新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
10人を前に話すとき、リーダーにとっては1体10ですが、部下はそれぞれ1対1だと思って聞いています。だから私は、これはとくにあいつに聞いてほしいという部分が来ると、その人間の顔を見ます。そうすると、いま自分だけに話しかけてくれているという気持ちになって、真剣に聞こうという気持ちになるのです。
「おまえたち、ここで負けたら恥だぞ!!」とか言う監督がいたとしたら、それは選手の恥ではなくて、監督の恥なんですよ。
上達のためのアドバイスなどは、部下が実際にやってみて効果が出ることが、非常に大切です。実際に上達すれば、「この人の話は聞いた方が得だ」と思ってもらえますし、自分からアドバイスを求めてくるようになります。
スポーツに自己犠牲などありえないと思う。自己を生かすことがチームーを生かすことなんだ。
指導者も試合前にあれこれいうようじゃダメです。持っている力を出せばいいだけだと試合前に言ってあげればいいだけなんです。その位広い度量をもってほしいですね。
局面を見極めなければ次はない。次もまた局面を見極めて勝って、また次へ行く。その戦いの繰り返しでしか前に進めないんです。仕事でもそうでしょう。局面の見極めを誤って、一度「まあいいか」と妥協してしまったら、次もまた「いいか」と妥協することになる。妥協は借金取りに追われているかのように連鎖するんですよ。「今度こそ返すから」ってずっと言い続けることになる。それでは、負け続けるだけ。勝負どころを見極めて、その一瞬に全力を注がないとダメなんです。
よく日本人は集団意識が強いと言いますが、本質的に集団として動くべき方向が、まったく理解できていない民族ですね。
日本のチームワーク論は管理に走りすぎの傾向が強い。本来、管理なんてリーダーの仕事ではありません。禁止ばかりを強制した、一糸乱れぬ統制の取れた組織が強いとは思えません。むしろ、この変化の激しい世の中では、それは弱みですよ。
練習は量より質、質より気分。
正解はひとつではない以上、自分たちにとって都合よく解釈してもいい。いまピンチに感じることも、飛躍するチャンスかもしれない。
部下に話を伝えるのが下手なリーダーは、ほとんどの場合リーダー側の受信機が問題です。そこをみんな間違えるんです。何かを伝えようと思ったら、まず相手の一挙手一投足に注意を払い、いまどんな精神状態にあるのか、性格はどんなタイプなのかといったことを見極める。話すのが苦手という人は、説得力より洞察力の方に磨きをかけるべきなのです。
僕は厳しいです。でも厳しい練習をする時は、理由をきちんと説明して、それを越えさせます。逃げ道も作りません。
ひどいミスをして監督から呼び出され、いつもなら頭から怒鳴られるところを、「次から頑張れ」としか言われなかったら、そのミスは怒鳴られるより、よっぽど印象に残るでしょう。私自身、監督やコーチから言われたことでいまでも覚えているのは、いずれも意外性のある言葉ばかりです。
人間は、本当に上手になりたいと思ったときにこそ、学習能力を発揮するんです。
部下に仕事を強制させる場合は、事前にそれをやらせる意味をきちんと説明することと、必ず結果を出させ、これができるようになったということを、本人にわからせることが重要です。人間というのは現金なもので、最初は嫌々でも、やればできると味をしめた途端、次からは自ら進んでやるようになるものなのです。
すべての準備は試合前に終えておかなければならない。
ラグビーボールを持って走るのは得意でも、タックルが苦手な選手がいたとします。わかりやすく走力80点、タックル30点としましょう。日本の多くの指導者は、タックル技術を上げることに力を注ぐはず。でも、不得意なタックルを鍛えても、せいぜい60点程度。高度化した現代のラグビーのゲームでは、60点のクオリティのタックルなんて通用しません。私は、むしろ選手の好きなこと、得意な技術を伸ばしたい。ボールを抱えての走力は90点以上まで伸びますよ。そして、リーダーは本番の試合で、彼をいかに多く走らせるかを考えればいい。その分をタックルが得意な選手がカバーできる形にすれば大丈夫。
プレーヤーって直訳すると「遊ぶ人」でしょう。ゲームだって、直訳は「遊び」です。ところが日本語では「選手」「試合」です。意味が違う。仕事も同じですが、日本では楽しむという意識が忘れられがちなんです。
私はプレイを貫く軸を、ミスをなくすという考え方よりも、チャンスを生かすほうに置いています。取られたら取り返せばいいじゃないですか。ミスしないことに意識を向けていると、プレーの選択肢が少なくなるだけ。私は選手に自分達のチャンスがあったら全部攻めろ、と指示します。だから、少々の失点は怖くない。
