新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
野村家は祖父も父も叔父も柔道家で、文字通りの柔道一家です。しかし、祖父や父からは「柔道一家に生まれたのだから強くならなければいけない」とか、「もっと一生懸命練習しろ」と厳しく指導をされることはありませんでした。そのお陰で、のびのびと柔道に親しむことができたし、「やらされている」という感覚はまったくなかったですね。
当時厳しく言われたのは礼儀の部分。これは本当に厳しく指導されましたね。実際、試合で勝てなくても「なぜ勝てないんだ」とか、「どうしてあそこで技を掛けなかったんだ」と叱られた記憶はありません。現在自分も、小学1年生の息子を週に一度、実家の道場に連れて行くのですが、親として祖父や父の教えをすごく大切にしています。
小学生の大会に行くと、試合会場ですごく厳しい親御さんがいますが、そういう様子を見ると「あの子はのびのびと柔道ができているのだろうか」と、少し胸が痛むこともあります。自分は柔道選手として「弱い時期」が長かったので、特にそう思ってしまうんですけどね(笑)。
小学校までは家庭環境のなかで自然に柔道をしていましたが、自分自身の意志で「柔道で強くなるための稽古をしよう」と思ったのも中学生のときでしたね。だから、試合で結果が出なくても、自分なりに考えて強くなる努力は続けていました。親の思いではなく、競技者として柔道の道を選択したのは自分自身なのだと、柔道に対する思いを強く持つようになれたことで、厳しい練習にも取り組むことができました。
弱かった子供時代、チャンピオンだった最強時代、その後に苦しみ続けた時代、いろんな経験をした。学んだことを世界を目指す選手に伝えたい。悔しさで強くなれる選手を育てたい。
中学では女子に負けるぐらい弱くて、全然勝てませんでした。それでも僕は、これまでずっと続けてきた柔道をあきらめられなかったんです。兄の通っていた天理高は、当時父が柔道部の監督をしていました。兄が高校に入学する時には『人の3倍努力する覚悟がなければ入部するな』と強く言い渡していたのに対し、僕には『無理せんでいいぞ』と。柔道一家のプレッシャーから守ろうという親心だったのかもしれませんが、選手として期待されていないのが悔しくて、寂しくて…。『親父が認めるような選手になってやる、見とけよ!』と、反骨心と強い決意が芽生えたのを覚えています。
意識をくり返しくり返しやっていくと、それは「反射」になる。
振り返ってみると、与えられたメニューをこなしているだけでした。これ以上動けないって思っても、わずか、かすかでも、心と体のエネルギーって残っているんです。心と体のエネルギーを最後振り絞って出し切る。その練習こそが、ほんとに強くなる練習なんです。技術も上げるし、体力も上げる。試合における絶対的な集中力や絶対的な勝負に対しての執念が生まれる。そういう練習を細川先生の言葉から気づかせてもらったんです。
僕は優柔不断な人間なので、決断するのに時間がかかる。だからこそ、アテネを目指すかどうか2年も迷い続けた。その結果として復帰を決めたからには、やり通さなくてはならない。会社や応援してくれている人たちに対して、責任を果たす必要もありました。そして何より、自ら望んでチャレンジを決断したのに途中で投げ出したら、一生後悔し続けるだろうと思ったんです。状況を打破するためには何かを変えなければならない。それで冷静になってみると、「オリンピックを連覇した野村」というプライドを捨てられずにいたことに気付きました。周囲の評価を気にして、格好いい柔道をすることばかり考えていたんです。「これぞ野村の柔道」という、つくられたイメージを体現することに意識を奪われているから、自分の柔道を窮屈なものにしていた。そのことにやっと気付いたんです。それで、格好悪くてもいい、泥臭くてもいい。どんな試合をするかよりもまず、ブランクを経て復帰した自分がアテネに向けて行っている努力を、畳の上で出し切れるかどうかの戦いなんだと気持ちを切り替えました。
勝負をするという生き方を選んだ時点で「執念」は常に自分の心の中心に持っておかねばならない。勝負への執念とは自分自身の心の闘いである。
1年後に自分がアテネオリンピックの代表の座を勝ち取るためには何をしなきゃいけないのか、考えました。自分が変えなきゃいけないのは、心でした。負け続けているくせに、どこかに俺は二連覇した野村だ、格好良く勝たなきゃいけないんだ、一本勝ちしなきゃいけないんだという格好つけのプライドがあった。そのプライドが自分の柔道を弱くして、自分の柔道を小さくしていた。ブサイクな柔道してもいい。その代わり、今持ってる力をもう一度出し切ることから始めよう。そこをしないと、俺にはアテネはないな、と思いました。まわりから笑われたし、惨めな目で見られたけども、自分の柔道を一度変えてガムシャラにやり始めたんです。自分の心を変え、改めてチャレンジをしたんです。一年後に強い自分を取り戻すため。そういうチャレンジをすることによって、ちょっとずつまた自分の強さが取り戻せていった。
大げさじゃなく、胸を張って「柔道こそが自分の人生」って言えます。
どん底まで落ちて、そこから這い上がってアテネの畳に立つことができました。もちろん金メダルを取って三連覇を達成したいという気持ちはありましたが、柔道を通して自然と学んできた礼法などの所作の部分含め、日本柔道の強さと美しさを表現したいと考えていました。そのような心理状態だったので、私自身とても冷静でしたし、すべての対戦相手が自分より一回りも二回りも小さく感じられるくらいの自信と余裕を持って試合に挑むことができた大会でした。
