新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
みんな僕の優勝を疑っていなかったので、できるだけ簡単に優勝したかったです。
とにかく試合を想定して、試合と同じように練習でも集中することを心がけています。
五輪には、アスリートを惹きつける魅力がある。小さい頃から夢に描き、大人になってもそれは変わらない。『あの舞台に立ちたい』『メダルを獲得したい』。その一心で挑戦し続けられる魅力が、”あの場所”にはあるんです。そういう想いを持って集結する選手たちがいるなかで、自分の力を全て出し切り、通用するのかどうか。ただ、それが知りたいんです。
卓球一筋。
若い頃は、あまり節制をしていませんでした。卓球がそんなに好きでなかったというのもあるし、嫌々やっていた部分があるというか、卓球に本当に向き合ってやれていなかった。でも、ロシアに行ってプロの人たちの生活を見て、心を入れ替えました。だから、高校や大学の時から本当にプロの世界を見てやっておけば、もっともっといい成績を残せたんじゃないかな、と思うことがあります。
誰にでも好かれるようないい子ちゃんではチャンピオンになれない。
戦術ですね。特に木造戦は、最初はサービス・レシーブで様子をうかがって、どんなサービスが来るのか、それに対してどんなレシーブをしたらいいのか、自分がサービスのときはどこにどんなサービスを出したら効くのか、様子を見ながらプレーします。それこそ、1ゲーム目を捨ててでもいいから、そうやって相手の弱点を探しますね。
気にしても結局、無駄というか。自分ではなにもできないじゃないですか。その状況を受け入れるしかない。観客からブーイングを受けても、その人たちが自分の試合を見てくれるだけで嬉しいと考えるようにしています。
遊びじゃなくて、命を懸けてるので。相手も命を懸けて来る。戦場ですからね。
最初はレベルが違いすぎて、歯が全く立ちませんでした。日本の同世代の中では強くても、世界のトップ選手が集まるドイツでは、練習でも相手にならなくて…。練習メニューにも違いがありました。日本では毎日7〜8時間、チーム全体が同じメニューをこなすのに比べて、ドイツでは5時間ほどで、選手一人ひとりに専属コーチがついて個別の練習メニューをこなしていました。それを見て、「だから海外の選手はこんなに強いんだな」と感じました。というのも、やはり卓球のような個人差が出やすいスポーツで、全員で同じメニューをこなしていては、一人ひとりが持つ能力を引き出すことはできません。その選手の得意不得意、体力、技術力など全てを把握した上で練習メニューを考案し、実行する。“個”の力を引き出すこのやり方は、日本にも取り入れるべきだなと感じました。
言い方としては良くないですが、「負けても別にいいや」と思えるぐらいプレッシャーがなく、リラックスして臨めていましたから。なぜなら、僕らは王者ではなく挑戦者ですから、失うものは何もありません。とにかく自分の全てをぶつけるぐらいの気持ちで戦ったからこそ、強豪相手でも打ち勝つことができたんだと思います。
僕が卓球を始めたときからの夢だったので、かなえられて本当にうれしい。きょう負けたら一生後悔するので、死にたくなると思ったので、絶対負けたくないと頑張りました。これまでだれも個人のメダルを獲得してなかったので、その人たちの分まで頑張りました。自分の夢がかなったので、団体戦では皆さんの夢をかなえたいです。
一番大事なのは覚悟。自分は中2でドイツ留学を決めた瞬間から卓球に命を注ぐと決めていた。それだけ覚悟があったと思う。
卓球を道として選びそれ故に礼儀を重んじ卓球場で精神を鍛え心を磨き敵は相手ではなく自分であることを知り己に勝てる人間になりたい
他人よりも2倍も3倍も努力しやらされる3時間より自ら進んでやる1時間の価値を知りあきらめず最後までやり通す根性の卓球選手になりたい
失敗を人のせいにせず簡単なプレーほど慎重に行い同じミスを2度と繰り返さず人の気持ちになって物事を考えられる心豊かな卓球選手になりたい
練習は人生の縮図と悟り今日できることを明日に延ばさず研究と精進を怠らず指示があったら「はい」と返事してすぐ行動するファイトあふれる卓球選手になりたい
我慢の味をよく知っておりものや人を大切にするあたたかい心を忘れずライバルすら協力したくなるような誰からも愛され応援してもらえるたくましい卓球選手になりたい
