新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
練習で120%の力で振れ。そうすれば試合は80%の力でいい。
もう打てないんじゃないかという恐怖は、常について回るんです。結果を残してきた人ほど不安と戦ってきたはずだし、恐怖心を持っていない人は本物じゃない。その怖さを打ち消したいがために、練習するわけです。
僕は人生は円だと思ってきました。朝があれば、昼があり、夜があって、朝がくる。季節で言えば冬がくれば、春、夏、秋がきて。これはもう止めようがありません。人間もサイクルみたいなものがあって、調子がいいときもあれば、悪いときもある。
バッティングというのは太陽のまわりを運動する惑星みたいなものでね。その核心は軸として定まっている。
僕の野球人生は、早実の高校時代に甲子園で活躍できてプロの世界に入ったことから始まったわけですが、まずジャイアンツの選手として最初の3年間は、「三振王」なんて呼ばれたりして、かなり低迷していた。それから現役を退いて、ジャイアンツでの監督としては3年間優勝できず、ホークスの監督に招かれてからも、4年間は下位から3位どまりだったわけです。
立ちはだかるものがいれば、その相手を倒すために腕を磨く。そうするとまたレベルが上がるからね。
監督就任当時のホークスは万年Bクラスで「そこそこ頑張って、そこそこ給料がもらえればいい」という体質に染まっていたのです。そうしたチームの意識を変えるのが、大変でした。とにかく、言い続けるしかないわけです。優勝を目指そう、この世界で生きていける技術を身につけよう。それには練習しかない。
カネほしさに野球をやる人は、決して本物にはなれないでしょう。
ウチの選手たちは、南海時代から20年も続けてBクラスだから、優勝なんて遠い夢だと思ってる。でも、夢じゃないんだよ。現実にできるんだと思わないとね。去年は自分たちと一緒にやっていた西武が日本シリーズに出てるわけだよ。ただ、出るには出るなりの苦難がある。それを乗り越えないといけないし、そのためには逃げちゃいけない。今までは、ウチの選手たちは逃げても生きてこれたわけよ。野球選手として。だけど、勝つためにはやっぱり逃げないでいかなきゃ。勝つって、そんな簡単なことじゃないんだよ。
最高のものを求める強い気持ちがないと、結果は出ないものなんだよ。
若い世代にはちょっと理解を超えた部分があるけどね。でも、俺たちも当時の監督やコーチからすれば理解を超えたところはあったと思う。ジェネレーション・ギャップというヤツね。じゃあ、ミーティングやめちゃおうとか、門限なくしちゃおうとか、そういうことで迎合しようとは思わない。だって、そういうやり方で勝てなかったチームなんだから。逆にミーティングもやるし、門限もちゃんとするということだよね。今まではちゃんとやってなかったんだから。それで勝ってりゃいいけど、勝ってないんだから。
100年後、200年後を見ようじゃないか。過去の記録をめくったとき、誰が一番かわかるはずだ。
以前よりも選手たちとの距離は間違いなく近くなってるという実感はあるよ。城島なんか俺に対して「よっ」て感じだからな(笑)。吉武真太郎にしてもそうだけど、俺の現役時代なんか知らない世代だろ。逆に、工藤公康や秋山幸二のほうが、現役時代、ホームラン王だった頃の俺を知ってる分、話し方なんかも俺に対して腰が引けてたところはあったかもしれないな。とにかくね、選手には目の前で見た俺を信じてほしいんだよ。それが実像なんだから。
ときには嵐のような逆風が人を強くする。
世の中の人間がいかに既存のイメージに頼っちゃってるかってことだよね。ミスターが自由奔放で明るいから俺を陰にしようとかね。陰陽にしたほうが、対比したほうがわかりやすいんでしょ? 両極端にしたいわけだ。だから、ONという、3番、4番で競い合った二人を書くときに、ミスターを陽に書きたいから俺を陰にするんだな。でも、俺はちっとも自分で陰だと思ってないから。それでもみんながそういうふうにしちゃうんだ。そんなもん、虚像なんだ。
過去にとらわれず、現在をいかによくするか。
チームでも人でも、成長するときは45度の角度で一本調子で上がっていくことはない。最初は見えないくらいジワジワと上がっていき、途中から急カーブで伸びるものです。そのジワジワの時期にも、監督としては辛抱強く言い続けること、そして待ち続けることが大事なのです。
