新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
自分の価値観と合わない人だと人間はついつい悪いところばかり目についてしまうけど、いいところを探して、とにかく一度、信頼してみる。こっちが好意を持って話しかけたら、きっと相手も好意を持ってくれると思う。
愚痴だけでなく負の言葉は全て、現状をとらえる力を鈍らせてしまい自分で自分の心を乱してしまう。心を正しく整えるためにも愚痴は必要ない。
当たり前の話なんですが、家族でさえも考え方って違うじゃないですか。そうしたら一緒に働く人、自分の場合だったら監督やチームメイトですが、一人として同じ考えの人はいない。それさえ分かっていれば、どんな上司がいようと、自分を見失わないでいられる。考え方の違いをしっかり受け止めて、その上で自分の主観と客観を大事にする。そのバランスが大事なんじゃないかなって思いますね。
努力や我慢は秘密にすべきだ。
答えがないようなことを延々と考えすぎて、迷いが生まれているときにどう切り替えるか。そういうときに僕は身近なところにいる「頑張っている人」を目にするようにしている。
ドイツには「整理整頓は、人生の半分である」ということわざがある。日頃から整理整頓を心がけていれば、それが生活や仕事に規律や秩序をもたらす。
最悪を想定するのは、「失敗するかもしれない」と弱気になるためではなく、何が起きてもそれを受け止める覚悟があるという「決心を固める」作業でもあるからだ。
愚痴で憂さ晴らしをするのは、自分の問題点と向かうことから逃げるのと同じ。ゆえに、逆に愚痴を言わないように心がければ、おのずと問題点と向き合えるようになる。
腕まくりをして汗を流しているおじさんを見ると僕は何だかすごく熱くなる。きっと早朝から家族のためを思って頑張っているんだろうな。お母さんが小さい子どもを自転車に乗せて一生懸命こいでいる姿も好きだ。僕が気がつかないだけで日々の生活は頑張っている人々の姿であふれているのだと思う。
日々の生活は頑張っている人々の姿であふれている。自分のことでいっぱいいっぱいにならず、そういう姿に気がつける自分でありたい。
僕は「ツイていたね」とか「運がよかったね」と言われるのが嫌いだ。ギリギリのところで運が味方してくれるのはそれにふさわしい準備を僕がしていたはずだから。逆に「運が悪かった」とも思わない。結果が悪かったときには「運」を味方につける努力が足りなかったのだ。
ちょっと背伸びをしたら向こう側が見えてしまうような壁では物足りない。背伸びをしてもジャンプをしても先が見えないような壁の方が乗り越えたときに新たな世界が広がるし新たな自分が発見できる。
自分は運がいい方だと感じています。でも、運は待っていても来ない。たぐり寄せるものだと思う。苦しい思いとか頑張った奴に運がついてくると考えている。だから選択を迫られたときに、いつも難しい方を選ぶんです。
いま僕はサッカー選手としての死と向き合っているんですよ。
チームへ合流直後、チームメートが、新加入してきた僕を見ていることに気づきました。彼らも、どう僕と接するべきか戸惑っているのかもしれない。だったら僕から動き出さないと、何も始まらないと感じたんです。カタコトのドイツ語でどんどん話しかけた。そうやって、仕事をする場を整えていきました。相手が監督であっても、ドイツでは、まずは会話することが求められているんです。
不安になるのは、悪いことじゃない。不安になって、不安になって、底までいったら、あとは上がるしかないから。
僕は愚痴を言わないようにしている。愚痴というのは一時的な感情のはけ口になってストレス解消になるのかもしれないけれどあまりに安易な解決策だ。何も生み出さないしまわりで聞いている人の気分もよくない。愚痴で憂さ晴らしをするのは自分の問題点と向き合うことから逃げるのと同じ。
自分が発する言葉というのは自分自身に語りかけているところがある。口にした言葉は自分の耳を通じて、自分の心に届く。
当初は、「周りが自分をどのように見ているか」がとても気になった。でもね、よくよく考えてみると、誰も僕のことなんて気にしていないんですよ(笑)。
競争を恐れない。むしろ歓迎する。
待っていたら誰も声なんてかけてくれない。自分の未来は自分の力で勝ち取るもんだ。
自分の主体性がブレなければ、何が起ころうと関係ないんですよ。
長谷部誠。
ポジションは、ミッドフィールダー、ディフェンダー。
静岡県藤枝市出身。