いろんな世界を持ってほしいということ。世界は本当に広いと思うんですよ。その広い世界で、一人ひとりの考え方も違う。今よりも広い視野で見れば、手を差し伸べてくれる人は絶対にいるはずです。だからもっといろんなところに出向いたり、いろんな人と交わることが大事だと思いますね。
正しいことをしているから、何を言われても揺らぎません。
自分の生き様として、信念を大切にしている。信念は人それぞれあると思うけど、自分にも譲れない卓球への信念があって、それを忘れないで生きている。(その信念は)小学生から持っていて、それだけは譲れない。守るがゆえに怒られても、それだけは守り通したい。
周りは私のことを「異常」だというが、「異常」だからこそ私は試合で勝てる。
卓球という競技においては、常に新しい道を切り開いて挑戦していきたい。そういう気持ちが強いんですよね。それがドイツやロシアへの留学につながっていて、その間には中国リーグにも3年間チャレンジしています。そういう形で、誰もやったことがないことに挑戦し、自分を磨いていきたい。そして、さらに強くなって上の景色を見てみたい。
夢は叶えるためにあるもの。無理なら新しい夢を作ればいい。夢に向かっていく過程で人は成長していくと思っています。
『一流人になるか、ならないか』には、必ず、何かしらの『結果をもたらす違い』があるはずです。
このまま一人で強くなってやるって。ある意味、今まで自分が背負い込んできたものすべてと決別する気持ちでした。
ボクは捨て石になってもかまわない。
卓球は人間を磨き、卓球は人間をつくる。
水谷隼。
1989年生まれ、静岡県磐田市出身。
小さい頃はサッカーやバスケットボール、バレーボールなど様々なスポーツをしており何をしても万能なタイプだったという。
両親が卓球経験者であり、兄と妹がいる、父が代表を務める豊田町卓球スポーツ少年団に第1期生として入って5歳から卓球を始める。
当初は右利きだったが両親が左の有利性を考え、卓球の利き手を左に矯正した。
磐田市立磐田北小学校1年生時に初出場した全日本卓球選手権大会バンビの部(小学校2年生以下)で準優勝し本格的に卓球の道に進んだ。
翌年バンビの部で優勝するとその後もカブ、カデットの部と優勝を重ね、中学になると卓球面での環境を考え、福原愛などを擁する青森山田中学校に転校、青森で寮住まいをすることになった。
東アジアホープス男子団体では日本初優勝に貢献した。
中学2年で出場した2004年1月の全日本卓球選手権ジュニアの部で優勝(男子では史上最年少)、また一般の部もランク入りし、その天性の柔らかいボールタッチから話題になった。
15歳になり青森山田高校に進学した。
2005年には15歳10ヶ月という男子史上最年少で世界卓球選手権日本代表に選出された。
当時の日本代表はアテネオリンピックなどの惨敗を受け、一気に若返りを図り水谷はその中でも最年少であった。
また、代表の強化選手となったことで、岸川聖也らと共にドイツに留学。
ドイツリーグの1部(ブンデスリーグ)でプレーして、一年の大半をドイツで過ごした。
2005年の第48回世界卓球選手権個人戦では当時世界ランク8位、アテネオリンピック5位であった荘智淵(台湾)をフルゲームの末破った。
当時、靖国神社参拝問題などにより日中関係が悪化し上海で行なわれたこの大会で大半の観客が水谷の相手選手である荘智淵に声援を送る中での勝利であった。
同じ年に行われたアジア選手権では当時世界ランク2位、アテネオリンピック銀メダリストである王皓(中国)を破るなど日本の若きエースとなっていた。
2006年(平成18年)度の全日本卓球選手権では男子シングルス、男子ダブルス、男子ジュニアの部シングルスを制し3冠を達成した。
男子ジュニアの部シングルスでは史上最多の3回優勝の記録を残した。
このうち男子シングルスでは3連覇を狙った吉田海偉を決勝で破り、史上最年少の17歳7ヶ月での全日本卓球選手権優勝であった。
またこの優勝で2007年クロアチア・ザグレブでの世界卓球選手権(シングルス)の出場が決定した。
2007年、青森山田高校から「世界で戦うためのサポート体制がいい」と名門卓球部のある明治大学への進学を決め、同大学政治経済学部に入学した。
2007年/2008年シーズンはドイツリーグの1部(ブンデスリーグ)のデュッセルドルフに加入。
2008年の北京オリンピックでは団体で5位入賞、2009年の第50回世界卓球選手権個人戦では岸川聖也とのダブルスで銅メダルを獲得した。
またその後に続いた中国オープン、荻村杯では同ダブルスで連続優勝している。
またこの年から中国の中国スーパーリーグの浙商銀行に加入。