いきなり答えを求めてはいけない。サッカーだって7、8カ国からW杯が始まって今の形になるまで100年以上かかっている。そういう意味でもまずはやってみないと。そこから課題やいろいろ考えるところが出てくるんだ。
スポーツが多様化しているから、ある程度はやむを得ない。しかし、諦めるわけにはいきません。マウンドからホームベースまでの距離もベースの大きさも昔と変わってない。野球は野球でしかないんです。ホームランでもスピードボールでも、ゲッツーを取る投球術でもいい。真剣勝負を見てもらう。
時代はどんなに変わっても、何かを目指して、一本の道を、周りの人とは違うスピードで、違う感覚の世界に住んで、どんどん突き進んでいく人というのは、必ず出てくるんです。そういう人に共通しているのは、ストイックだし、マゾ的な要素を持っているところ。自分自身をいじめるところへ身を置くことで快感を得られる。他人がどう思っても、自分に必要なことなら、どんなことでもやらないかんということになる。僕だって、ありますよ。
自分のためにやるからこそ、それがチームのためになるんであって、「チームのために」なんて言うやつは言い訳するからね。オレは監督としても、自分のためにやってる人が結果的にチームのためになると思う。自分のためにやる人がね、一番、自分に厳しいですよ。
僕は、「七転び八起き」という言葉が好きなんです。前へ進むためには、転ぶことも必要だと。それは転んだ時に、人生で何かにつまずいたような時に、そう考えるといいんです。つまり苦しい時には、その先に良いことが待っていると。そういうふうに、すべてプラス思考で考えることが大事ですね。
百回やっても、千回やっても絶対俺はちゃんとできる、という強い気持ちを持って臨んで初めてプロと言えるんです。真剣で斬り合いの勝負をしていた昔の武士が『時にはミスもある』なんて思っていたら、自らの命に関わってしまう。だから彼らは、絶対にそういう思いは、持っていなかったはずです。時代は違えど、命懸けの勝負をしているかどうかですよ。
努力しても報われないことがあるだろうか。たとえ結果に結びつかなくても、努力したということが必ずや生きてくるのではないだろうか。それでも報われないとしたら、それはまだ、努力とはいえないのではないだろうか。
王貞治。
1940年、東京府東京市本所区(現・墨田区)生まれ、中華民国籍。
史上3人目の三冠王達成者。
世界記録となるレギュラーシーズン通算本塁打868本を記録。
読売ジャイアンツのV9に貢献。
国民栄誉賞受賞者第一号であり、2010年には文化功労者として顕彰された。
中華民国籍の王仕福(現:中国浙江省麗水市青田県出身、1922年渡日)、日本人の登美(富山県富山市出身。旧姓:當住)の次男として生まれる。
6人兄妹の次男であり、長兄は鉄城、長姉は幸江、次姉に順子、同じ日に生まれた双子の姉・廣子(1歳3ヶ月で死去)、末妹の佳子(数ヶ月で死去)で、結局末っ子として育てられた。
小学生の頃、当時の横綱・吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。
そして本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。
野球部にも在籍していたが、グラウンドが使えなかったために休部同然の状態であった。
野球との出会いは、まだ子どもの頃の神社の境内や路地での草野球であり、本格的に野球を始めたのは兄の鉄城が慶応義塾大学医学部に入学し野球部に入ったことで、その兄に連れられて野球部の合宿に行ったことから、小学校4年生でクラス仲間とチームを作った。
1953年に墨田区立業平小学校を卒業したが、進学した区立本所中学には野球部がなく、地元の町工場のおやじさんが作った高校生主体の野球クラブ「厩四ケープハーツ」に中学生ながらチームに加わり、しばらくこのクラブで自分よりも年上の大きな上級生にもまれながら活動していた。
このチームで後に王のコーチとなり師匠となる荒川博との出会いがあった。
やがて高校進学を迎えて、荒川博の母校でもあった早稲田実業学校高等部商業科に進学することになった。
早稲田実業高校に入学してすぐに野球部に入った。
