新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
試合に「負けた」ことは一度もない。ただ時間が足りなくなっただけだ。
人生で何かを達成したいと思うときは、積極的かつ、攻撃的にならなければならないと僕は自覚している。目標を決めたら、それに向かってひたすら努力するだけだ。何かを達成しようとする場合、受身の姿勢では絶対に達成することはできないと確信している。
僕のヒーローは両親さ。それ以外には僕のヒーローはいない。
10本連続でシュートを外しても僕はためらわない。次の1本が成功すれば、それは100本連続で成功する最初の1本目かもしれないだろう。
誰もが才能を持っている。でも能力を得るには努力が必要だ。
僕はつねに実践することでチームを引っ張ってきた。これは僕の性格だ。僕は言葉で引っ張ったことは一度もなかった。言葉で引っ張ろうと考えたことさえなかった。なぜなら、言葉が行動に勝ることはないと思っているからだ。
才能で試合に勝つことはできる、だがチームワークと知性は優勝に導くんだ。
ステップ・バイ・ステップ。どんなことでも、何かを達成する場合にとるべき方法はただひとつ、一歩ずつ着実に立ち向かうことだ。これ以外に方法はない。
自分に期待することではじめて物事は可能になる。
成功したいと思うなら自己中心的でなければいけない。だがもし最高のレベルに達したなら、自己中心的であってはいけない。他人とうまく付き合い、一人になってはならない。
運命よ、そこをどけ、俺が通る。
リーダーとなるためには、行動によって仲間から尊敬を集めなければならない。リーダーとなる人は、バスケットボールの練習であれ、営業会議であれ、家族との接し方であれ、つねに言行一致を貫かなければならない。
もし自分の弱みとされる部分に立ち向かわなければならなくなったら、私はそれを強みに変えるやり方でやってきた。
俺は何度も何度も失敗した。打ちのめされた。それが俺の成功した理由さ。
わかりやすい格言を紹介しておこう。何事をなすにも、正しい方法と間違った方法があるという格言だ。たとえば、毎日8時間シュートの練習をしたとしよう。もし、この場合、間違った技術で練習を続けていたとしたら、間違った技術でシュートする名人になるだけだ。
成功を学ぶためには、まず失敗を学ばねばならない。
試合開始早々、何本かシュートを外しても「おい、今日はどうしたんだ」と考えるのではなく、「よし、リズムは掴めているぞ。これからだ」と楽に捉えられるかが大事なんだ。
不可能という言葉はあっても、挑戦しないという言葉はない。
高校時代は代表チームの選考から漏れた。9,000回以上シュートを外し、300試合に敗れた。決勝シュートを任されて26回も外した。人生で何度も何度も失敗してきた。だから私は成功したんだ。
失敗をすることは耐えられるが、挑戦しないでいることは耐えられない。
一度でもあきらめてしまうと、それが癖になる。絶対にあきらめるな!
障害を前にして立ち止まることはない。壁にぶち当たっても、振り向いて諦めてはいけない。どうやってそれを乗り越えるか、突き進むか、回り込めるかを考え出すんだ。
無理だなんて絶対に口にするな。限界は恐怖と同じで、大抵幻想にしか過ぎないから。
何かを始めるのは怖いことではない。怖いのは何も始めないことだ。
マイケルジョーダン。
アメリカの元バスケットボール選手。
NBAのシカゴ・ブルズ、ワシントン・ウィザーズでプレー。
その実績からバスケットボールの神様とも評される。
マイケル・ジョーダンは、電気技術者のジェームズ・ジョーダンと銀行員勤めのデロリス夫妻の三男としてニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区で生まれた。
黒人家庭としては比較的裕福な家庭で育った。
自身が生まれてから家族はすぐに引っ越し、少年時代の多くをノースカロライナ州ウィルミントンで過ごした。
少年時代には兄にバスケットボールの手ほどきを受けるが、兄にはなかなか勝てなかった。
他に野球やアメリカンフットボールもプレーした。
地元のE・A・レイニー高校に入学。
入学時は学校のバスケットボールチームに入れなかったエピソードはよく知られている。
この挫折を乗り越え、1年後にはチーム入りを果たす。
高校卒業後はノースカロライナ大学(UNC)に進学し、地理学を専攻した。
後に伝説のショットとして語り継がれている1982年のNCAAトーナメントチャンピオンシップで彼はウィニング・ショットを決め、同校2度目のNCAAチャンピオンに導いた。
