世界で勝てれば、日本でも勝てる~中野浩一(競輪)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■中野浩一(競輪)とは?

24歳のときに、目標でありライバルだった親父の実績を追い越してしまったんですよ。それから先は、競輪会の代表という意識があった。当時、知り合いだったプロ野球の山本浩二さんや、ゴルフの青木功さんと比較されると、どうしても競輪選手の地位はマイナーに扱われる。それなら、世界選手権で勝つのが一番と考えたんです。

みんなが打倒中野を掲げているのですから、激しい戦いになるのは覚悟の上です。僕はいつも抑えられたら反撃することを念頭にペダルを踏んでいます。もちろんマクリに失敗することもある。しかし、それを忘れていては、この世界では生きられません。バンクに出たときは、別人のように燃えることができるんですよ。

当時は、「自転車競技は格闘技だ」って言われたりしましたけど、僕らとしてみれば格闘技ということではなく、セパレートではなくてオープンで走ってますから、当然接触もします。本当はまっすぐ走らなきゃいけないのを、シングルトンが斜行したということで勝ちはしたけれども、僕のほうはペナルティがなかったということになってますが、戦いとしては厳しいものはありました。

これで世界選手権の出場は無理だと思ったけど、10連覇にはこだわっていたんですよ。以前、巨人軍のV9を達成した監督・川上哲治さんとゴルフをして負けたことがあって。ゴルフでは負けたけど、V9だけは破ってスプリントを引退すると宣言していたんです。10連覇という記録は、人びとの記憶にも残りますからね。

21歳の時にあった1977年の世界選手権で金メダルを初めて獲得しました。日本で競輪は48年に始まりましたがイメージが良くなく、昔は堂々と職業は競輪選手と言えませんでした。当時選手会の事務局長をやっていた西栄一さんを中心に、競輪をメジャーにしたい思いがありました。競馬など他の公営競技には世界選手権はないので、競輪を世界選手権の種目にしたい考えがありました。私の勝利が続くことで日本の競輪選手は強いと認知され、80年の世界選手権で正式種目に「ケイリン」が採用されました。

柔道もルールが変わってきたように、競輪もヨーロッパで横文字の「ケイリン」として認知されるようになりました。五輪に競輪選手の参加が認められるようになったのは、私が引退した4年後の96年。出場できていればメダルを何個か取れていたと思います。

一生懸命打ち込めることがあること、それが最高。全力を出し切って走り、それで勝てれば満足感がある。賞金は後から付いてくるんです。

毎年周りから、賞金が増えていくたびに、当時はまだプロ野球に王選手がいらっしゃいまして、王さんが年俸一番多かったので、「王を抜けよ」ってよく言われました。僕としても、競輪そのものの皆さんの認知度を上げるためには、プロ野球という人気スポーツの選手と肩を並べる、もしくはそれ以上になるには、比較するのはお金しかなかったんです。プロスポーツですから。

いくら勝っても、他の…例えば、野球とかゴルフとか相撲とか、そういうプロスポーツが日本にある中で、自転車が同じようには皆さんに見ていただけないことをすごく実感しました。「肩を並べたい」という気持ちが非常に強くなったんです。そのためには、国内でいくら大きなレースを勝っても評価されないと思って、国内で勝って、なおかつ海外でも競輪と違うところで結果を残していけば、皆さんに知っていただいたり、いろんな形ができるんじゃないかなっていう思いが強くなったので、世界選手権に毎年行って負けられない、という思いが強かったんです。

効率だけでなく、一見すると無駄なことのほうが、本当の練習になる。

ムダが必要だと思うんだ。自分にあった練習法を見つけるには、ベストを得るには、無駄な時間が絶対必要。

練習は毎日当然やりますし、ノルマとすれば、通常1日最低100キロは乗る。100キロといったって、3時間半ぐらいで行ってしまいますから。いっぺんに100キロ乗ればすぐに終わっちゃうんで、午前中100キロ乗ったら、午後からまたグラウンド行ってやる。ですから午前午後、若いときは早朝午前午後って3回ぐらい練習してました。普通の競技はシーズンがありますから、例えばプロ野球なんかだと、冬場はしっかりトレーニングを積んで、そのトレーニングがうまくできたら次のシーズンも乗り越えられる。要するにそれが「貯金がある」ということですよね。ですから、冬の間に「貯金を作る」ことが可能ですけど、競輪の場合は、シーズンオフはありませんので、冬場のトレーニングと夏場のトレーニングを並行してやっていかなきゃいけない。その中には休養も入れなきゃいけない。だいぶ考えなきゃいけないんですよね。ピークを持っていってしまうと、そこだけ「勝てる」「勝てない」になりますんで、実はお客さんに対して非常に失礼だと僕は思うんですよ。僕はどちらかというと、年間通して変わらないコンディションというのを保ちたい。いつも同じようにお客さんに貢献できる選手でいたい、というのが僕の一番思いなので、「練習やりすぎて今回疲れてますから、調子悪いです」というのは、プロとしてあるまじき行為だと思うんです。たくさん走りたいなら、それに向かってきちっとした練習を積む時期とレースにはちゃんとコンディションを合わせて出るべきだと思いますね。

プロなのだから、個々でどのくらい練習できるかが問題となる。そこで差がつく。素質があっても、練習しないと強くはなれない。最終的には競争なので、意欲のあるやつが強くなっていく。

自分が注目されているということは、僕を中心に動いてるということですよね。レース自体が僕を中心に動くので、僕が動いたら相手が動く。何かしたら何かされるっていうことですから、何もしなかったら皆何もしないでしょうし。ですから、レースっていうのは中心になった方が楽ですよね。ほっとかれて、「一人で走れ」と言われると、何やっていいかわからなくなりますよね。僕、新人のころにあるんですけど、まったく相手にされないレースがあったんです。結果的には落車っていう形で終わってしまいました。