夏の甲子園東京都予選に出場。
王は左翼手兼控え投手としてレギュラー入りし、1年生ながら徳武、醍醐の3・4番のあとの5番を任された。
準決勝では、当時の早実の最大のライバルであった明治高を2-1で破る。
決勝も成蹊高を13-1で下し、夏の甲子園に出場、王は甲子園の土を初めて踏んだ。
2回戦、春夏甲子園連続準優勝を果たす強豪・県岐阜商の左腕エース清沢忠彦と投げ合い、1-8と敗れた。
この年の秋から1年生ながらエースとなった。
1957年、二度目の甲子園出場となった春の選抜は準決勝まで3試合連続完封。
決勝、5-3で完投勝利、関東に初めて選抜優勝旗をもたらした。
春の選抜優勝で王は全国に注目される存在となった。
続く夏の選手権では、2回戦で寝屋川高から延長11回の熱戦でノーヒットノーランを達成。
準々決勝で小川博 、河東真を打線の中軸とする法政二高に1-2で惜敗した。
この年の秋、早実は静岡国体の硬式野球高校部門に選出されたが、王は当時の国籍規定(王は中華民国(台湾)国籍)のため出場できなかった。
王は自著「回想」では「生涯最も悔しかったこと」と語っている。
翌1958年、3年生の時の春の選抜では打者としても活躍し、30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放った。
この大会は準々決勝で済々黌高に敗退。
同年夏は東京都予選決勝で明治高と対戦、1-1で迎えた延長12回表に4点を奪いながら、その裏に5点を奪われて逆転サヨナラ負けを喫し、5季連続の甲子園出場は果たせなかった。
高校2年生の夏にはすでに読売ジャイアンツより誘いがあったが、大学進学を考えていたため一度断っている。
しかし東京で生まれ育った王は「プロに行くなら巨人」と考えており、巨人入団を決めた。
1959年に契約金1,800万円、年俸144万円、背番号「1」という高卒新人としては破格の条件で巨人に入団。
王にとってラッキーであったのは野手のポジション争いで、川上の引退直後で一塁が空いていたことであった。
王が入団した当時の巨人は、1951年から1953年まで日本シリーズ3連覇した巨人軍第二期黄金時代が去り、前年に西鉄の日本シリーズ3連覇の前に苦汁を飲まされ、川上哲治・千葉茂は引退し、ベテラン投手の別所毅彦はこの年300勝を目指し翌年を最後に引退し、大友工も力が衰えて巨人は新旧交代の時期であった。
開幕前のオープン戦では本塁打5本を放つなど目立った活躍で新人ながら注目を集めたが、開幕試合でエース金田正一と対戦した王は3打席で2三振1四球に終わった。
デビュー初安打もなく10試合無安打が続き、26打席無安打となった。
それでも水原監督は王を起用し続けた。
4月26日後楽園球場での国鉄との6回戦(ダブルヘッダー第2試合)で0対0で迎えた7回表二死、敵失で出塁した坂崎一彦を一塁に置いて王に第3打席が巡ってきた。王は国鉄村田元一投手が2ストライク1ボールからの4球目に投じた内角低めのカーブをすくい上げると、打球はライトスタンド最前列に落ち公式戦初安打が決勝2ランホームランとなり、巨人が2対0で勝った。
同年6月25日の天覧試合となった対阪神戦では、7回に2対4と2点差を巨人が追う場面で阪神のエース小山正明から4号同点2ランを打って、これが長嶋茂雄とのONコンビ・アベック本塁打の第1号となった。
しかしそれ以外はほとんど目立った活躍もなく、1年目は打率.161・本塁打7本と物足りない結果に終わった。
特に目立ったのが72を数えた三振の多さで、「王は王でも三振王」などと野次られた。
ただし、2年目の年俸は推定140万円から160万円にアップした。
これは練習の球拾い時に自腹で専用の糸を購入し丁寧にボールの破れを修繕していたことを球団代表が評価したため。
なお、この球団の評価に感銘した王は、以後現役引退するまで1度も契約更改でもめることはなかった。
翌1960年の2年目は打率.270・本塁打17本(このシーズンのチーム最多)と主軸として恥ずかしくない成績を残し、オールスターゲームにもファン投票選出された。
3年目の1961年、川上が水原の後を継いで監督に就任。
川上は王に長嶋に次ぐ中心打者としての活躍を期待したが、打率.253・本塁打13本と2年目より成績を落とし、期待に応えることはできなかった。