2年次に彼はチームの主力となり、その年に彼は全米ジュニア選抜に選ばれた。
3年次の時にはネイスミス賞とウッデン賞を受賞した。
この年のシーズン終了後、当時ヘッドコーチだったディーン・スミスの薦めもありプロ入りを決意。
1984年のNBAドラフトでシカゴ・ブルズに全体3位で指名された。
大学を休学した後の夏にアメリカ代表としてロサンゼルスオリンピックに参加、中心選手の一人として金メダル獲得に貢献した。
ジョーダンは早くも入団1年目からレギュラーの座をつかみ、平均得点はリーグ上位の28.2点を記録。
2年目は怪我によりシーズンの多くを欠場したものの22.7点。
そして3年目にはその才能を完全に開花させ、リーグトップの一試合平均37.1点、シーズン総得点は3,000点を超えウィルト・チェンバレン以来の数字を残した。
1985年には新人ながらオールスター戦出場を果たすが、この試合でジョーダンは味方選手からパスを回してもらえない「フリーズ・アウト」という仕打ちを受ける。のちにジョーダンはこの経験に深く傷ついたと語っている。
1987年にセルティックスに敗れた次のシーズンから、ブルズは毎年プレーオフでピストンズと対戦するようになる。
この時期、荒いディフェンスでバッドボーイズと呼ばれていたピストンズは、対戦する度にブルズとジョーダンを痛めつけ敗退させた。
ピストンズはジョーダン・ルールと呼ばれる方法でジョーダンのオフェンスを封じようとした。
これはインサイドに切り込んだジョーダンを数人がかりで抑え込むもので、精神的・肉体的にジョーダンを苦しめた。
1988年に続き1989年もプレーオフでピストンズに敗退すると、コリンズはブルズの監督を解雇され、アシスタント・コーチだったフィル・ジャクソンが監督に昇格した。
ジャクソンは新システムトライアングル・オフェンスの導入に取り組むなどチーム強化に努めた。
若手のスコッティ・ピッペンとホーレス・グラントも次第に成長していき、ついにはレギュラーシーズンの勝ち星を55勝にまで増やした。
チームメートの信望が厚いビル・カートライトはキャプテンとしてチームをまとめ、ロールプレーヤーのジョン・パクソンはバックコートでジョーダンと組む選手として定着し、ブルズはジョーダンのワンマンチームからジャクソン監督のシステム下で役割分担のチームワークを持った手堅いチームとなっていた。
翌1990-91シーズン、ブルズはチーム史上最多の61勝を挙げる。
ジョーダン自身もそれまでのスタイルを変え、ジャクソン監督の方針通りボールを他のチームメートと分かち合う場面が以前より見られるようになった。
このシーズン、チームの勝ち数は過去最高だったにもかかわらず、ジョーダンの平均得点は過去数年で最低の31.5点だった。
プレーオフでは、カンファレンス・ファイナルでピストンズと4年連続の対戦。
この年は4勝0敗でこれまでの雪辱を果たし、NBAファイナルではマジック・ジョンソンのロサンゼルス・レイカーズが相手となった。
新旧スーパースター対決となったこのシリーズを、シカゴ・ブルズは4勝1敗で勝利し、初優勝を決めた。
ジョーダンはファイナルMVPを受賞した。
翌シーズン、ブルズはリーグ史上屈指の67勝を挙げ、再びNBAファイナルに進出したブルズは、クライド・ドレクスラーを擁するポートランド・トレイルブレイザーズと対戦。
ジョーダンに似たタイプで得点力のあるシューティングガードのドレクスラーを相手に、ジョーダンは目覚ましいパフォーマンスを見せ、4勝2敗で2年連続の優勝を実現した。
次の1992-93シーズンは、ブルズは57勝と前シーズンより10勝減らしたが、プレーオフでは再びNBAファイナルに進出した。
ウェスタン・カンファレンスを制したのはフェニックス・サンズで、ジョーダンの親友でもありチームのエース、チャールズ・バークレーはこのシーズンMVPに選ばれた。
レギュラーシーズンのシリーズは敵地での6試合目を制したブルズが勝利し、3度目の優勝を決めた。
このシリーズで平均41得点をあげたジョーダンはMVPに選ばれた。
3連覇達成後シーズンオフの1993年7月23日、不慮の事件によって父親を失ったジョーダンは、突如引退を表明した。
全盛期にあっての引退はNBAとメディアに衝撃を与えた。
ジョーダンは引退後、突如として野球への転向を表明。
家族が住む地元シカゴのシカゴ・ホワイトソックスのキャンプに参加した。