私の考えるチームワークは、1人ひとりがもつ爆発的な力をどう発揮させるかがポイント。無限の可能性を秘めた個人の配置を考え、使いどころを考え、編集するのがリーダーの役割。
世界と日本のラグビーの違いは、闘争心。
出来ない理由を考えたら、理由は山ほど出てきますから、「やろうと思ったらやる」という事しか考えませんね。あとは本気になるかどうかです。
山口良治監督に言われた言葉で、「手を抜くな」という言葉がありました。大差で勝っている時の試合でも叱られたことがあるんですが、人間は全力を出すから力が増える。10ある力を今日ここで全部出し切ったら明日は10.01になる、そしてまたそこで全部出し切ったら、次に日には10.02になる。逆に10ある力を9しか出さずに終わったら、次の日には9.99に目減りする。そこがお金と違うところで、お金は使わなければたまっていくだろ!って言うんです(笑)僕にとっては一番心に刻み込まれた名言です。
例えそれで試合に負けたとしても、死にはしないし、また次があります。
時間って命の一部なんですよ。今の時間を大事にできない人は、未来の時間もきっと大事にはできない。ここで自分らしく生きることができない人には、次なる道は開けない気がするんです。
未来ではない。今の自分がどうなのかが大事なのだ。
平尾誠二。
京都府京都市南区出身、伏見工業高校、同志社大学商学部商学科卒業。
同志社大学大学院政策科学総合研究科(修士課程)修了。
小学校の時は野球をやっていたが、京都市立陶化中学校入学と同時にラグビーを始める。
伏見工業高校への入学のきっかけは山口良治。
平尾が中学3年の時に出場した京都府秋季大会決勝戦を見た山口がそのプレーにほれ込み平尾の自宅を訪ねた。
その時、平尾は特待生(授業料免除)で名門花園高への入学が決まりかけていたという。
当時は伏見工はワルの集まりだったため両親は反対。
しかし平尾はそれを振り切り伏見工業高校に入学する。
同校1年の京都府大会決勝で花園高に敗れた際は、悔しさの余り表彰式で受け取った準優勝トロフィーを投げ捨てて帰ってきた。
しかし翌年全国大会初出場を果たし、3年生の時の全国大会で同校が初優勝した際の主将となる。
1982年に史上最年少(19歳4ヶ月)で日本代表に選出。
同志社大学ラグビー部在籍時代にはセンターとして史上初の大学選手権3連覇に貢献。
しかし1985年、日本選手権では、松尾雄治を擁し7連覇を果たした新日鐵釜石ラグビー部に勝つことができなかった。
1985年、英国リッチモンドにラグビー留学した。
イギリスではリッチモンドクラブに所属し試合に出場しながら、イギリスのデザイン学校の入学試験準備や受験勉強に取り組んでいた。
しかし、ファッション誌にモデルで登場したことが当時のアマチュア規定に抵触したとの理由により、日本代表候補選手から除外された。
汚名を返上したければ日本の一流チームで成績を出せ、と言われ、急遽日本での所属チーム探しに追われることとなる。
そんな折、偶然イギリス出張に来ていた以前より顔見知りであった神戸製鋼の当時専務であった亀高素吉と食事に行く機会を持つ。
そこで企業を探していることを相談、すると「ならウチはどうだ」と言われ神戸製鋼行きを決める。
1986年、神戸製鋼に入社。
社会人時代は、日本選手権で7連覇を達成(初優勝時から3連覇時までは主将、7連覇時は主将代行を務めた)。
平尾は主将として「ボールをつないでトライを取るラグビー」を掲げ、強いフォワード選手に対しタイミングよくボールを出すことを求め、ラグビーの球技的側面を強調することで得点力を高めた。
平尾は「ノックオンは犯罪的行為」とまで言い切り「ボールが一番大事」という意識を徹底的にチームに植え付けた。
ラグビーワールドカップには、第1回(1987年)、第2回(1991年)、第3回(1995年)にそれぞれ出場。
特に第2回大会では、日本のワールドカップ初勝利(対ジンバブエ戦)の原動力として活躍した。
その後一度は代表を退いたが、第3回大会に向けてのチーム強化の一環として臨時コーチとして招聘され、その後代表選手として本戦に出場した。
1998年1月、現役を引退。その後、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーに就任。
2000年4月、スポーツと地域社会の振興を図るため、NPO「スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構(SCIX)」を旗揚げ。
2011年には文部科学省の中央教育審議会委員に就任。
2016年10月、胆管細胞癌から京都市内の病院で死去。53歳。
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