新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
自分の足で歩けなくなったらいつでも辞めます。
家は建てられるが部を再建することは困難である。家の一軒くらい惜しくない。
学生たちに正々堂々と戦わせてやりたい。同じポジションの選手をこちらも退場させて十四対十四でやらせてくれ。相手が一人足りないと、勝っても一生涯『あのとき十四対十五で勝った』ことになるのが不憫でならない。
よけいなことはせんでもよい。ややこしいサインプレイなどは社会人になってから覚えればいい。
勝つラグビーは社会人になってからでいい。学生の時は、ボールを持ったら勝ち負けは考えないで前に進み、自分の力がどれくらいあるか試しなさい。その結果試合に負けたとしても仕方がない。とにかく前に進め!
ぶん殴ればすみませんと言うけれどあとやることはいい加減だよ。ひっぱたかれてやるのなら犬だって芸をします。
喧嘩じゃねえ。ルールがあるからラグビーなんだ。
基本プレーとは正しいプレー、フェアプレーを意味する。レフェリーの目をごまかそうとするような者がいたら、僕はその場で試合から引っ込める。故意の反則が目立つ者は、反省するまで試合に使わない。
スクラムの10センチ後退は、バックスの1メートル後退に匹敵する。
スクラムでFWが押されたら試合にならん。ラグビーの原点はスクラムの押しだ。
明治のラグビーとか早稲田のラグビーとかじゃなく、とにかくボールを持ったら、ひたむきに前へ出ろ。そうしているうちに、たくさんの失敗から正解をつかめるだろう。そうしたら、その中からいいものだけを残して自分自身で伸びていけ。決して伸ばしてもらおうとか教えてもらおうとか思ったり、期待したりするな。これはお前自身がやることなんだから、誰も手を貸すようなことはしない。自分以外を決して頼るんじゃない。
ボールを持つたら前へ行け、持っていない者はタックルせい。
ボールを持っている人間がリーダーだ。
グラウンドに出てボールを囲む以上は、皆一人一人が監督であり、キャプテンであり、プレイヤーであるんだから、いつも自分の判断でやれっていうことを言ってるんだ。
「監督のため」など、どんでもない。
反則は駄目だときちっとたたき込まないと、苦しくなったときに、反則で切り抜けようと考える人間になってしまう。
正々堂々と。
相手ゴールに最短距離で行くには『横へ』ではなく『前へ』である。最短 。距離へ進めば当然相手の抵抗力も強くなる。そのために強靱な体力とスピードを身に付け、まっすぐに突破する。
お前はそうやって生きていくのか。
ボールをもったら躊躇するな。自分の判断に従え。逃げたりためらったりしなければ、失敗してもかまわない。最後まで決してあきらめるな。フェアプレーの精神を忘れるな。
相手から逃げるな。
長い人生だから、数多くの障害物にぶつかるだろう。かわすことによって乗り越えられる障害物ならいい。しかし、本当に大きくて深刻な問題と直面したときは、体当たりで乗り越えていくしかない。それには、常日頃から、何事にも体当たりで進むように心がけていなければならないと思うんだ。いつものクセでかわしてやろうなんて思っていたら、足をすくわれて、きっと痛い目にあうだろう。とにかく“前へ”。ためらわずに“前へ”進め。それはつらく長い道のりかもしれないが、ゴールへの最も近い道であると僕は確信している。
試合に勝つことよりも大切なことがある。
堂々とやれ!真っすぐ前に走ればいいんだ。
前へ。
北島忠治。
1901年2月23日新潟県東頸城郡安塚村(現在の上越市安塚区安塚町)で生まれる。
喧嘩っ早く数校の学校を経て有恒学舎中を卒業、神楽坂の伯母を頼り上京。
喧嘩癖はなおらず、一時は「坂の忠治」との異名をとった。
1921年旧制明治大学専門部政治経済科に入学。
元は相撲部出身で、神楽坂の筑土八幡神社でよく練習をしていた。
ラグビーの経験はそれまでなく、大学2年生の時にメンバーが足りないとの理由で助っ人を頼まれたことがきっかけで、相撲部からラグビー部に転部。
1926年に卒業し、まもなく明大専門部法科に再入学。
1926年 – 1928年まで明大のスクラムセンター(今のフッカー)として活躍。
1928年12月8日に明治神宮外苑競技場で行われた伝統の明早戦には主将として出場している。
1929年、明大卒業と同時に監督就任。
早大ラグビー部を率いた大西鐡之祐とは全く対照的なラグビー理論を掲げていたため比較され続けられた。
1944年7月に大船の富士飛行機に体育課長として迎えられたが3ヶ月で退職、故郷の新潟へ戻った。
戦後すぐに上京、復員してくる部員たちが食糧に困らないように自らグラウンド周辺に作物を植え、翌1945年9月には4500kgものサツマイモを収穫した。
ラグビー部寮が火災で焼失した際、新宿の自宅を売って再建した。
「重戦車・明治ラグビー」のために生き、没した生涯であった。
1986年には吉川英治文化賞を、1991年には文部省からスポーツ功労者表彰を受ける。
監督在任中1300名の部員を育てた。
1996年5月他界。
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