ジョーダンは1993-94年のNBAシーズン開幕2日前にMLBのシカゴ・ホワイトソックス傘下AA級バーミングハム・バロンズに入団した。
当時はピッチャーであったため、バッティング経験は少なく、最終的にも127試合の出場で打率2割0分2厘・11エラーとメジャーリーグに昇格することは出来なかった。
1995年3月に再びブルズに復帰。
メディアは大々的にジョーダンの復帰を報じた。
シーズン末の17試合に参加し、チームはプレーオフに臨んだ。
1994-95シーズン終了後のオフ、ジョーダンはバスケットボールの体型を取り戻すべく、そして再び優勝を狙うために懸命にトレーニングを行った。
1995-96シーズンが始まると、ブルズは快進撃を続け、NBA史上最高の勝利数を狙えるほどの勢いだった。
ジョーダン、ピッペン、そしてかつての宿敵デトロイト・ピストンズでプレーしていたデニス・ロッドマンがサンアントニオ・スパーズから移籍してきてリーグ最強の3人組として注目を集めた。
また、欧州出身の長身シューターであるトニー・クーコッチ、優秀なディフェンダーであるロン・ハーパーも陰からチームを支えた。
ジョーダン自身は、1993年以前の強烈なスラムダンカーというよりは、技巧的なジャンプシューターとしてプレーしていたが、平均得点30.4で8度目の得点王に輝くことになる。
シカゴ・ブルズは72勝10敗でレギュラーシーズンを終えた。
この勝ち数はゴールデンステート・ウォリアーズが2015-16シーズンに記録するまでのレギュラーシーズン最多勝利記録であり、70勝を超えたチームも歴史上初だった。
ブルズは数字上史上最強のチームとしてプレーオフに臨み、NBAファイナルでシアトル・スーパーソニックスと対戦。
敵地のシアトルで2試合を落としたものの、6試合目にシカゴに戻り4度目の優勝を決めた。
ジョーダンは再びファイナルMVPを受賞した。
続く1996-97シーズン、ブルズは前シーズンより3勝少ない69勝でレギュラーシーズンを終える。
プレーオフでは、このシーズンもブルズはファイナルに進出。
ウェスタン・カンファレンスからは、ユタ・ジャズが勝ち上がってきた。
史上屈指の名コンビと言われるジョン・ストックトンとレギュラーシーズンのMVPカール・マローンを相手に、シリーズは4勝2敗でブルズがものにする。
ブルズとジョーダンの優勝回数は5回となっていた。
続く1997-98シーズン、ブルズはNBAファイナルに進出し、対戦相手はこの年もユタ・ジャズだった。
5戦目までで3勝2敗でシリーズの舞台をユタに戻し、臨んだ第6戦、ジョーダンは残り5.2秒で決勝シュートを決め、ブルズに6度目の優勝と2回目のスリーピートをもたらした。
ジョーダンはシーズン終了後の1999年1月13日に2度目の引退を発表した。
NHL選手のマリオ・ルミューの活躍に触発されたジョーダンは、2001年に低迷を続けるウィザーズのために2度目の復帰を果たす。
以前はガードのポジションだったが、チーム事情によりスモールフォワードでプレーすることとなった。
彼の運動能力は年相応に衰えてはいたが、2001-02年シーズンはケガに悩まされながらも一試合平均23点の記録を上げた。
2002-03年シーズンは1試合平均20点を上げる。
ラストシーズンにはリーグ史上唯一の40歳で40得点という記録も樹立した。
復帰当初、ジョーダンはチームをプレーオフに進出させることを目標にすると明言していたが、2001-02シーズンは37勝45敗でイースタン・カンファレンス10位、2002-03シーズンは同じく37勝45敗でカンファレンス9位と目標を果たせずに終わった。
2003年のオールスターゲームでは、試合終了間際に逆転フェイダウェイショットを決めた。
直後に同点にされたが、既にシーズン終了後の引退を表明していたジョーダンに対し会場からはジョーダンコールが繰り返された。
2016年、大統領自由勲章を受章。
15年間の選手生活で得点王10回、年間最多得点11回、平均得点は30.12点でNBA歴代1位、通算得点は32,292点で歴代4位。
1990年代にシカゴ・ブルズを6度の優勝に導き、5度のシーズンMVP、6度のNBAファイナルMVP受賞。
また、1984年のロサンゼルスオリンピックと、1992年のバルセロナオリンピックにおいてアメリカ代表の一員として2度にわたり金メダルを獲得した。
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