僕はよく人から「究極のナルシストや」と言われるんですけど、柔道においてだけはそう言われても良いと思っているんです(笑)。柔道以外は負けたっていい。でも、自分で選んだ柔道だけは「負けたくない」「自分はこうありたい」「格好良くありたい」という自意識が人一倍強い。だからこそ、少しでもヒントになるような人や言葉と出会えばそれを自分にどう当てはめて生かせるかを常に考えるんです。この「究極のナルシスト」という要素も、3連覇には不可欠なものだったと思いますね(笑)。
自分自身を裏切らない戦いを目標にするだけ。
よく「柔道を続けてきて良かったことは何ですか」と聞かれます。五輪王者にもなったし、選手としていつ終わりを迎えてもおかしくない年齢になった今でも、自分のなかに熱い思いを持って学生達と一緒に稽古ができている。「柔道をやって良かったな」と現在進行形で思えていることが、一番幸せじゃないかと思うんですよ。競技人生には良いときも悪いときもあるけれど、そのときにどう柔道と向き合ったか、どんな取り組みをしたか、どういう思いで過ごしてきたか、そのすべてが自分の経験や財産になります。自分はそれこそ山あり谷ありの柔道人生で、でっかい山も掴んだし、でっかい谷も経験しました。きっと、成功だけの人生よりはずっと面白いと思うんですよ。
柔道から逃げたら自分には何も残らない。
3つの金メダルを取る過程は決して平坦なものではなかった。ただ、これだけは言えます。結局は、積み重ねしかない。積み重ねが強い自分を作るんです。「勝つための積み重ね」ができなくなったとき、自分は引退を選択しました。
自分を高めていく、新しい自分を作っていくために、どんどんチャレンジしていかなきゃいけない。そう思っています。時には立ち止まることも必要です。時には後ろを向くことも必要です。でも、最後は自分自身のために、一歩前に出られる人間でありましょう。
個人的には勝負に勝つことよりも、柔道の良さ、素晴らしさというのを伝えてほしいと思います。試合に勝つことだけにこだわりすぎて、大切なことを伝え忘れているんじゃないかなと思うんです。子供にしても、自分が楽しくてやっているのか、親や指導者に使命を与えられてやっているのかわからない。試合に負けて、先生やお父さんに怒られるというのもどうかなぁと思います。負けて悔しいとか、勝ってうれしいというのを知ることは大事だと思いますけど、それ以上に、柔道は楽しいと思うことが一番だと思うんです。
自分が「びびり」だからこそ、なにをすべきかをしっかり意識できたのだと思います。恐怖心を克服するためには、しっかり準備して、必死に取り組んできたことを信じるしかない。試合に挑むのは自分自身。ほかの誰でもありません。孤独との戦いです。
『小学校の時に、鍛えて鍛えて強いからなんやねんって、ゴールはそこじゃないよ』と。小学生のうちは柔道を通して、礼儀であったり、一緒に練習している先生や仲間との絆であったり、あとは、それこそ柔道の基本や感覚。強い弱いじゃなくて、組み合う感覚、投げる感覚、投げられる感覚を身に付ける。そこでしっかりと土台を作って、そのあと、中学、高校に進んで本格的に競技者としてやっていく中で、強さというものを求めていけばいいと思うんですよね。自分の息子が柔道していて嬉しかったのは、『柔道楽しい。柔道大好き』って言ってくれた時。今はそれが一番だと思っています。
道は自分で切り開くしかない。
心・技・体。なぜ「心」が初めにあるのか分かりました。
小さかった、弱かった、でも絶対にあきらめなかった。
野村忠宏。
1974年、奈良県北葛城郡広陵町生まれ。
祖父は地元・奈良で道場「豊徳館野村道場」を開く柔道師範野村彦忠。
父は1984年ロサンゼルスオリンピック金メダリストの細川伸二ら名選手を育てた元天理高校柔道部監督野村基次。
叔父は1972年ミュンヘンオリンピック金メダリストの野村豊和。
兄の野村忠寿も豊徳館野村道場のコーチという柔道一家。
母は競泳選手で東京オリンピックで奈良県の聖火ランナーを務めた。
小柄な体から繰り出される多彩な技や、抜群の切れ、スピード、天性の守りのカンが天才的と称される。
相手を事前に研究しないことや、試合前後の誰も寄せつけない集中ぶりから天才肌だと言われている。
その他、小柄さから「小さな巨人」、得意技が背負投であることから「平成の三四郎」との異名もある。
男子柔道60kg以下級の選手として、アトランタオリンピックで優勝。
シドニーオリンピックにて柔道軽量級で初の2連覇。
アテネオリンピックにおいて柔道史上初、全競技通してはアジア人初となる3連覇を達成。
さらに夏のオリンピックでの金メダルは日本人通算100個目というメモリアルになった。
アテネオリンピックでの金メダル獲得後は、近代オリンピック史上2人しかいない個人種目4連覇を視野に、北京オリンピックへの出場を目指した。
しかし、2007年の全日本選抜柔道体重別選手権大会で6度目の優勝を果たした直後の練習中に右膝前十字靭帯を断裂。
手術を回避したまま日本国内での代表選考会へ臨んだものの、2008年4月の全日本選抜体重別選手権準決勝で浅野大輔に敗れたため、代表に選ばれなかった。
2012年には、講道館杯の2回戦敗退によって2012年ロンドンオリンピックへの出場を逃したため、日本テレビ系列での同オリンピック中継に「アスリートコメンテーター」として出演。
2013年3月22日、弘前大学より博士(医学)号授与。
2013年11月に右肩、2014年10月に左膝を相次いで手術したが、2015年の全日本実業柔道個人選手権大会での復帰を視野に現役生活を続行。
2015年には、4月30日付で七段へ昇段した。
2015年8月に現役引退。
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