新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
悩みぬいた末、野球人生の最後の決断として、プロ野球人生をスタートさせたカープで、もう一度プレーさせていただくことを決めました。今後も、また日々新たなチャレンジをしていきたいと思います。
もし僕が子供の頃から「メジャーリーガーになる」なんて大目標を立てていたら、現実とのギャップから、野球を諦めていたかもしれません。実際、高校時代の僕は3番手の投手で補欠、進学した大学も2部リーグでした。だから、僕は遠くを見過ぎずに、短いスパンで目標を立ててコツコツとクリアしてきました。
今思えば、上宮は相当レベルが高かったんでしょうね。高校生活が3年間で本当によかった(笑)。でも、しんどいことでも、それを乗り越えられればその先に何かあるということがわかったし、だからこそ、きつかった経験をネガティブに捉えるのはもう止めようと思えるようになりました。
天狗になってしまうということも含めて、まず、大学の進路が変わっていたでしょう。僕は専修大学に行って、『甲子園に出た選手には負けたくない』という気持ちでやっていた。そういうモチベーションは確実にあった。他の(強豪)大学に入っていたら、そういう気持ちも無く、そこで潰れていたかもしれない。だから、人生の節目ってあるんですよ。
もちろん、メジャー挑戦は不安だらけでしたよ。日本でタイトルを獲っていようと、何勝していようと、メジャーでの実績はゼロ。でも、自分を追い込んで挑戦してこそ成長できるんです。そこで、まず僕は日本で積み上げてきたやり方を捨てました。日本では「ミスター完投」と呼ばれましたが、完投へのこだわりも捨てました。いまは、クオリティスタート(6回3失点以内)を意識して投げています。
ヤンキースに移籍して1年目。自己最多の16勝を挙げられました。地区優勝が決まるレッドソックスとの試合で投げたことも思い出に残っています。ただ開幕から5月まではそんな好成績を思い描けませんでした。FAでヤンキースーに入ることの大変さを知りましたね。メディアやファンの注目度がドジャース時代とは大きく変わり、プレッシャーを強く感じました。あれこれ悩んで、考えすぎて、メンタルの部分で調子を崩してしまっていたんです。変な話、住んでいるマンションにベランダがなくて良かったと思いましたよ。もしラクになれるなら……と考えたかもしれない。そんな僕にジラルディ監督が「毎試合勝てるピッチャーなんていない。おまえのままでいてくれ(Just be yourself)」と声をかけてくれたんです。気持ちが楽になりました。
せっかく成果を出してきたやり方を変えることは遠回りに思えるかもしれません。でも、僕はそれこそが新しい環境で結果を出す近道だと思います。
もしかしたらいつまでも野球を好きになれないのかもしれない。いや、好きだから続けているのかもしれない。子供のころからやっているので、宿命のように感じている部分もありますし、でも一方で何度か野球を辞めるタイミングがあったのに辞めなかったということは、好きなのかもしれない……。楽しい時期はあったんですよ。小学校から中学校までは親父が監督をするチームでプレーしていたんですけど、とにかくグラウンドに行くのが楽しみで仕方なかった。ただ、それ以降は地獄でしたけどね。だからこそ、今もあまり楽しんだらいけないと思っているのかもしれないですね。苦しまないといい仕事ができない、というか……。
どの試合でも「これが最後の試合」という気持ちで投げています。打たれること、負けることは常に怖いです。でも、今日か最後と思えばその恐怖だって軽減されるじゃないですか。ひたすら目の前の試合に、自分の全力を出し切るしかないと腹をくくっています。
ひとりで悩むより、素直に人に聞くのが1番。ドジャースでも、ヤンキースでも、僕はすぐにコーチや投手に質問しました。「いろんなことにトライしたいので、あなたのやり方を教えてくれ」と聞けば、知識だけでなく、選手やコーチも僕のことを認めて、迎え入れてくれるんです。最初から「オレは実績があるんだ」とか「調整は日本流でやる」といったら、相手もムッとして下手すれば、相手にしてくれなくなりますよ。
あと何年野球ができるか分からないですし、カープで野球をすることの方が 『1球の重み』を感じられるんじゃないかなと判断しました。
イニングというのは、3人をアウトにしなければ成立しませんから、やっぱり積み重ねかなと思います。単純計算で1万人近くをアウトにしているってことですから、そう考えると、どっと疲れてきますよね(笑)。ただ、勝ち星ではなかなか大投手と呼ばれる人たちに追いつかなかったとしても、そこは自分の力で行ける部分だと思うんで。イニングをこなすというのは、怪我をせず、コンディションを整えて投げ続けるということ。自分の野球が終わるときが来たら、そこは自分でそれなりに評価できるところじゃないかなと思います。
