新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■太田雄貴名言集
日本では1つの道に集中しなさいという慣習があるように思いますが、海外では、「人生は一度しかないのだから、2つのことができる人は2のことをした方がいい」と考える人も多いんです。実際、医師や弁護士の資格をもつ金メダリストが普通にいます。トーマス・バッハさんもフェンシングの金メダリストですが、弁護士でもあり、今は大企業の社外取締役をやりつつIOCの会長ですから。
最近の自分自身のモットーは『疑うな』です。できない、と思ったら何もできません。だから僕は、自分が金メダルを取れないわけがないと思っています。
僕は長い間、個人戦のスポーツをやっていました。子どもの頃から負けず嫌いでしたから、勝っても負けても自分一人で完結できるスポーツのほうが向いていると思っていたのです。ところが、ロンドン2012オリンピックでの団体戦の経験で意識が変わりました。メダルを獲ったとき、「共有するってすごいな」と感じたんです。4人で獲ったメダルは感動が4分の1になるんじゃなくて4倍、いや16倍にもなる。よく考えれば、ご飯だって一人よりみんなと食べる方がおいしいとの同じですよね。
日本人はどうしても謙虚な部分があって、もちろんそれは良い所でもあるのですが、損をしている部分が多いと思うので。
僕自身は、日本人はフェンシングに向いていると思っています。子供の頃からチャンバラ遊びをしていますし、なんといっても宮本武蔵という大師匠をもつ国民ですから。剣道のトップ選手が入ってきてくれれば、オリンピックで活躍するチャンスは大きいと思いますよ。確かに手足が長い外人選手は有利ですが、努力と戦術でカバーできます。なにしろ身長171㎝の僕がやれたのがその証拠ではないでしょうか。
僕のとっておきの方法があるんです。お風呂に入る前と後に、優勝インタビューの練習をするんですよ。それをやっていると、自分が優勝するイメージがもっともっとリアルになる。そして、いつかその場面に遭遇するんですよ。
スポーツには、”やるスポーツ”と”観るスポーツ”があると思っていて、フェンシングはまだ”やるスポーツ”なんです。観せ方が確立していないといった方がいいかな。僕自身もかつては観られるという意識はほとんどもっていませんでした。でも、2008年以降は照明を工夫するなどライブエンターテイメントを意識した演出にも取り組み始めました。見所としては、フェンシングは対人スポーツですから、選手同士のかけひきや、剣と剣が重なり合う音は迫力満点ですし、スピード感もすごいんです。あとはヨーロッパ発祥の伝統のスポーツに日本人が挑んでいる、というシチュエーションも魅力的でしょう(笑)。
一芸に秀でている人が好きですね。どんなことでも、何でもいいんです。何かひとつ得意分野を持っている人って、素敵だと思います。
例えば、上手くいかなかった時に、人のせいにする人と自分のせいにする人の違いがまさにそうだと思います。今ここのコミュニケーションが上手くいかないのは、相手が外国人だと言ってしまうとそこで終わってしまいます。相手に合わせられない自分に問題があると感じて、変えようと出来たら良いと思います。これは競技においても同じことが言えます。例えばあるコーチと別のコーチの言うことが違う時に、両者の良いところを自分の中で取捨選択しながら取り入れていける子は強くなると思います。通すべき自分のプライドと、通さなくても良いところの見極めが上手い子はどこでもやっていける気がします。
五輪には魔物がいるとされるが、僕がその魔物になれれば。金メダルを取るためにやってきた。
日本人は与えられたルールに従う意識は非常に高いと思います。しかしルールは常により良いものへと改善されていくべきものです。ところが日本人の多くはルールの改善や策定に参加する意欲が薄い。いわば、羊になることには熱心なのに、羊飼いになりたがらないようなものです。しかしグローバルに活躍したり、物事を大きく動かしたいなら、それではむずかしい。私は、国際フェンシング連盟の理事を経て副会長になり、少なくとも羊飼いのそばで影響を与える位置にいますが、その目から見て日本全体が今、この岐路に立たされていると感じます。
当たり前のことですが、優勝者というのは一大会でたった一人。勝てない中で練習を続ける時というのは、本当にしんどいです。それでも、練習を続けてきたからこそオリンピックでメダルが取れたと思っています。
小さなことでも、「この指止まれ」と、企画・立案から行い、行動し、検証する経験をすることです。ぜひ、指をつかむ側でなく、最初に指を出す側に回る経験をしてほしい。その結果、失敗してもかまいません。それが必ず次につながります。
ただ生きるだけであれば一定量のご飯と衣服と住居、ある程度の衣食住があれば生きていけます。でも人間が喜びや幸せを感じる時は、その一定量以外のものを見た時であり、そこに感動が生じると思うんです。
僕、勝つか負けるかはそんなに興味がなくて。勝ち負けだけにこだわると、勝てなくなった時に選手は虚無感にさいなまれちゃう。存在意義がないみたいな。アーバンスポーツですごくいいのは、勝ち負けじゃなくライフスタイルに入っている。失敗しても拍手をあおるし、チャレンジすることが格好いいと。あれを見るとちょっと琴線に触れる。
愚痴る時間がいちばんもったいないな、って。小さな組織単位から裁量を持てるようにして、それが難しいなら、辞めて自分で起業したっていい。昔は終身雇用という大前提があったけど、いまはそういう時代でもない。『自分がいま登っている山はエベレストなんだ』って思うと、つらいじゃないですか。だって、『人生でこの山以上に高い山を登ることは二度とない』と思うと、身動きが取れないから。だから、いま登ってるのは“高尾山”で、『他にもいくらでも山がある』と思えたほうが、『次は浅間山』『その次は富士山』と挑戦できるし、向上心が持てるんじゃないでしょうか。
忘れてはいけないのは、努力したから必ず勝てるとは限らない。それが大前提。でも、勝った選手というのは、絶対に努力しているんです。
人生にわかりやすいゴールなんて、ないですよね。五輪はわかりやすく用意された“宝物”みたいなものだったけど、これからはどんなに壮大なビジョンを掲げても、明確なゴールはない。だからもう、打席に立つしかないし、とりあえずやってみるしかない。そうしなければ見えてこないものがあると思うんです。
努力した人間というのは、その過程で必ず何かを得ているんです。
チャンスがあったらチャレンジしたい。
日本人でも金を取れるということを証明したかった。
『ファーストペンギン』になりましょう。
■太田雄貴とは?
