新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
僕はお金のためにロックンロールをやっているんじゃない。僕は僕の歌を聴いてくれて希望を持ってもらえるために歌うんです。僕は傷ついた人たちのために歌いたい。
昨日までのことを忘れるために生きてきたわけでもなければ、明日を夢みるためだけに生きてきたわけじゃない。今日っていう日を精一杯生きることがすべてなんだ。
信じてごらん、笑顔から全てがはじまるから。
なんとなく暮らしやすくなった、みたいに思うかもしれない。だけど、そういう暮らしやすさに妥協して、本当に大切なもの、失くしちゃいけないものを、失っていく怖さみたいなものを、僕はいつも感じている。
俺は少なくとも、自分自身の真実をつかむために一日一日を生きていきたい。
時には過ちを犯してしまうこともきっとあるだろう。だけど過ちにさえ自分のこの体でぶつかってひとつひとつの物事を自分で解き明かしていかなければ、新しい第一歩は踏み出せないような気がするんだ。そのために傷つくことも多いかもしれない。
誰も独りにはなりたくない、それが人生だ。
僕自身のプライベートな気持ちを書いているだけなのに、大人への反発、社会への反発を歌っているととられている。それに気づかないでいたと思う。敵をつくるとか、反発するとか、そんなことだけじゃしょうがない。それだけで終わっちゃ何もならない。敵をつくるだけじゃ、かえって自分を追い込むだけだ。もっと違う何か、僕自身が探し続けていることを歌っていきたいんだ。
どんなときでも、より劇的でありたい。つまらないと感じることは最大の不幸だと思うから。
結果と過程、どちらが大切だと思う?と聞かれたら、僕は即座に「過程」と答えてしまう。到達する過程で自分や多くの人を裏切ったり、傷つけたりすることは些細なことでもイヤなんです。
いちばん俺に何が必要かっていったら、やっぱりこの街でどうやって強く生きて行けるかって事だと思ったんです。この街のなんか熱いハートと、なんか熱いビートが、いつもぼくの胸には聞こえてきます。
人ひとりが幸せになるか、不幸になるかは、そばにいる人のちょっとした優しい言葉だったりすると思う。
孤独になる事も、淋しくなる事も、誰にも理解されない事も、それは思うように生きる事の代償なのかもしれない。
人間にとって幸福の欲求と追求こそが最大の醜さであり、また最高の美学でもある。
俺が学校を辞める間際、最後にずいぶん熱心に頑張ってくれた先生がにこんな事言ってた。本当は教師なんか踏み台にしてけばいいんだって。
僕らにとって大切なことは“誰が悪い”じゃなく、“自分たちはどうすべきで、どこへ向かうべきか”なんだってこと。わかってたけど、その答えがみつからなかったから、僕らは敵を作って攻撃することでその場をごまかしてた。そんな気がします。
どんなウマが合わない人間であっても、やっぱりその人の笑顔を捜してゆくのが大切なんだってことを言いたくて。
科学的に証明されているかどうかはわからないけど、どんな形にしろ出会った人の個性とか持ってるものが自分の中に宿るっていう現象があるような気がしていて、僕は今回それを言いたかったんです。誰かと会った時点で確実に自分は変革されている、と。
みんな自分をひとつの型にはめることによって安心するってとこが誰しもあると思うんですけど、そういった物の考え方のなかで、型にはめないで、それはひとつの状況に過ぎないって考えたい。
どんな困難にも負けないで。いつまでも夢を捨てないで。
なあ皆、夢はあるかい。夢を追い続けて行くことができるかい。決して、決して自分に負けたりしないかい。決して君の夢が消えないように。
奪いあいの街角で夢を消しちゃいけないよ。見栄と偏見のふきだまり、気をつけてまっすぐ歩いてほしいよ。
人生は、きっと自分のしたいことのためにあるんだと思う。だから、時間があると思う人は、まだ何かできると思う人は今のうちにうんとたくさん心の財産を増やしておくといいと思う。そうすれば君が求めているその夢にきっと辿り着ける。僕はそう信じてる。
人一人が強く生きる術は、己が独りで歩むべきもの。
ただ、俺は新しい第一歩のために、この命を賭ける。
それが俺の生き方だ、笑いたいやつは笑え。
優しく闘え。優しさによって立ち向かえ。
尾崎豊。
1965年(昭和40年)11月29日、東京都世田谷区の自衛隊中央病院にて、陸上自衛官の尾崎健一と妻の絹枝の次男として生まれる。
きょうだいは5歳年上の兄尾崎康がいる。
練馬区で育ち、練馬区立田柄第二保育園から区立田柄第二小学校に入学したが、1976年(昭和51年)8月、尾崎が小学5年生のときに埼玉県朝霞市へ転居し、朝霞市内の公立小学校へ通う。
しかし、転校先の学校に馴染めず、毎朝登校するふりをして家を出たあと1時間ほどして家に帰り、実際には登校していない日々が続くようになった。
尾崎が音楽に触れるきっかけとなったのは、兄が購入して使用されていなかったクラシック・ギターを手に取り始めたことであった。
あらゆるフォークソング、シンガーソングライターの曲に興味を持っていた尾崎は、特に井上陽水が描き出す詞の世界観に強く惹かれていた。
小学校6年生になると半年に渡り登校拒否を続けており、その間、井上陽水やさだまさし、イルカの曲をギターを弾きながら歌う日々が続いていた。