勝ち負け以前に、投手として戦う姿勢を見せることが大切だと思っている。
1番言われて悔しいのは優勝経験がない。最後、土壇場になった時に優勝経験があるチームが強いとか、解説者の方がよく仰られるんですけど、そういうのが一番、自分が優勝経験がなかったというのに対して、常に悔しい気持ちを持っていた。
何年もかけて、最高のものを追求してきた結果がいまの練習になっているわけでしょう? もちろん、これからも進化するでしょうが、何か理屈が通ってることがあるはずなんです。『自分には合わない』と思わずに、『どこが自分に合うんやろ』と前向きに考えた方がいいと思うんですよ。
その1球を投げるために、こっちはたくさんの調整をして、いろんなデータをとってその1球のためにいろんなことをやって投げているんで、それを軽く言われるのはちょっとね。
僕自身はバッティングとか守備は上手くないので、その中で何を目指すかと言えば、やっぱり立ち居振る舞いだと思ってます。マウンドでの雰囲気というのは大事かなと思います。
プライドを捨て、新しい挑戦を繰り返してこそ、結果がついてくる。
好きな言葉は「苦しまずして栄光なし」です。高校時代の恩師から聞いた言葉で、練習や試合の際、常に胸に抱いています。
雪に耐えて梅花麗し。
最後の最後まで野球の神様はいると思って野球をやってきた。
選んだ道が正解となるように自分で努力することが大切。
黒田 博樹。
大阪府大阪市出身。
父は元プロ野球選手の黒田一博。
元プロ野球選手の父・黒田一博が監督を務めたボーイズリーグのチーム・オール住之江に所属。
上宮高に進学、高校では控え投手。
上宮高から東都の専修大学へ進学、大学1部リーグ通算15試合6勝4敗防御率3.33。
1996年、ドラフト逆指名2位で広島東洋カープに入団。
1997年は春季キャンプが終了したのち、2軍でのスタートとなる。
広島東洋カープ由宇練習場での練習試合に中継ぎ投手として登板するも、1イニング10失点を喫する。
1998年は僅か1勝でシーズンを終えた。
2000年9月20日の巨人戦から閉幕まで4連続完投勝利を挙げた。
2001年はオールスターゲームに初出場。初の2桁12勝をマークし、チームの勝ち頭となる。
2002年は途中先発ローテーションから外れたが、2年連続2桁勝利を達成。
2003年はそれまでのエース・佐々岡真司に代わって初の開幕投手となる。最終的に13勝を挙げ3年連続2桁勝利を達成し、自身初となる投球回200イニング以上を果たした。
アテネオリンピック野球アジア予選にも出場。
2004年も2年連続で開幕投手を務め、アテネオリンピックでは野球日本代表に選出され中継ぎとして2勝し、銅メダル獲得に貢献。
2005年4月15日の横浜ベイスターズ戦で三浦大輔と互いに完封リレーを行い0-0というスコアで引き分けた。オールスターゲームにファン投票で選出され4年ぶりの出場を果たし、リーグ最多勝利で初タイトルを獲得。
2006年7月2日の中日戦からは負け無しの8連勝を記録。7月は4勝0敗、防御率0.84、WHIP0.78の活躍で月間MVPを受賞。更に8月も続けて4勝0敗、防御率1.11、WHIP0.86の活躍で月間MVPを連続受賞。球団史上初の2ヶ月連続月間MVP受賞となった。
FA権取得に伴い、10月15日に球団から「4年10億円+生涯保障、指導者手形」という条件を提示される。そして11月6日に4年12億円(基本年俸2億5000万円+単年最大5000万円の出来高込。当初の条件に出来高を上乗せしている)でFA権を行使せずに残留することを表明。「今後も国内他球団の移籍はない」と明言し、国内なら「生涯広島」を宣言した。なおこの契約は、4年の契約期間内で自由にメジャーリーグ挑戦できるようになっていた。
2007年12月、ロサンゼルス・ドジャースと総額3530万ドルの3年契約を結んだ。
2008年は4月4日のサンディエゴ・パドレス戦でメジャーデビューし、初勝利を挙げた。
前半戦は17試合の先発で5勝6敗、防御率3.43、WHIP1.20の成績で折り返し、8月からは11試合の先発で4勝2敗、防御率2.56、WHIP1.03と好投。
シーズン通算では防御率とWHIP、クオリティ・スタートでリーグ20傑に入り、FIPではリーグ9位の3.59を記録する。
2009年は野茂英雄、松坂大輔に次いで日本人史上3人目の開幕投手として4月6日のパドレス戦に先発し、5回2/3を4安打1失点の投球で白星を挙げる。
前半戦はWHIP1.14と安定した投球を続けるも3勝5敗、防御率4.67を喫するが、後半戦は5勝2敗、防御率2.98、WHIP1.13と好投を続け、チームは2年連続の地区優勝を果たす。
2010年4月9日のフロリダ・マーリンズ戦で初登板し、8回5安打1失点の好投で3年連続初登板勝利を記録。
前半戦は17試合の先発で7勝7敗、防御率3.87、WHIP1.37の成績で折り返す。