太田雄貴。
幼少時代は、滋賀県大津市比叡平にて過ごす。
小学時代はスポ少「大津スキースポーツ少年団」にてスキーや陸上トレーニングなどで基礎体力を養う。
高校時代にフェンシングをしていた父の勧めで小学3年生からフェンシングを始め、小、中学と共に全国大会を連覇している。
平安高校時代には史上初のインターハイ3連覇を達成し、高校2年の時には全日本選手権で優勝した。
2004年1月から岡崎直人、山口徹らとアテネオリンピック出場権をかけて多くの国際大会に出場した。
3月の韓国国際大会で8位入賞を果たすとその後も確実に上位に進出して出場権を獲得。
アテネオリンピックでは3回戦でロシアのGANEEV Renalに敗れ、9位となった。
2006年、カタール・ドーハで開催されたアジア競技大会では、準決勝で2005年の世界選手権2位の張亮亮を破る大金星を挙げ勢いに乗り、決勝では李天雄を破って優勝。
フェンシング男子フルーレ個人では1978年バンコク大会以来28年ぶりとなる金メダルを獲得した。
2008年、北京オリンピックフェンシング男子フルーレ個人に出場、日本人選手初の決勝戦へ進出。
8月13日の決勝戦ではベンヤミン・クライブリンクと対戦し9 – 15で敗れるが、日本フェンシング史上初の五輪メダルである銀メダルを獲得した。
また、太田が銀メダルを獲得するまでは、フェンシングは1896年の第1回アテネオリンピックで正式競技に採用された8競技の中で、日本が唯一五輪メダルを獲得していない競技であった。
森永製菓に2008年11月1日入社した。
森永製菓での所属は「健康事業本部ウイダー事業部マーケティング担当」。
2009年4月より、森永製菓所属のままフランスのフェンシングのクラブチーム「エクス=アン=プロヴァンス」に期限付きで在籍。
渡仏2戦目となる4月5日の「ルブニュー・チャレンジ」で同チーム加入後初優勝。
決勝では北京五輪で敗れたクライブリンクを破っての優勝だった。
5月、日本選手で初めて国際フェンシング連盟ランキングの1位となる。
同年6月にフェンシング・ワールドカップのハバナ(キューバ)大会で5年ぶりの勝利をあげた。
2012年、ロンドンオリンピックの初戦(2回戦)でいきなりベンヤミン・クライブリンクと再戦。
15-5で勝利し、前回の雪辱を果たすが、3回戦でアンドレア・カッサーラに延長の末14-15で敗れた。
男子フルーレ団体戦(太田、千田健太、三宅諒、淡路卓)では準々決勝でランキング2位の中国に45-30で勝利。
準決勝では3位のドイツと対戦、最終ラウンドドイツ2点リードで迎えた残り10秒から同点に追いつき、延長の末41-40で勝利。
決勝ではランキング1位のイタリアに39-45の善戦の上敗れるも、日本史上初となる団体銀メダル獲得となった。
2012年12月19日、フェンシング普及の為、「SUPER FENCING」を立ち上げた。
2013年、国際フェンシング連盟の選手委員に選出される。
2014年9月に開幕した仁川アジア大会では日本チームにとって1974年テヘランアジア大会以来となる団体フルーレ優勝に貢献した。
2015年7月16日、モスクワで行われたフェンシング世界選手権の男子フルーレ個人でアレクサンダー・マシアラスを15-10で破り初優勝を果たし、2016年リオデジャネイロオリンピック出場権を獲得した。
2016年8月7日、リオデジャネイロオリンピックの個人フルーレの初戦となったラウンドオブ32でギレルミ・トルドに敗れ、試合後に現役引退を表明した。
同年10月、京都府より新たに創設された、京都府スポーツ賞・特別功労賞が贈られることが発表される。
同年11月に行われる国際フェンシング連盟の理事選に立候補して、当選。
2016年11月4日、WIN3株式会社を設立、代表取締役に就任した。
2017年6月17日、アジアフェンシング連合アスリート委員会委員長に就任。
同年6月25日、日本フェンシング協会理事に就任。
同年8月11日、日本フェンシング協会会長に就任。
2017年12月1日にTBSアナウンサーの笹川友里と結婚したことを発表した。
2018年3月30日、自身のブログで森永製菓を退職したことを公表。
2018年12月7日、国際フェンシング連盟副会長に就任。