2008年中国スーパーリーグではオリンピック(2012)、ワールドカップ(2011)、世界選手権(2011、2013)で金メダルに輝いた張継科選手に勝利。
2009年、韓国オープンにおいて準々決勝で朱世赫、準決勝でオフチャロフ、決勝で郝帥といった格上の強豪を次々と撃破し、優勝した。
また、同年のアジア選手権団体戦では、中国との決勝戦で2-1先攻で迎えた水谷vs許听戦で、最終ゲーム10-7のマッチポイントからデュースに持ち込まれ逆転負けを喫したものの、中国の同年代に対し対等に戦った一戦であった。
第5回東アジア競技大会では団体戦で世界ランク1位の中国の王皓を破るなどの活躍を見せ、2010年1月の世界ランキングで初めてトップ10入りを果たした。
年を経るにつれ体の細さを補う筋力も徐々につき、本来後ろでプレーすることを好む選手だったが平成20年度の全日本では積極的に前に出て回り込む戦法を心がけ、優勝した。
4連覇が懸かっていた平成21年度全日本卓球選手権大会の男子準決勝でも張一博にゲームカウント1-3のポイント7-9まで追い込まれながら、そこから粘りを見せて勝利し、決勝でも吉田をストレートで下し4連覇を果たした。
初優勝を果たした平成18年度から、田崎俊雄、坪口、岸川、張一博といった選手に毎年敗北の際まで追い詰められながらも逆転する、という精神的な強さを見せていた。
2010年の全日本卓球選手権で、男子ダブルスにおいては決勝で松平健太・丹羽孝希組に破れて5連覇はならなかったものの、シングルスにおいては初戦から圧倒的な力の差を見せつけ優勝し、史上初の男子シングルス5連覇を達成した。
またこの年から再び中国の中国スーパーリーグの四川郵儲・先鋒汽車に加入、この年ITTFワールドツアー・グランドファイナルで初優勝。
2010年中国スーパーリーグでは世界選手権金メダル11個取得の王励勤選手に勝利。
2010ワールドカップシングルスでは準決勝で中国の張継科との対戦となった。
ゲームセット3ー0とリードしておりあと一本で勝利という場面でサービスのフォルトを取られ1ゲームを落とす。
張継科に勢いが戻り4セット連取され逆転負けとなった。
3位決定戦ではドイツのティモ・ボルとの対戦となり、3ー4で敗れ4位の結果となった。
2011年の全日本卓球選手権では男子シングルスで準決勝まで順当に勝ち上がるものの、決勝で高校3年生の吉村真晴にフルセットの末3-4で敗れ6連覇を阻まれた。
先にチャンピオンシップポイント10ー7でリードしていたが、吉村真晴が4連続ポイントと逆転され2位の結果となった。
2011年ワールドカップシングルスでは3位決定戦で韓国のチュ・セヒョクに敗れ4位の結果となった。
2011年世界卓球選手権大会では男子シングルスベスト8の成績を残した。
2012年に明治大学を卒業後、4月1日付でスヴェンソンと所属契約を結んだことがこのほど日本卓球協会より発表された。
7月4日付世界ランキングで自己最高の5位となり、ロンドンオリンピックではメダルを期待され自身もメダル目標に掲げて男子シングルスで第3シードとして挑んだ。
初戦の3回戦は突破したものの4回戦で敗退しマイナス要素を考えすぎ、不眠症になり無理やり飲酒をし睡眠をとるなどしたためにプレーに影響が出て、団体でもメダルを逃す。
2012年世界卓球選手権大会では男子団体でエースとして活躍。銅メダルに貢献した。
全日本選手権では決勝で後輩にあたる青森山田高校の丹羽孝希との対戦になり、ゲームカウント3-4で丹羽孝希の勝利。
ファイナルセット9-11と敗れ、2大会連続2位の結果となった。水谷はこの大会コーチ無しで挑んだ。
2012年10月に卓球のラケットのラバーに違法行為である「補助剤」を、多くの選手が使用している卓球界の現状を問題提起した。
国際試合への出場を取りやめ、問題の解決を訴えたという。
しかし問題の解決には時間がかかり、選手としてプレーをしたいという思いも強く、半年後のワールドツアー・クウェートオープンに参戦し国際試合に復帰する。
2013年世界卓球選手権パリ大会でダブルス銅メダル、同年全日本卓球選手権大会では3年ぶり6度目のシングルス優勝を達成した。
2013ワールドカップ男子団体戦では、銅メダルに貢献した。
2013年よりロシア・プレミアリーグのUMMCと契約。10月、青森山田時代からの知遇であった邱建新を専属のプライベートコーチとして迎え入れる。
2013年11月、高校時代に知り合った一般女性と7年の交際を経て結婚、25日に、DIOジャパンとスポンサー契約を結ぶ、2014年には第一子となる長女が誕生し、年末のITTFワールドツアー・グランドファイナルで2度目の優勝。
