新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
得意なことを伸ばして伸ばして、苦手なところを少しずつ補っていく。
捕手とは「目配り、気配り、思いやり」
選手が切磋琢磨して、チームが勝てるようにやるだけ。ベンチの人にも役割がある。試合に出なくても役割がある。みんなが役割を全うできたら、勝てる。一人でも『おれはいいや』と思っているやつがいたら、勝てない。それが団体スポーツ。野球の醍醐味だからね。
自分に嘘をつけない。
ストライクを見逃す勇気を持てるようになった。橋上さんは「割り切りが大事」っていう。例えば、今まで打てなかった投手に対して「低めを絶対に我慢しよう」とか「見逃し三振はOK」とかね。これまでだったら、三振をしたくないから振りにいっていた。でも「三振をしてもいいんだな」って思えるようになり、余裕が生まれた。
焦っても仕方ない。
僕らが受け継いできたものを今の選手が次世代の選手に受け継いでいってくれればうれしい。そうしてほしい。常勝軍団と言われますけど、本当にその通りで、常に勝ちを求められて、勝って当たり前と思われて、その中で勝つことの難しさはみんな実感している。そこは特別なのかなと思う。
悔しさがなかったら、もう辞めた方がいいんだよ、勝負師として。
点差が開いても、最後の打席でヒットを打っておこうとか、次の日のためにボールをたくさん見ておこうとか。たとえ結果が出なくても、相手投手に一球でも多く投げさせれば、翌日以降、ウチに有利に働きますからね。4番になることで、そういうことをより意識してできたのではないかと思います。
忍辱自重…いくら屈辱的なことがあろうが動じないで、自分に任せられた重責をしっかり担う事。
よく3割30本塁打が強打者のバロメーターのように言われますが、強い打球を飛ばそうとするとムダな力が入る。それで長打はいらないと割り切りミートに徹したら、結果が出るようになったんです。結果が出れば余裕ができます。追い込まれても『絶好球が来るまで待っていればイイや』と、ボールをじっくり見られるようになりました。難しい球に手を出しても意味がない。たとえ見逃し三振しても、狙い球以外は見逃す勇気が必要かもしれません。ボクのバッティングは、よくボールを見る“みるみる打法”です。
4番は打つだけじゃなく、相手チームを仕留めなければならない。確かに相手投手の失投だけ狙っていれば打率は稼げますが、相手を仕留めることはできません。僕が現役時代に心がけたのは相手投手のウィニングショットを狙い打つこと。一振りで相手を仕留める。これは4番にしかできない仕事なんです。
19年間ですか。いろんなことがあって、話していたら明日の朝になってしまうくらい、いい思いでも辛い思い出もある。それでも球場に足を運んでいただいたり、打てないときでも応援してもらったり。そういうサポートがあったからこそ19年間できた。これから本当の戦いが待っている。巨人が日本シリーズに出られるように応援していただければ。
キツイ時ほど、笑っていようかなと思います。
ボクが理想としているキャプテン像は、前を向き続ける人です。試合に負けていても、『下を向くな!』『行くぞ!』と檄を飛ばしていけるかが重要。具体的には『スクール☆ウォーズ』で、山下真司さんが演じた滝沢賢治先生みたいな人間ですね。熱さ全開で顔を紅潮させながら、チームメイトを激励しようと思っています。
手抜きすんな。
個人的に一番意識していることは下を向かないことです。キャプテンである自分が下を向いてしまっては、若い選手をはじめチーム全体がそうなってしまう。
ボクは『ミスは忘れてはいけないモノ』と考えています。反省しないと進歩はない。だからボクのロッカーにはエラーした写真がたくさん置いてある。毎日それを見ると、悔しさを忘れないじゃないですか。
阿部慎之助。
1979年生まれ、千葉県東葛飾郡浦安町(現在の浦安市)出身。
元実業団野球チーム・電電東京に所属した阿部東司の第2子として誕生。
慎之助の名は母親が池畑慎之介(ピーター)の大ファンだったことから名付けられた。
父は掛布雅之と習志野市立習志野高等学校で同期であり、掛布とクリーンナップを組み、掛布が3番・父が4番を打ち、全国高等学校野球選手権大会に出場経験がある。
その影響もあり、幼い頃から阪神タイガースファンで掛布に憧れ左打ちになった。
また父もポジションは捕手、中央大学と共通している。