1961年のシーズン終了後、荒川博が巨人の打撃コーチに就任する。
1962年のシーズン開幕戦で川上は前年の日本シリーズに続き、公式戦で初めて22歳の王を4番で起用した。
王は初めて一本足打法で打った。
しかしネット裏の報道陣はこの特異な打ち方に気がつかなかった。
7月1日からシーズン終了までの王の後半の成績は、打率.282で本塁打29本であった。
王自身も結果が出てきたことで、一本足打法に本気で取り組む気持ちになり、練習に打ち込むようになった。
年本塁打38本・打点85で初めて本塁打王と打点王を獲得。
翌年1963年、シーズンの最初から一本足打法で打ちまくり、長嶋とのコンビが「ON砲」と呼ばれ始め、この巨人の二枚看板の大活躍でこのシーズンは2年ぶりにリーグ優勝と日本シリーズの優勝を果たした。
王はこの年初めて打率3割・本塁打40本を記録し、2年連続で本塁打王を獲得した。
1964年シーズン、リーグ優勝は阪神で巨人は3位に終わった。
しかし、王はシーズン55本塁打の新記録達成でリーグMVPに選ばれた。
翌1965年はシーズン中の怪我の影響で本塁打は42本に減少したが、4年連続の本塁打王、109打点で2年連続3度目の打点王を獲得。
2年連続のリーグMVPに選ばれ、巨人は2年ぶりにリーグ優勝と日本シリーズ優勝を飾ったが、この年から1973年まで九連覇を実現する。
1966年、1967年はともに97試合で40号に到達するハイペースの本塁打量産を見せたが、いずれもシーズン終盤にペースが落ち、記録更新には届かなかった。
ますます一本足打法に磨きがかかり、打撃の確実性が増した王は1968年に初の首位打者を獲得。以後、1970年まで3年連続首位打者を獲得した。
いずれも本塁打王との二冠だったが、打点王は3年連続で長嶋に阻まれ、三冠王には届かなかった。
しかし1969年、1970年は再び2年連続でMVPに選ばれた。
この時点でMVP獲得5回となり、4回の長嶋を上回った。
しかし1971年シーズン後半、深刻なスランプに見舞われた。
3年連続首位打者だった打率は.276まで降下、本塁打も39本に終わり、8年続けていた40本にはわずか1本届かなかった。
タイトルは10年連続の本塁打王を守り、打点王も奪還したが、6度目の首位打者となった長嶋にMVPは譲った。
一方、スランプは翌1972年まで尾を引き、あまりの深刻な不振に川上監督も二本足に戻すことを勧めた程であった。
しかし32歳の王は頑なに一本足打法を貫いてスランプを脱出し、9月20日には923グラム88センチの圧縮バットでついに公式戦7試合連続本塁打の記録を達成した。
この年、前半のスランプの影響で打率こそ2年連続で3割を切ったものの、48本塁打と再び大台を突破し、当時の自己最多となる120打点を記録、復活を遂げた。
1973年、打率.355・51本塁打・114打点で史上3人目、自身初の三冠王を獲得。
翌1974年も打率.332・49本塁打・107打点で史上初の2年連続三冠王に輝いた。
王の通算本塁打が600本を越えた頃から、王の記録がメジャーリーグの記録に迫るものであることが認知され始めた。
新記録の756号まであと40本で迎えた1977年、マスコミやファンの興味が王の「世界新記録」に集まる中、37歳になった5月の終盤から徐々に調子を上げ、7月終了までに26本塁打を記録。
8月だけで13本塁打の猛チャージをかけた。
その3試合後、14打席目(通算7878打数目)の9月3日対ヤクルトスワローズ23回戦3回裏一死無走者の第2打席で、午後7時10分6秒、フルカウントでの6球目(試合開始から50球目)鈴木康二朗のど真ん中のシンカーを滞空時間4秒でライトスタンドへ打ち返し、メジャーリーグ記録を抜く756号を達成した。
日本テレビは当時巨人主催試合を独占中継していたが、この756号の本塁打は生放送できなかった。
当時の中継は19時30分からの放映で、記録を決めた19時10分の段階ではそっくりショーを放映していた。その為、視聴者からかなりクレームが付いたとされている。
この偉業が称えられ、当時の福田赳夫首相から初の国民栄誉賞を授与された。