小学校を卒業すると、本人の希望で練馬東中学校へ越境入学。
生徒会副会長、文化祭実行委員長を務めたが、喫煙により停学処分が下る。
高校受験では、第一志望であった慶應義塾志木高等学校には不合格だったものの、青山学院高等部に合格。
さらに、陸上自衛隊少年工科学校の1次試験にも20倍の競争率を突破して合格した。
しかし髪を短くしなくてはいけないと言う理由で、すでに合格していた青山学院高等部に進学することになった。
高校時代は剣道部に所属していた。
高校在学中には喫煙やオートバイでの事故などで停学、さらに、高校3年生のときには渋谷で同級生らと飲酒した挙句、同じクラスの女子生徒が一気飲みをし急性アルコール中毒で搬送、大学生のグループとパトカーが出動するほどの乱闘騒ぎを起こし、無期限停学処分を下される。
これがオーディションを受ける契機となる。
のちに停学処分は解けたが、出席日数が足りず留年となり、自主退学した。
高校在学時には新聞配達と飲食店でのアルバイトをしていた。
その後、ジャケットを見ただけで何となく購入したジャクソン・ブラウンの「ランニング・オン・エンプティ」を聴いて衝撃を受ける。
その影響で「街の風景」や「ダンスホール」などの曲が製作されたが誰にも公表せずにいた。
高校3年生の秋、音楽で生計を立てていくことを決意した尾崎はCBSソニーが主催した『CBS SONY Sound Development Audition 1982』、ビクター主催のオーディションにそれぞれ応募し、CBSソニーのオーディションに合格する。
尾崎は浜田省吾の音楽が好きで、プロデューサーの須藤晃も作品の匂いに浜田との共通点を感じて、デビューアルバム『十七歳の地図』のレコーディングには浜田省吾と佐野元春のツアーバンドを半々起用した。
『十七歳の地図』は初回プレスが2,000枚ほどであり、事務所やレコード会社も積極的なプロモーションも行わなかったためにセールスは伸び悩んだ。
その後口コミにより人気が出て、3rdシングル「卒業」の中の過激な歌詞が話題となり、2ndアルバム『回帰線』は大手音楽チャート1位を記録、尾崎の名は瞬く間に全国へと広がっていった。
10代最後の日に3rdアルバム『壊れた扉から』を発売しヒット、同時期に行われていたツアーも満員となるなど人気は絶頂を迎える。
10代の代弁者として一世を風靡した尾崎は、20歳になり方向性を見失い突然無期限活動休止を宣言し単身渡米する。
当時曲を生み出せないことに苦悩していた尾崎は、何の収穫もないままその年の末に帰国する。
そんな中で所属事務所が立ち上げたレコード会社移籍へ決定、プロデューサーの須藤ら懇意にしていた音楽スタッフとも離れてしまい、新しいアルバムの制作は何度も中断された。
その後、新曲の発売がないまま1年半ぶりのライヴツアーが始まるも、9月に肉体的な疲労から倒れ、残りのツアーは中止となる。
その年の暮れには覚せい剤取締法違反で逮捕され精神的に低迷、バックバンド「Heart Of Klaxon」のメンバーとも関係が悪化する。
復帰後にリリースした「太陽の破片」がヒット、フジテレビ系列の『夜のヒットスタジオ』に最初で最後のテレビ出演を行い、東京ドームにて復活ライブを行うが、同時期に制作していたアルバム『街路樹』は発売延期を繰り返し、シングル「核 (CORE)」の完成度を含め満足のいく活動からは程遠かった。
一方プライベートでは一般人女性と結婚、長男が生まれ、新たな価値観を見出した尾崎は1990年(平成2年)、レコード会社を古巣のCBSソニーに復帰、2枚組アルバム『誕生』をリリースし、オリコン1位を記録。
さらに個人事務所「ISOTOPE」(アイソトープ)を設立し、翌年には大規模ツアーを行うなど、尾崎は完全復活を遂げる。
しかし同時に事務所やマスコミへの猜疑心は止むことはなく、尊敬する浜田省吾の個人事務所であるロードアンドスカイも短期間で契約を解除した。
個人事務所を立ち上げるも経営面の管理のほかにプロモートからライヴスケジュール自ら取り仕切らなければならず、多忙な日々を送るなかで、ふたたび精神的に追い詰められた尾崎は自殺を図るなど混迷を深めていった。
その後、遺作となる『放熱への証』の制作に取りかかるが、1991年末に母親が急死。
交友関係も狭くなっていき、精神的状況はさらに悪い方向へ向かっていた。
1992年(平成4年)4月25日早朝、当時の尾崎の自宅であるマンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを住人に発見された。
5時45分ごろ、通報で墨田区内の白鬚橋病院に運び込まれる。
診察した医師は「生命に関わることも考えられるので、専門医に診てもらった方がいい」と診断したが、尾崎は妻と兄とともに自宅マンションに戻る。
しかし、10時ごろになって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が約1時間後の11時9分に119番通報。
搬送先の日本医科大学付属病院で手当てを受けるも、午後0時6分に死亡した。
死因は覚醒剤中毒 (メタンフェタミン中毒) による肺水腫。
享年26歳。
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