新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
重くて力強いスイングができれば一番良いわけだ。
野球をやめる時、故障でやめたわけじゃない。ゴルフやりたくて自分から「やめさせてくれ」っていったんだよね。球団としては高い契約金払って3年でやめられて…3年たって、高卒でしょう、だから21。21で五体満足でしょう。これから期待をかけようっていう時に、ボクのわがままでやめたわけですよ。
やっぱり自分で思ったようなゴルフができてくるとね笑顔も出てくるし、前向きになれるし。
刻んで正確にピンに絡ませるんだったら、日本でドライバーは一切、使わないよ。OBを続けて3発も同じところへ打って批判も受けたけど、逃げることなく最初の意図のボールで攻めたいからね。復習しているのよ。逃げて勝っても面白くないからね。堂々と王者の勝ち方をしたいと思っている。
生き残れない人間というのは運がない。
力をつけるより柔軟性を磨け。飛ばしたくて肩や腕の筋肉をつけても、それによって柔軟性が失われるようでは逆効果でしかない。強い部分に頼り過ぎるとバランスが崩れる。
俺は何に対しても縛られたくないんだ。
闘志があったと思う。これが長嶋(茂雄)さんがよくいう「プラス志向性」なんだよね。いい方、いい方に解釈していくと、それがプラスアルファーのエネルギーを生んでいくという考え方だね。そういう志向性が強かった。またそうやって勝ってきたから、自分が上なんだって見えるわけ。
自分の場合は最後の最後まで生き残り大作戦を考えているわけよ。
ニクラスとかワトソンが目指しているスウィングってのは、いかなるコースでも、自分がこのスウィングをすれば、体でね(ボディスウィングで)クラブをスクェアに振ることによって、いつでも自分が要求する球が打てる。手先でコントロールした球じゃなくて、体でコントロールした球が打てるということだと思う。
常に一つの円として人生を考えるわけだな。
日本人ってのはハングリー、イコール金にあてはめすぎるんだよね。その辺一番イヤなんだなあ。やっぱりね、自分とゴルフだけなんです。ハングリーさっていうのは、技術的な追求、精神的な追求欲であって、それがなくなればハングリーじゃない。それだけだよね。
自分はダラける人間ってわかっているから一生懸命やるんですよ。
気持ちがなければ勝負なんてやめればいいんでね。ボクらってのは、一種のお互いの内争社会じゃないかな。だから相手がいいからといって拍手なんてしてられないと思う、ほんとうに。青木選手はいい、中嶋選手はいい、なんて絶対思わないですよ、ボクは。あんちきしょう、って思うよ、そりゃ。それ思わなくなったら、もうゴルフやめてますね。
年齢が上がってくると、刺激がなくなってくるんだよ。自分ひとりでやっていると、なんとなく妥協してしまうところがある。若い連中と一緒にやると刺激になっていい。
ボクらが2メートル入れる確率と、青木さんが4メートルを入れる確率はだいたい同じだからね。これはドライバーにすれば倍も真っすぐ飛ばさないと対等にいけないといってもいい。そこで非常に技術的なものが要求されるわけです。人より正確に遠くに飛ばして、人よりピンに近く寄せる。これですよ、ボクがしようとしているのは。そうしないと絶対にたちうちできないですもの。人より20メートル遠くにしかも正確に飛ばす。これはとても技術がいると思う。
一度プロの世界から足を洗って、次のプロの世界に飛び込んだ人間は、やめたときの恥ずかしさと、やれた喜びを知っている。
例えば悩みがあるとするでしょ、そのうちひとつでもふたつでも「これは悩まなくていいよ」っていってもらえればそれでいいんだよ。
ゴルフは心・技・体ではなく、体・技・心の順なのだ。
天才型の人間っていうのは上昇していった過程を知らないんだよね。知らないから、これはこうなんだよって自分のまわりに冷静に判断していってくれる人が必要なんだ…。ところがボクの場合はなんでも自分で「開発」していこうとするわけね。しすぎるかもしれないね。でも、しょうがないですわ。自分がそういう形になってしまっているから(笑)。
日本のプロがアメリカで活躍できる場ってなかったんだよ。だから、アメリカ人が日本に来た時なんか、余計に闘志が出たね。
100を切るのに趣味を捨てた。90を切るのに友達を捨てた。80を切るのに家族を捨てた。70を切ったらすべてが返ってきた。