王が756号を打った当時、日本では「世界一」と評されたが、ギネスブックは、球技においてはリーグのレベル等条件が必ずしも平等でないという観点から、競技全体の世界記録という概念を認めておらず、確認できる最高記録と一定のレベルのリーグ戦における記録を併記していることが多い。またメジャーリーグでも非公認扱いとされている。
しかし王を大いに評価する声も多く、ハンク・アーロン自身は王の記録達成に心から敬意を表して祝福し、フラミンゴの剥製を王に贈っている。
また、王を尊敬するメジャーリーガーも少なくない。
記録への挑戦が続いた1976年・1977年の2年はそれぞれ49本・50本で再び2年連続の本塁打王に返り咲き、123打点、124打点(王の個人ベスト)で2年連続打点王と二冠、4度目の2年連続シーズンMVPに選ばれた。
1978年には前人未到の通算800号を達成するが、本塁打は39本に終わり、本塁打王のタイトルは44本塁打の山本浩二に明け渡すことになる。
1979年は、打率.285・33本塁打・81打点に終わり、一本足打法に切り替えた1962年以来、初めて打撃三冠タイトルを1つも取れずに終わった。
1980年、シーズン1号本塁打で、オープン戦、日本シリーズ等も含めた通算した総本塁打数1000に達したが、打率.236・30本塁打・84打点に終わり、ついにベストナインの選出からも漏れる
ところが10月、長嶋監督辞任、藤田監督の就任が発表され、藤田から助監督就任を要請された。
同年10月12日の126試合目、対ヤクルト26回戦(後楽園)で6回裏二死三塁の第3打席に神部年男の3球目のカーブを打った2ラン本塁打が、公式戦最後の本塁打(通算868号)となった。
11月4日、現役引退を表明。
「王貞治としてのバッティングができなくなった」が引退発表時の言葉だった。
1976年から1980年まで選手兼任コーチ、1981年から3年間巨人助監督を務め、監督・藤田、ヘッドコーチ・牧野茂とのトロイカ体制で1981年の日本一、1983年のリーグ優勝に導く。
11月8日に藤田からバトンを受け継ぎ、第11代監督就任。
「巨人の監督」としての手腕はあまり高くは評価されなかった。
監督業5年間で、リーグ優勝1回を含むAクラスを保持したもののフロントから責任を問われる形で9月29日に辞任が発表され、藤田が再度バトンを受け継いだ。
監督退任後はNHK野球解説者を務めた。西武、ヤクルト、日本ハム、横浜など複数の球団から監督就任を打診されながら世界少年野球推進財団の仕事を理由に断っていた。
1994年10月12日、福岡ダイエーホークスの監督に就任。
初年度は故障者続出などにより借金18の5位に終わる。
翌1996年5月9日、球場から出てきたナインの乗ったバスに、「お前らプロか?」と言う罵声を皮切りに次々と生卵がぶつけられる事件が勃発した。
「チームのファンから」心無い仕打ちを受けるという、スター街道を進んできた王にとっては今まで味わった事のないほどの耐え難き屈辱を受ける時期が続いた。
王はそれらに対し、ひたすら「俺は辞めない」「我々は勝つしかない。勝てばファンも拍手で迎えてくれる」と発言しながら耐え忍び続けた。
1998年は、かつてのチームメート・黒江透修を助監督に迎え、シーズン残り5試合まで優勝の可能性を残す奮闘を見せる。
オリックス・ブルーウェーブと同率で21年ぶりのAクラスとなる3位に入った。
団結した力が実を結び、1999年に球団創設11年目にして初のリーグ優勝、さらに中日との日本シリーズも制し監督として初の日本一になった。
両リーグ優勝監督は三原、水原、広岡、野村に次いで5人目。
翌2000年はリーグ優勝してV2を成し遂げるも日本シリーズで敗退するが、2003年に再び日本一に輝く。
2003年は前年の秋山引退や若田部健一の移籍があり、開幕直前に精神的支柱であり主砲の小久保裕紀が大怪我でシーズン絶望と判明するも、前年のドラフト自由獲得枠の和田毅・新垣渚の両投手が大車輪の活躍をし、斉藤和巳の20勝や村松有人・川崎宗則の打棒開花などでかえって戦力の底上げが実現した。
2004年6月7日の対日本ハム戦で監督通算1000勝を達成。
監督就任11年目となる2005年1月28日、ホークスのソフトバンクへの正式譲渡と同時に取締役副社長兼GM・監督に就任し、就任間もない時期からは考えられないほどの長期政権となった。