3歳のときにサッカーアニメ「キャプテン翼」の主人公・大空翼に憧れてサッカーを始め、藤枝市立青島東小学校のスポーツ少年団、藤枝市立青島中学校サッカー部を経て、静岡県の名門藤枝東高校に一般入試で入学。
U-18日本代表候補への選出と2001年の全国高校総体準優勝などの実績はあったが全国高校サッカー選手権には未出場だったことなどから県内2クラブ(清水エスパルス、ジュビロ磐田)からのオファーは無く、県選抜でのプレーを見た浦和レッズのスカウトから勧誘を受ける。
浦和の他には名古屋グランパス、明治大学からも勧誘を受けていた。
高校卒業と同時に浦和に加入。
1年目はほとんど出場機会がなかったが、2年目の2003年はトップ下やボランチの選手として年間通して出場機会を得た。
そして、3年目の2004年はシーズン当初こそ山瀬功治に代わってトップ下で出場していたが、シーズン中盤以降は鈴木啓太とダブルボランチを組み、浦和の2ndステージ優勝などに貢献した。
この年はナビスコカップ・ニューヒーロー賞、Jリーグ・ベストイレブンに選出された。
2005年から2007年の間も鈴木啓太と中盤の底でコンビを組み、レギュラーとしてJ1優勝やAFCチャンピオンズリーグ優勝をはじめとした浦和のタイトル獲得に貢献した。
2005年末に初めて日本代表に選ばれたが、2006年のワールドカップの代表メンバーからは漏れてしまう。
その後、イビチャ・オシムが監督を務めると日本代表に復帰したが、2007年はシーズン序盤に負傷したこともあって代表戦の出場機会はなく、同年12月に代表監督に再任した岡田武史に選ばれるまでは日本代表から遠ざかっていた。
2008年1月1日、ドイツ・ブンデスリーガのVfLヴォルフスブルクに移籍。
2月、冬季中断明け初戦のビーレフェルト戦に後半開始から出場し、海外リーグでのデビューを移籍後早々に果たした。
同年4月27日のアウェーでのレバークーゼン戦でブンデスリーガ初得点を記録。
移籍2シーズン目となる2008-09シーズンは前シーズンまでのボランチに加え、右サイドハーフ、右サイドバックでもプレー。
2009年クラブのドイツ国内主要大会初優勝に貢献した。
このシーズン途中に移籍してきた大久保嘉人とともに、奥寺康彦以来31年ぶりにブンデスリーガ優勝を経験した日本人となった。
また、リーグ戦では9月18日の第6節シャルケ04戦でエディン・ジェコの決勝点をアシスト、9月26日の第7節ハノーファー96戦で今季初得点を決めるなどの活躍を見せ、2009-10シーズンはリーグ戦1得点6アシストを記録する。
2011-12シーズンは23試合に出場するも本職とは違うサイドバックでの起用がほとんどであった。
2012-13シーズンに入ると移籍志願で揉めた事で開幕から8試合連続ベンチ外という苦しい状況が続いたが、成績不振により監督のフェリックス・マガトが解任された直後の第9節デュッセルドルフ戦でリーグ戦初出場を果たすと、アシストを決めるなどチームの開幕戦以来の勝利に貢献した。
その後は本職ではないが右サイドハーフとしてスタメンの座は守った。
2013-14シーズン開幕後、再び本職であるボランチでの出場を希望し自ら移籍を志願。
2013年9月2日、1.FCニュルンベルクへの移籍が発表された。
契約期間は3年間。
長谷部にかかる期待は大きかったが以降もチーム状況は上向かず、1月の合宿で右ひざの半月板を損傷し離脱すると、チームは不振から脱せず2部降格となった。
2014年6月2日、アイントラハト・フランクフルトと2年契約を締結。
2014-15シーズンは、開幕からシーズン通してボランチを務め、出場停止の1試合を除くチーム最多、自身としてもブンデスリーガ移籍後では最多となるリーグ戦33試合に出場し、チームを支え続けた。
2015-16シーズン、開幕前にトーマス・シャーフが辞任しアルミン・フェーが新監督に就任すると右サイドバックとしてプレーする機会が増加しチームも低迷。
2016年3月にフェーが解任されニコ・コバチが監督の座につくと再びボランチに固定され、4月30日の第32節・ダルムシュタット戦では1091日ぶりに得点をきめるなど自身も復調を見せた。
チームは16位でリーグ戦を終え、古巣ニュルンベルクとの入れ替え戦に勝利し、残留を決めた。
2016-17シーズン、2016年10月28日のブンデスリーガ第9節ボルシアMG戦では3バックの中央で先発して3試合連続の無失点に抑えて以降、リベロとしての起用が増加。