歳を重ねても、夢、意欲は歳を取らない。
行動の問題になると思うんだよね。いくら本を読み、設計図を作っても体を動かさないと家は建たないでしょう。そこで何をするかといえば、まず土台。けれども例えばリフレッシュしようとして、ただ壁を塗りかえることはできるんですよ。これは確かにある時期うまくいくかもしれない。ボクだってここまで真剣にならないで、表面的に赤チンをつけてある程度の効果を出そうと思えば出来ますよ。しかし、ボクはそれじゃイヤなんだ。いままでやってきた人間がこうなって再び這い上がるためには、なにかしなくちゃならない。
武士の試合は「死に合う」って言って試合って言うんだよな。
ゴルフに焦っている汗と、夢に向かって進んでいく汗とは違うからな。
クラブ、ボールっていうのは魂を入れなきゃいけないからね。魂を入れるということは一つの祈りだから。祈りっていうのは一番大事な所だね。
殿堂入り?おれにはまだ早いだろ。
上手いゴルファーより強いゴルファーになれ。
人に負けるっていう時点で自分のゴルフは前に進めない。
ジャンボ尾崎。
正式名、尾崎正司。
1947年生まれ、徳島県海部郡宍喰町(現・海陽町)出身。
徳島県立海南高等学校では野球部に所属、1964年投手として春の選抜に出場。
順調に勝ち進み決勝に進出、尾道商のエース小川邦和に投げ勝ち、初出場初優勝を飾る。
同年夏の甲子園予選でも南四国大会準決勝に進むが、有藤通世のいた高知高に延長12回敗退。
1965年に西鉄ライオンズへ入団。
1年目から一軍に上がり、9月には初先発を果たす。
しかしその後は伸び悩み、同期で入団した池永正明の投球を見て「こんなピッチャーがいたんじゃ、俺なんかピッチャーで飯が食える訳が無い」と1967年に外野手に転向する。
二軍で四番打者として活躍、一軍でも8試合に左翼手、六番打者として先発出場するが結果を残せなかった。
1967年12月23日に監督の中西太に退団を申し出る。
期待した選手が僅か3年で退団の意向を明らかにしたため、球団社長は越年で慰留。
打撃コーチの花井悠にゴルフへの転向を勧められてプロゴルファーへ転向を決意する。
1970年4月にプロテスト合格して正式にプロゴルファーへ転向し、本名の「正司」から「将司」へ改名した。
プロゴルフ転向後は1971年に日本プロゴルフ選手権で初優勝。
この初優勝を皮切りにわずか3カ月で5勝。
ツアー制が始まった73年は「関東プロ」など5勝を挙げて初代賞金王に輝いた。
2度目のマスターズ・トーナメントで東洋人で初めて8位入賞。
1974年日本オープンゴルフ選手権で優勝、同世代の青木功、中嶋常幸らとともに「AON」時代と呼ばれるほどに日本のゴルフ界で活躍。
弟のジェット健夫、ジョー直道らとともにジャンボ軍団として若年層を育成。
青木や中島に比して世界挑戦の意欲に乏しいとも評されたが、マスターズ・トーナメントに日本ツアー賞金ランキング1位で招待されて通算18回出場し、自己最高成績は1973年に1オーバー、289打で8位入賞。
全米オープンは1989年に6位入賞する。
1995年マスターズの第3ラウンドで、当時19歳のアマチュア選手タイガー・ウッズと共にプレーした。
1996年11月17日にダンロップ・フェニックス選手権を3連覇してプロ通算100勝利となる。
1999年からメジャー大会や世界ゴルフ選手権などの出場資格に「世界ゴルフランキング50位以内」が加えられ、4大メジャーで唯一招待試合であったマスターズに日本人で初めて世界ランキングで出場する。
2002年の全日空オープンで、ツアー制度を1973年に施行して以来最年長の55歳で優勝した。
2006年オフシーズン中の12月14日に、坐骨神経痛と腰椎分離症を手術した。
2016年3月、日本ゴルフツアー機構特別顧問に就任する。
2017年、ISPSとヤーマン&ストゥービのアンバサダーとしてスポンサー契約を結んだ。
2018年8月、NPO法人JUMBOスポーツ・ソリューションを設立し、相談役に就任する。
近年は若手選手育成にも熱心に取り組んでおり、弟子には女子プロゴルファーの原英莉花、西郷真央、笹生優花などがいる。
プロ通算113(うちツアー94勝)にまで伸ばし、通算12度の賞金王に輝いた。
8打差逆転が4度もあるなど何度も奇跡的なプレーを実現してきた。
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