターゲームには前年の外野手に続き、投手として監督推薦で選出。投手と野手の両方で選出されるのは関根潤三以来2人目。7月19日の第2戦に先発登板し、1イニングを投げ、打者5人に対し3被安打1失点の内容で、全23球のうち12球で160キロ以上を記録。
年間で投手としては24試合に登板し、11勝4敗、防御率2.61を記録。
打者としては86試合に出場し、打率.274、10本塁打、31打点を記録。
オフには日米野球2014の日本代表に選出。
2015年、3月27日の楽天戦で自身初の開幕投手を務め、5回2/3を被安打3、失点1、6奪三振に抑え勝利投手になった。
オールスターには投手と野手でファン投票選出された。
年間成績は15勝、防御率2.24、勝率.750で最多勝利、最優秀防御率、最高勝率の投手三冠に輝いた。
2016年、開幕投手を務めたが、打線の援護に恵まれず、先発した5試合で白星が無かった。先発6戦目となった5月1日のロッテ戦で9回を4失点で抑えてシーズン初完投初勝利を飾った。
オールスター第1戦試合前のホームランダービーでは一回戦で山田哲人、決勝戦で柳田悠岐を破り、優勝を果たした。
オールスターの第2戦では5番・指名打者として先発して、自身初のオールスター本塁打を放つ等MVPを受賞する活躍を見せた。
年間成績では10勝を挙げ、自身2度目の「同一シーズンで二桁勝利と二桁本塁打」を達成し、NPB史上初の「10勝、100安打、20本塁打」を達成。日本ハムのリーグ優勝に貢献。
日本シリーズでは、打者として第2戦に9回表に代打で出場、第3・4・5戦では3試合とも3番・指名打者として先発出場。特に第3戦では延長10回裏、2死2塁の場面で広島の大瀬良大地からサヨナラ適時打を放ち、チームのシリーズ初勝利に貢献した。チームはこの勝利から4連勝で4勝先取となり、自身初の日本一も経験した。
2017年、WBC日本代表に選出されるも足首の調子が悪く辞退。
シーズンも怪我の影響で満足のいくプレーは出来ず、投手としてはプロ入り後ワーストタイの3勝、野手としても65試合出場、8本塁打という成績に終わっている。
2017年12月9日にロサンゼルス・エンゼルスと契約合意。
2018年3月28日にメジャー契約を結び、アクティブ・ロースター入り。
3月29日、開幕戦のオークランド・アスレチックス戦でメジャーリーグ初打席初球初安打、4月1日のオークランド・アスレチックス戦でメジャーリーグ初登板初勝利、4月3日、本拠地初戦のクリーブランド・インディアンス戦で指名打者として出場し、第1打席でメジャーリーグ初本塁打を放った。
勝利投手が2日以内に打者として出場した試合の初回に、本塁打を記録したのは1921年6月13、14日のベーブ・ルース以来、実に97年ぶりの快挙。
さらに4月4日には2試合連続となる同点2ランホームランを放ち、4月6日の本拠地エンゼルスタジアムで行われたオークランド・アスレチックス戦の第1打席で、3試合連続となる第3号ホームランを放った。
日本人メジャーリーガーによる3試合連続ホームランは、2004年9月(2年目)と2007年7月に記録したヤンキースの松井秀喜以来2人目であり、1年目で、しかも4月に達成は日本人選手史上初。
メジャー史上では4人目の快挙、投手としては、1930年のベーブ・ルース以来88年ぶりの偉業となった。
また、打点が公式記録となって以降で、本塁打と2打点を本拠地開幕戦から3試合続けたのは、ア・リーグでは初めてで、4月8日、本拠地初登板で7回を投げ1安打12奪三振1四球の快投を見せ開幕2勝目を挙げた。
新人投手としてデビューから最初の2試合で6奪三振以上は、球団史上3人目の記録。また、デビュー登板から2試合のうちに12奪三振を記録したのは、ア・リーグタイ記録。
4月9日、週間MVPに選ばれ初受賞した。
打者として104試合(代打22試合)に出場し、打率・285、22本塁打、61打点、10盗塁。
投手としては10試合に先発登板し4勝2敗、防御率3・31の成績を残し、メジャー史上初の「10登板、20本塁打、10盗塁」を達成し、シーズンを終了した。
9月のア・リーグルーキー・オブ・ザ・マンスに選ばれた。4月以来2度目の受賞となり、日本人選手が同賞を複数回受賞するのは2001年のイチロー以来となった。
同年はMLB史上初の「10登板、20本塁打、10盗塁」が評価され、対抗馬のミゲル・アンドゥハーに48ポイントの大差をつけ、ア・リーグの新人王に選ばれた。
日本人選手の受賞は2001年のイチロー以来17年ぶり4人目となった。
2019年、開幕からリハビリを重ね、5月7日のデトロイト・タイガース戦で打者として復帰。
6月13日の対タンパベイ・レイズ戦に「3番・指名打者」で出場。日本人メジャーリーガー初のサイクルヒットを達成した。
新人王とサイクル安打を双方達成したのは、史上16人目。1900年以降、投手で2勝以上し、サイクル安打を放ったのは。1920年、1921年のジョージ・シスラーだけで史上2人目、98年ぶり。
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