父の勧めもあり、浦安市野球協会学童部所属・軟式少年野球チーム・浦小クラブに所属。
その縁で浦安市野球協会で阿部慎之助杯争奪少年野球大会を協賛している。
浦安市立浦安中学校から安田学園高等学校へ進学。
高校では通算38本塁打を放つ。
中央大学商学部に進学し3年生春まで東都大学野球連盟2部リーグでプレーする。
2部リーグ通算51試合出場、186打数58安打、打率.312、12本塁打、41打点。
3年生秋にチームは1部昇格。
1部リーグ通算28試合出場、92打数27安打、打率.293、5本塁打、19打点。
ベストナイン1回。
2000年9月にはシドニーオリンピック代表に選ばれた。
2000年11月のドラフト会議において、ドラフト1位(逆指名)で読売ジャイアンツに入団。
2001年、ヘッドコーチの原辰徳の推薦を受け、3月30日の阪神との開幕戦で、球団では山倉和博以来23年ぶりとなる新人捕手開幕スタメンとして先発出場。
その試合で星野伸之からプロ入り初打席初安打初打点を含む4打点を挙げる活躍を見せた。
当時の巨人は村田真一に代わる正捕手の育成が急務だったこともあり、監督の長嶋茂雄は村田を阿部の「教育係」にするとともに、127試合に起用して経験を積み重ねさせた。
最終的には13本塁打を記録したが、規定打席には6打席不足した。
新人捕手の2桁本塁打は田淵幸一以来2人目だった。
2002年、127試合に出場し、巨人としては1987年の山倉和博以来の捕手による規定打席に到達し、ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。
後半から高橋由伸の離脱により3番に起用され、8月の3度を含む4度のサヨナラ打を記録した。
2003年、シーズン途中の右肩の故障もあり、94試合の出場に終わる。
規定打席不足であるものの、打率.303を記録した。
初めてオールスターゲームに出場した。
2004年、4月9日から4月16日にかけて6試合連続本塁打、4月28日には一試合3本塁打を放った。
4月に放った月間16本塁打は王貞治の球団記録を更新し、1981年の門田博光(南海)、1994年の江藤智(広島)と並ぶ日本タイ記録だった。
5月12日には1998年にマーク・マグワイアが記録した従来の世界記録である「開幕35試合目での20本塁打」を2試合更新した「開幕33試合目での20本塁打」を記録した。
その後ペースは失速し、5月後半~7月はそれぞれ2本ずつに留まり、8月には故障もあって、最終的には33本塁打だった。
しかし、巨人の捕手として球団史上初の30本塁打を記録し、規定打席に到達し、自身初の打率3割も記録した。
2005年、一年を通じて5番に定着し、最終的には打率3割を越え、出塁率と得点圏打率はチームトップの成績だった。
2006年、ワールド・ベースボール・クラシックの日本代表に選出されたが、前年の故障の影響で辞退した。
打率は4年ぶりに3割を割り、自己ワーストの10本塁打に終わったが、キャリアハイの盗塁阻止率.443を記録した。
2007年、主将に任命された。
オールスター第2戦ではMVPを獲得。
2008年の北京オリンピックの野球日本代表予選3試合に出場し、打率.769(13打数10安打)4打点を記録し、最優秀打者賞・MVPを獲得した。
2009年は開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。
城島が正捕手として起用されたため出場機会には恵まれなかったが、第2ラウンド1組1位決定戦では捕手として先発出場した。
シーズンではスタメンを外れたり、セス・グライシンガーの先発時は鶴岡一成がマスクを被った一方で、4年ぶりに一塁手で出場する事もあった。
9月には5試合で7本塁打を放つ活躍で月間MVPを受賞した。
チームトップ、リーグ2位の32本塁打、リーグ1位の本塁打率、リーグ1位の長打率を記録し、連覇に貢献。
日本シリーズでは日本ハムと対戦し、第5戦で武田久からサヨナラ本塁打、第6戦では武田勝から決勝打を記録し、ピンチの場面で3番・稲葉篤紀、4番・高橋信二を三振に仕留める好リードで、日本一を達成し、シリーズMVPを受賞した。
2010年9月11日の広島戦で、捕手としては野村克也・田淵幸一に次ぐ史上3人目のシーズン40本塁打を達成した。
捕手としては球団初、左打者の捕手としても史上初の記録であった。
本塁打率は2年連続でセ・リーグ1位だった。