シーズン通算では11勝、防御率3.39、投球回数196回1/3、奪三振数159と主要カテゴリーでメジャー自己最高の成績を記録した。
オフにはドジャースとの契約が終了しFAとなる。1年1200万ドルでドジャースと再契約。
その後記者会見では「ドジャースが必要としてくれるなら第一に考えたかった」と語り、自身のブログでは広島への復帰報道について謝罪し「日本に復帰するならカープしか考えていなかった」と改めて明言した。
2011年のスプリングトレーニングでは東日本大震災の募金活動に参加し、自身も5万ドルを寄付。
4月3日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で初登板し、7回を6安打3失点の投球で4年連続の初登板勝利を挙げる。
前半戦は18試合の登板で6勝10敗、防御率3.06、WHIP1.22と過去最高の成績で折り返し、後半戦も14試合の登板で7勝6敗、防御率3.09、WHIP1.20と安定した投球を続け、シーズン通算では16敗を喫したものの13勝とリーグ9位の防御率3.07、161奪三振と主要3部門で2年連続キャリアハイを更新した。
2012年1月26日にニューヨーク・ヤンキースと1500万ドルの1年契約を結んだ。
4月13日のエンゼルス戦で移籍後初勝利を挙げる。
17試合の登板で8勝7敗、防御率3.50、WHIP1.26の成績で前半戦を終える。
レギュラーシーズン最終戦となった10月4日のボストン・レッドソックス戦では松坂大輔と投げ合い、7回7安打2失点の投球でプロ入り後キャリアハイとなる16勝目を挙げ、チームも地区優勝を決めた。
また、防御率3.32はヤンキース先発陣のトップ。投球回219回2/3はリーグ4位。勝率.593はメジャー自己ベストであった。
ポストシーズンではボルチモア・オリオールズとのディビジョンシリーズ第3戦に先発し、ポストシーズンでの日本人選手最長となる8回1/3を5安打2失点の投球でチームの勝利に貢献。
デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは中3日で先発登板し、5回まで走者を出さず、7回2/3を5安打3失点、ポストシーズンでの日本人選手最多となる11奪三振の好投を見せるも黒星を喫し、チームは第4戦で敗退した。11月20日に1500万ドルの1年契約で再契約。
2013年前半戦を19試合の先発で8勝6敗、リーグ2位の防御率2.65、WHIP1.05の成績で折り返し、後半戦の勝敗は3勝7敗に終わり、チームもポストシーズン進出を逃した。
2014年前半戦は19試合の先発で6勝6敗、防御率4.10、WHIP1.21の成績で折り返す。チームは2年連続でポストシーズン出場を逃したが、後半戦は13試合の先発で5勝3敗、防御率3.16、WHIP1.03の成績を残し、チームの先発投手で唯一開幕から先発ローテーションを守った。
シーズン終了後FAとなった 。古巣のドジャースがオファーを提示したことが報じられ、この他にパドレスも1800万ドルのオファーを提示したことが報じられた。
2014年12月27日に古巣の広島と契約したことが球団から発表。
海外での高額オファーを断って日本国内の古巣・広島カープに復帰するというニュースは、日本球界関係者のみならず大リーグ関係者にも大きな反響があった。
「年齢的な部分を考えても残りの野球人生は長くないと思っていますし、いつ最後の登板になっても良いという気持ちでやっています。1球1球にどれだけの気持ちを込めて投げられるかと考えた時に、カープのユニフォームを着て投げて最後の1球になった方が、後悔が無いと思い復帰を決断しました」と語った。
3月29日のヤクルト戦で復帰後公式戦初登板し、7回5安打無失点で復帰後初勝利を挙げた。
最終的に11勝8敗、リーグ7位の防御率2.55の成績を残した。
2016年4月2日の巨人戦で120球を投げて4安打完封勝利を記録した。
40代での完封勝利は史上8人目、41歳以上では4人目の快挙。
7月23日の阪神戦では7回を投げ5安打無失点で、NPB/MLB通算200勝(NPB:121勝、MLB:79勝)を達成。
8月には、新井貴浩、リオオリンピック金メダリスト金藤理絵とともに広島県民栄誉賞の受賞。
広島が優勝マジックを1として迎えた9月10日、東京ドームでの2位巨人との直接対決に先発し、6回6安打3失点で9勝目を挙げた。
この試合に勝利した広島は25年ぶり7度目のリーグ優勝を決め、黒田は緒方孝市監督、新井貴浩とともに胴上げされた。
2016年10月18日に今シーズンで現役を引退することを表明。
引退表明までの成績は日米通算203勝184敗。2016年10月25日の日本シリーズ第3戦(札幌ドーム)が最終登板となり、5回2/3を投げ85球4被安打1奪三振1失点。
最後の打者は大谷翔平だった。
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