2006年3月開催の「第1回 ワールド・ベースボール・クラシック」日本代表チーム監督に就任。
3月18日の準決勝、日本と韓国は予選リーグから数えて短期間で3度目の対戦となった。
対韓国戦2連敗の日本はオーダーに大きく手を加え、これまでリードオフマン(1番)として起用してきたイチローを3番に据えた。
先発は上原浩治と徐在応。
6回までは単発のヒットは出るものの両軍共に無得点と過去2回の対戦と同様の典型的な投手戦となった。
しかし、7回の表、先頭打者の4番松中信彦がライト線への二塁打を放ち、試合は大きく動いた。
日本は、これまで完全に抑えこまれていたためにスタメン落ちしていた福留孝介を代打として送り出した。
福留は期待に応えてライトスタンドへ2点本塁打。
宮本慎也、西岡剛、イチローが三連打。打者一巡で5点を挙げた。
8回の表にも多村のソロ本塁打で追加点を挙げ、日本は上原が7回を無失点、8回は薮田安彦、9回には守護神大塚晶則を投入し完封リレー。
6-0と完勝で決勝へと駒を進めた。
3月21日の決勝戦はキューバ。
日本の先発・松坂大輔は1回裏に先頭打者エドゥアルド・パレに本塁打を浴びたものの、これで気が引き締まったのか4回までをこの1失点のみに抑え、5奪三振の好投。
初回に4得点、5回表にもイチローの二塁打が口火を切り、ヒット3本と犠牲バント、犠牲フライで2点を奪った。
結果、10-6で破り、日本を初代チャンピオン(世界一)へと導き、監督としても「世界の王」となった。
この偉業が讃えられ、2006年12月12日、毎日スポーツ人賞の感動賞をWBC日本代表チームと共に受賞、日本プロスポーツ協会からWBC日本代表として日本プロスポーツ大賞を受賞、さらに、個人として日本プロスポーツ特別賞も同時に受賞している。
ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、海外メディアから「あなたは日本人ですか?」と質問された際、王は「父は中国人だが、母は日本人です。私は生まれたときより日本で育ち、日本の教育を受け、日本のプロ野球人として人生を送ってきました。疑うことなく日本人です」と答えている。
2006年7月5日の対西武戦後に記者会見を開き、胃に腫瘍ができていることを発表。
翌日より胃の上部に生じた癌の治療のためチームを離れ休養に入った。
術前診断は粘膜下層までの浸潤、1群リンパ節転移。
7月18日、慶應義塾大学病院で腹腔鏡下に胃全摘・Roux en Y法再建と2群までのリンパ節郭清が行われた。
2007年春の宮崎キャンプから監督業に復帰した。
2007年シーズンは3位で、クライマックスシリーズでも第1ステージで敗退。
2008年7月26日に史上8人目となる監督通算1300勝を達成。
しかしこの年はオリンピックに強行出場をした川崎が疲労骨折するなど選手の故障が相次ぎ、チーム防御率は5位に低迷し、救援防御率も12球団最下位の4.42、シーズン終盤の9・10月には27戦で21敗という大失速をし、12年ぶりの最下位という不本意な結果となった。
この終盤での低迷が王自身に監督退任を決断させる一因となった。
9月23日、試合終了後に記者会見を開き、体力的な問題を主な理由にシーズン終了で監督職を退くことを表明した。
監督としての通算記録は、2507試合で1315勝(プロ歴代8位)1118敗74分となった。
監督退任後、2008年10月8日ソフトバンク球団取締役最高顧問に就任、2009年1月1日から球団取締役会長に役職変更。
2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表では日本代表監督相談役を務めた。
2010年10月26日、多年に亘る野球界への貢献などにより平成22年度文化功労者に選出された。
投手からスタートした野球人生、選手個人として世界一のホームラン王になり、チームを導く監督・指導者としても世界一に輝きました。
その後のソフトバンクホークスを恒常的に強いチームに導き、その土壌を醸成した先駆者としても多くの信頼を集めている。
自分自身を改革し、あるべき理想像に自らブレイクスルーし続けてきた半生と行けるのかもしれません。
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