契約更改では、4億円を提示。
2011年は東日本大震災の影響で日程が遅れたことに加え、4月5日の阪神との練習試合で右ふくらはぎを負傷し、開幕に出遅れた。終盤はラミレスに代わって4番に定着するなど、攻守にわたってチームを牽引した。
契約更改では、怪我で出遅れながらもナインを牽引したことが評価され、現状維持の4億円(推定)で更改した。
2012年主に4番で起用され、史上最多タイとなる年間3度の月間MVPを受賞するなどチームを牽引し、自身初の打撃タイトルとなる首位打者、打点王、最高出塁率を獲得した。
本塁打もウラディミール・バレンティンに4本差の2位であり、一時は三冠王も視界に入れた。
打率.3404は1991年に古田敦也が記録した.3398を上回る捕手の最高記録であり、打点は両リーグで唯一100を超える104を記録した。
また、三振数も規定打席到達者の中でセ・リーグ最少で、出塁率・長打率も12球団トップだった。
リード面でもチーム防御率2.16は、1966年の西鉄ライオンズ(2.13)以来の好成績となった。
日本シリーズでは、3戦目に右膝裏を痛めて途中交代し、4戦目と5戦目に出番はなかったが、6戦目は4番・捕手で出場し、7回裏に決勝適時打を打ってチームを日本一に導いた。
また、原監督と共に正力松太郎賞を受賞し、さらにセ・リーグMVPにも選出された。
2013年2月20日に第3回WBC日本代表選手28人が発表され、代表入りし、2大会連続2度目の選出となった。
同大会では、主将、4番、正捕手の三役を兼任した。
1次ラウンドでは無安打も、3月12日のオランダ戦では自身初かつWBC史上初の1イニング2本塁打を記録した。
しかし、準決勝のプエルトリコ戦では好機に3度凡退し、チームは敗戦を喫した。
阿部は全7試合に出場し、チーム最多タイの7打点を記録した。
シーズンでは3年ぶりに30本塁打を記録するなど、この年も各部門で高い数字を記録した。
また、年俸が6億円に上がり、松井秀喜と並ぶ球団最高年俸タイ記録、NPBでは史上2位タイ記録となった。
2014年は本塁打数も19本に終わり、2006年の10本以来、8年ぶりに20本を下回った。
打率.248は規定打席到達者の中で最下位だった。
11月6日、捕手部門で2年連続となるゴールデングラブ賞を受賞。
不振により年俸は5億1000万円(推定)へとダウンしたが、球界最高年俸は変わらなかった。
2015年は幾度も離脱し、111試合の出場で打率.242、15本塁打、47打点の成績に終わった。
2016年はオープン戦で肩に違和感を覚えて登録抹消され、開幕二軍で迎えた。
5月に一軍復帰し、打率.310、12本塁打、52打点を記録し、4番として随所で活躍を見せた。
2017年は3年ぶり、内野手登録となってからは初めて規定打席に到達し、打率は.262と振るわなかったものの、17年連続2桁本塁打となる15本塁打・76打点を記録した。
2018年は岡本和真の飛躍によりレギュラーを奪われ、怪我以外の理由では初めて開幕スタメンを外れたが、入団1年目から18年連続での2桁本塁打となり、清原和博、張本勲に次ぎ歴代3位となった。
2019年は監督に復帰した原辰徳と協議し、再び捕手に復帰することを決意した。
6月1日の中日戦で田島慎二から本塁打を放ち、史上19人目となる通算400本塁打を達成した。
巨人での通算400本塁打達成は王貞治、長嶋茂雄に次ぐ3人目であり、巨人の捕手では史上初の達成となった。
また、捕手の通算400本塁打達成は野村克也、田淵幸一以来、史上3人目だった。
捕手で1666試合出場しており、捕手で通算1000試合出場、あるいは通算2000本安打を達成しての通算400本塁打は野村に次いで2人目だった。
捕手として400本塁打・350二塁打を達成した選手は野村克也以来、史上2人目だった。
セ・リーグでは史上初の快挙だった。
原監督とも協議した結果、2019年限りで現役引退することを決断。
2019年9月27日のDeNAとの本拠地最終戦で、「ありがとう慎之助」と銘された記念試合が行われた。
日本シリーズでは全4試合に出場し、初戦の第1打席では令和日本シリーズ初得点となるソロ本塁打を放つなど活躍したがチームはソフトバンクに4連敗を喫し現役を終えた。
2020年から巨人二軍監督に就任。
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