2014年世界卓球選手権大会では男子団体でエースとして活躍。銅メダルに貢献した。
2014年8月に、DIOジャパンとの契約満了で新たにビーコン・ラボと契約。
2014全日本選手権大会優勝。
2014ワールドカップシングルスでは3位決定戦でドイツのティモ・ボルとの対戦となった。ゲームセット2ー4で4位の結果となった。
2015全日本選手権大会優勝。
2015年世界卓球選手権大会では男子シングルス2度目のベスト8の成績を残した。
2015ワールドカップシングルスでは3位決定戦でドイツのオフチャロフとの対戦となり2ー4で敗れ4位の結果となった。
2014-15年シーズン、所属するロシア・プレミアリーグのUMMCでは全勝優勝を果たす、またはヨーロッパチャンピオンズリーグでは準々決勝で敗退。
2016年世界卓球選手権大会男子団体ではエースとして銀メダルに貢献した。
2015-16年シーズン、所属するロシア・プレミアリーグのUMMCはオレンブルクのFakel Gazpromに敗れ準優勝。
2016年1月同じロシア・プレミアリーグのオレンブルクのFakel Gazpromに移籍。
全日本卓球選手権決勝では張一博を4-1で退け、3年連続8回目の優勝を決めた。
通算優勝回数はソウルオリンピック代表の斎藤清に並び史上最多タイとなった。
ワールドツアー・クウェートオープン男子シングルス準々決勝では中国・許昕との対戦でゲームセット3ー3の10ー4で水谷隼がリードしていたが、許昕が8連続ポイントと逆転され敗れた。
2016年リオデジャネイロオリンピックでは、ノングルー時代になって以来使っていたテナジー64から、更に進化を求めるためテナジー80に変え挑んだ。
男子シングルスにおいて、準決勝で世界ランク1位の馬龍(中国)に2-4で敗れたものの、3位決定戦ではブラディミル・サムソノフ(ベラルーシ)に4-1で勝利し、オリンピックシングルスで男女通じて日本人初のメダル(銅メダル)を獲得した。
また男子団体においても水谷は、ドイツとの準決勝で過去1勝15敗のティモ・ボルに3-0で勝利、中国との決勝で過去0勝12敗の許昕に3-2で勝利するなどの快進撃を見せ、男子団体に初の銀メダルをもたらした。
団体戦全勝であった。
リオオリンピックを最後に邱建新との契約が満了。
2017年の全日本卓球選手権決勝では吉村和弘を4-1で退け、4年連続9回目の優勝を決めた。
通算優勝回数9回は単独で史上最多となった。
3月1日より木下グループ所属となる。
2016-17年シーズン所属するオレンブルクはヨーロッパチャンピオンズリーグで優勝、またマレーシアでスタートしたプロリーグ「アジア太平洋リーグ」に参戦。
シングルス3位、チーム戦2位の成績を残した。
2018年の全日本選手権では張本智和に2-4で敗れての5年連続10回目の優勝を逃す。
2018チームワールドカップ男子団体は欧州チュンピオンズリーグの予定に合わせる形で不参加となった。
同年より開始される日本卓球プロリーグTリーグ (卓球)の「木下マイスター東京」に加入することが決まった。
全日本選手権男子ダブルスでは大島裕哉とのペアで挑み、史上最多タイ自身7回優勝の結果を残した。
2019年の全日本選手権で大島祐哉を4-2で下し、2年ぶり10度目の優勝で、最多優勝記録を更新した。
史上最多記録13年連続決勝進出。
これ以降、水谷は試合の際に広告板の光などで視界が遮られボールが見えなくなることが気になっていたことからサングラスをかけることがしばしばある。
Tリーグでは初代王者に輝き、初代MVPに選ばれた。
2020東京五輪での引退を明言した水谷は、2019年は最後の世界卓球個人戦となったが、前年の世界卓球で敗れた宿敵韓国のチョン・ヨンシクにフルゲームの死闘の末敗れ、自身の目標だと語っていた世界卓球シングルスのメダルを獲得することなくベスト32でこの大舞台を去った。
出場予定だった2019年のワールドカップ(団体戦)を、腰の負傷のため出場を見送った。
東京オリンピックシングルスは肩の古傷、腰の悪化、目の異常事態、国際大会側のミスなど不運が続き4大会連続オリンピックシングルス出場を逃した。
東京オリンピックでは団体戦、混合ダブルスに出場を内定している。
4大会連続オリンピック出場を内定している。
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