12月20日、フランクフルトとの契約を2018年まで延長したことを発表。
2017-18シーズン、前シーズンの怪我や手術の影響もあり約5ヶ月間公式戦の出場は無かったが、2017年8月12日に行われたDFBポカール1回戦・エルンテブリュック戦で復帰を果たした。
2018年1月27日、第20節のボルシアMG戦でフランクフルトにおいて出場した試合数が100試合に到達。
5月19日、カップ戦決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では先発し、3-1で勝利に貢献して優勝カップを手にした。
ドイツ移籍後では、ヴォルフスブルク時代のリーグ優勝以来のタイトル獲得となった。
2018-19シーズン、2018年9月24日に行われた第4節のRBライプツィヒ戦で、3バックの中央(リベロ)で今シーズン初出場を果たす。
その後もリベロとしてフル出場を重ね、前半戦のリーグベストイレブンとベストCBに選出された。
クラブは国内リーグで上位をキープしていたが、終盤に失速し7位で終える。
出場したUEFAヨーロッパリーグ(EL)では、下馬評を覆して躍進し準決勝まで進出した。
ドイツのサッカー専門誌『kicker』で今シーズンのベストイレブンに選出された。
また、UEFA公式からはELベスト4進出の貢献度を評価され、EL優秀選手にも選出された。
2006年1月の代表合宿、2月のアメリカ遠征の際にサッカー日本代表に初選出された。
2006年のドイツワールドカップのメンバーには選ばれなかった。
イビチャ・オシムが日本代表監督に就任すると、再び代表に選出されたが、2007年以降は代表から漏れることが多くなった。
2008年5月15日、岡田武史の監督就任後初めて日本代表に選出。
キリンチャレンジカップ第1戦(対コートジボワール)に出場し、前半、右サイドを駆け上がっての絶妙なセンタリングで、同じく代表に復帰した玉田圭司のゴールをアシスト。
1-0の勝利に大きく貢献した。
以後の代表戦において、遠藤保仁とのダブルボランチを形成しレギュラーに定着する。
2009年6月6日、ワールドカップ出場権獲得に王手をかけた南アフリカワールドカップ・アジア最終予選アウェーでのウズベキスタン戦にスタメン出場。
この試合に1対0で勝利し、4大会連続4度目のW杯出場を決めた。
11月18日、アジアカップ最終予選の香港戦で代表初得点を挙げた。
2010年5月10日、南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップの日本代表メンバーに選出。
岡田から長らくキャプテンを務めていた中澤佑二に代わるキャプテンに指名され、W杯ではグループリーグ3試合と決勝トーナメント1回戦に先発出場し、日本代表のベスト16入りに貢献した。
南アフリカW杯後に日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニからも引き続きキャプテンを任され、2011年1月にカタールで開催されたアジアカップでは、全6試合にほぼフル出場し、日本代表の2大会ぶりの優勝に貢献。
2014年6月に開催された2014 FIFAワールドカップ前には、同年2月に手術した右膝の炎症が再発し直前の親善試合ではキプロス戦以外は全て欠場。
本大会では全試合スタメンで出場したが、チームはグループリーグ敗退となった。
2016年9月1日に行われた2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選のUAE戦で、日本代表史上6人目となる通算100試合出場を達成。
2017年3月に負った怪我や手術の影響で代表の試合にしばらく出場出来なかったが、W杯出場の懸かった8月31日のアジア最終予選・オーストラリア戦で代表復帰。
キャプテンとしてフル出場を果たし、2大会連続キャプテンとしてW杯出場に貢献した。
2018年6月、ロシアワールドカップのメンバーに選出され、W杯3大会連続出場を果たす。
ダブルボランチの一角としてグループリーグ3試合に出場し、キャプテンとしてGL突破に貢献。
しかし、チームは決勝トーナメント1回戦で敗れてベスト16止まりに終わり、自身のインスタグラムにてこの大会限りでの代表引退を表明。
3大会でW杯11試合出場は、川島永嗣、長友佑都と並び日本人最多出場となった。
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