常に「こうなりたい!」と思って過ごしていたな。決して満足しないで、どんどん次の目標を作ることが大切で、それが持てなくなったら辞めちゃった方が良いね。

「仕事」として競輪に向き合った部分があります。「強くならないと意味がない」というか、「勝たなければ意味がない」。だから、勝つためのトレーニングをする。その点をしっかりと割り切ってやってたのが、結果としてよかったんだと思います。好きで乗ってる人はたくさん練習するんですけど、乗っていれば満足するところがあったりするんですね。僕は乗らないでよければ、乗らないほうがいい。できる限り効率よく勝ちたい、と思ってましたね。勝つためには必要なことをやらなきゃいけないので、練習は嫌でもやる。練習のときには、とにかく、「何のために練習やってるか」「今これをやると、どういうふうに自分にプラスになるのか」とかは、一応考えながらやってたつもりですけどね。

精神的なものは、僕の場合は若いころからいろんな方とお知り合いになれたというのが非常に大きい。いろんな方にいろいろ教えていただいているだけで、身につくものがあるんじゃないかな。でも、最終的には、練習の裏付けですよ。練習して自分が自信を持ってレースに臨めば、そんなに不安はないです。

自分がやりたいこと、目指したいことを、まず決める。その目標を達成するためには、目先の小さな目標を立ててこなしていくといいんです。1日100Km、自転車仲間と山に登り、それを3日間続けたら飲みに行くと決めて練習することもありました。近い目標があると、気持ちにハリが出ます。皆さんも、何月何日に遊ぶ。それまでは仕事を頑張る。その程度でいいから、始めてみてください。悩む暇もなくなるし、体も元気になると思いますよ!

「自転車に乗って、走る」という事実はいつの時代も変わらないから。何が優れた方法なのかを常に理解してやることが大切だね。俺が勝てていたのは、それを踏まえてトレーニグをしていたからだと思う。今は当時よりも情報が多いだけに、選手一人ひとりがしっかり噛み砕いて、それらをどう使うか考えないといけない。それは決して簡単なことではないけれど、その先にメダルがあるんだと思う。

世界に目を向けたヤツが最終的にはいいカタチで勝てることになる。

他人と違っても男の恥ではない。

世界で勝てれば、日本でも勝てる。

■中野浩一(競輪)とは?

中野浩一。

1955年生まれ、福岡県久留米市出身。

両親はともに元競輪選手。

福岡県立八女工業高等学校では陸上競技を行っており、高校2年のとき、1972年に開催された山形インターハイ・400メートルリレー走の第3走者として優勝に貢献。

高校3年春に右太ももの肉離れで陸上競技での大学進学を断念。

高校卒業後の進路としては、祖父が中学校の校長をしていたことから体育教諭への道や、プロ野球選手から転身した尾崎将司に倣ってプロゴルファーになる希望を持っていた。

そんな中、当時競輪選手だった父・光仁から、一度トラックレーサーに乗ってみないかと奬められ、正味3ヶ月程度の練習の末、競輪学校第35期生試験に合格した。

1975年に競輪学校を卒業。

「35期の三羽烏」と謳われる。

同年5月3日に久留米競輪場でデビュー。

その後、デビュー戦を含めて18戦無敗の記録を作った。

また「九州のハヤブサ」というニックネームが付けられた。

1978年には競輪祭を制し、特別競輪10回目の出場にして初めての優勝を飾った。

そして1980年に、日本のプロスポーツ選手として初めて年間賞金獲得額1億円突破を達成した。

その後、1981年の日本選手権競輪を制し、高倉登以来となる史上2人目の特別競輪3連覇を達成。

1983年には史上最多の6回目の賞金王の座に就いた他、1985年に開始されたKEIRINグランプリを制し、同レースの初代優勝者となった。

とりわけ最盛期ともいうべき、1970年代後半?80年代前半にかけての中野の強さは驚異的であり、特に「浩一ダッシュ」と称された捲りは非常に鋭く、400mバンクを1周程度しか逃げ切れる力がない先行選手だと簡単に捲られていた。

一方、1976年に初めて世界自転車選手権に参戦し、プロ・スクラッチ(現 スプリント)で4位に入った。

翌1977年、準決勝で当時同種目連覇中だったジョン=ミカエル・ニコルソンを破ると、決勝では前年の3位決定戦でストレート負けを喫した菅田を逆にストレートで下し、日本人選手として初めて同大会の優勝者となった。

それ以降は毎年この種目で優勝し続け、1986年までに10連覇を達成。

国内でも常にトップクラスで活躍し続け、1983年競輪祭で滝澤正光を捲って優勝したのを最後に、異例の長きに渡った競輪競走第一人者の座は降りたが、1988年には通算賞金獲得額10億円を突破。

しかし、1992年に特別競輪の中で最後まで優勝できなかった高松宮杯競輪の決勝戦2着を最後に引退した。

獲得賞金総額は13億1916万2077円。

引退後は、日刊スポーツ専属の競輪評論家として活動。

競輪がオリンピック自転車競技の「ケイリン」として正式種目に採用された2000年のシドニーオリンピックでは、競技の解説を務めるかたわら、ケイリンでは全レース先導誘導員を務めた。

2006年春の紫綬褒章を競輪選手として初めて受章。

競輪選手としての現役時代の活躍とともに、世界選手権プロスプリント10連覇が高く評価された。

2011年4月より、日本自転車競技連盟強化委員長に就任。

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