新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
猪木さんの本を読み、『頑張ればできる』『思えばかなう』という言葉にしびれた俺は、まさにその言葉を現実のものとした。
リスクは考えないことはないけど、負けるときは負けるじゃん?勝ったら儲けもんだよって。楽観視というか、出て暴れることに意義があるって思ってたから。
キックとか関節技とかしか使わないと思われてる。昔、藤原(喜明)さんの下で闘い、新日本プロレスで藤原さんの下で、自分たちの技術を高め合うためにやったのが、UWFのルールなんですよ。その中のルールでしかない。ただ、対外的に闘うときに、あのルールを守って闘うわけじゃない。バットがあれば、バットで殴るし、有刺鉄線があれば、有刺鉄線を使う。やりゃいいんだよ。
彼ら(三沢光晴・小橋健太)がいわゆる王道であったからこそ、俺はそこじゃなくて違う道だな、と思うことができた。
考えてみれば、これまでUインターでデビューし、新日本プロレス、WAR、東京プロレス、全日本、ノア、ZERO-ONEと、そしてPRIDEにも出ているのだから、ここまであらゆる場所を渡り歩いているヤツはほかにいないだろう。俺はどの場所でも、それなりのインパクトを残してきた。しかし、子どもの頃に病弱だった俺が、まさかここまで来れるとは、自分でも多少の驚きである。
試合は、ひと言で言えば、ノーガードのぶん殴り合い。お互い相手の首を左腕で押さえて、右腕でぶん殴る。あのシーンが拍手喝采を浴びたわけだが、確かにあとでビデオを見て、自分でも笑ってしまった。なんじゃこりゃ、すげえことやってるじゃん、といった感じで大笑いした。
これからのレスラーは何でもできる人間じゃないとダメだよね。あれはできるけど、これはできないなんて言ってたら、必要とされなくなるし、自分のやりたいことなんてできない。できないなら会社の言いなりになって奴隷になってでもしがみつくしかないんだよ。でも何でもできるレスラーなら、みんなから求められるから、会社の言いなりになる必要がない。会社の奴隷になりたくなかったら、何でもできるレスラーにならないといけない。
俺は三沢さんと闘うことで、「これがプロレスなんだ」って思った。
最初は高田さんが口をきいてくれなかった。ずーっと練習して、雑用やって、何ヵ月かしてようやく口をきいてくれて。そのとき『俺がなんでおまえと口きかなかったかわかるか? おまえが本気でやるつもりがあるのか試したんだ。いま俺は、おまえががんばってるのを認めたから、おまえを俺の付き人にする』って言ってくれたんです。
みんながジメジメしたら小橋建太が戦えなくなるから、明るく希望を持って、彼の帰りを待とう。小橋建太のために戦うとか、そういう大それたことは言えないけど、俺は全力で戦って、武道館後もリングに生き残るから、小橋建太、必ず戻って来い。
俺は脳梗塞を克服して戻ってきた。ここでお前が癌に負けるようなことがあれば、プロレスラーとしてお前は俺に負けたことになるぞ。それが嫌だったら、何年かかっても絶対に戻って来い。
サラリーマン時代の仲間とかなのかな、応援してくれる人が凄いいたよね。『高山、がんばれ!』って。そういう声援がもらえる選手だったんだよ。そりゃ同僚だってさ、一度は挫折した男がもう1回夢に向かってがんばって、それで第1試合に出てたら応援したくなるよね。
会えて嬉しいです。自分で勝手に・・・ドンさんは自分の誇りだと。チャンピオンのチャンピオンなので。勝ったのはあなただから。
僕をロッキー・バルボアにした試合(“王者”への挑戦者が欠場、代理選手が脚光を浴びる)。こないだドンとの試合をパネルにして抱いた。あのときの試合を忘れないように。
喘息があったからこそ、体を鍛えなければいけない。喘息だったからプロレスのチャンピオンになれた。
最初は死んじゃったほうがよかったと思ったけど、その考えはすぐにあらためた。だって俺たちプロレスラーは馬鹿だから。馬鹿だけど地獄のような経験をしてきた人間の持つ強さっていうものがあるはずなんだよね。
プロレスでも、いろいろなことに挑戦してきて、やりつくした感じがあるんですけど、そういう意味で、新しいものに挑戦したいという思いはあります。カッコよく言うと、“挑戦しないと終っちゃいますから”。終わってしまったら、やることがなくなってしまうので、これからも新しいものをどんどん見つけていきたいです。
高山善廣。
1966年生まれ、東京都墨田区出身。
物心ついた時には既に喘息を患っており、幼稚園入園前には小児喘息と診断された。幼少時、眠れない夜には母親が毎晩背中をさすっていた。
東海大学付属相模高等学校、東海大学文学部文明学科卒業。
高校時代にはラグビー部に、大学時代はアメリカンフットボール部に所属していた。
湘南でライフガードのアルバイトをしていた、元ライフセイバーでもある。
大学時代、20才の時に休学して、第1次UWFの入団テストを受け合格、入門するも、ラグビー時代に負った肩のケガが再発したことを言い出せず、一ヶ月足らずで逃げ出してしまう。
その後、前述のライフガードのアルバイト中に、UWFの先輩である宮戸優光と偶然再会し、交流を続けていたが、当時の新生UWFブームの時は、客席から寂しく眺めるだけだった。
大学卒業後、フジサンケイグループで営業マンをやっていたが、プロレスラーの夢を捨てられず悩んでいたところ、宮戸に声を掛けられ旗揚げ間も無いUWFインターナショナルに再入門。
1992年6月、金原弘光戦でデビュー。
1995年10月9日に始まったUインターvs新日本プロレスの対抗戦の流れから、安生洋二、山本健一(現:山本喧一)と「ゴールデン・カップス」を結成。
8月17日、Uインター神宮球場大会で行われたバーリトゥード戦でキモと対戦し、チョークスリーパーで一本負け。9月11日、Uインター神宮球場大会で全日本プロレスの川田利明との対戦が実現するも、ジャンピング・ハイキックで敗れる。12月のUインター解散後、Uインター関係者が立ち上げた受け皿団体のキングダムに移籍する。
1997年3月、前年に敗れた川田利明を追い、フリーランスとして全日本プロレスに参戦。ゲーリー・オブライトと組んで、メインイベントで川田、田上明組の世界タッグに挑戦するも敗れる。
小児期からの喘息は一時症状が収まり、プロレスラーとなってから3年から4年は発作も出ずに順調だったか、団体移籍などに伴うスタイルの変化などのストレスが一因となり喘息を再発。その後は吸入薬により症状をコントロールしている。ただ、その体格から喘息を信じてもらえずに驚かれることも多く、肺活量もあまりない。
喘息を持つファンから、「喘息を持つ高山選手が頑張っているのを見て、自分も頑張ろうと思った」という手紙が寄せられたこともある。
1999年5月、後追いで参戦していた垣原賢人と共に、全日本プロレスの正式所属選手となる。
大森隆男・浅子覚と「NO FEAR」を結成。
史上初となる世界タッグ王座とアジアタッグ王座の同時制覇を成し遂げる。
2000年、三沢光晴らと共に全日本プロレスを脱退し、プロレスリング・ノア旗揚げに参加。
2001年、PRIDE参戦を機に再びフリーランスとなり、個人事務所「高山堂」を立ち上げる。
フリーとしての高山は、継続参戦するノアを中心に、新日本プロレスやその他団体、PRIDEなど総合格闘技にも参戦した。
6月23日のPRIDE.21で、ドン・フライとお互いが相手の首に手をかけて避けずに殴り合う壮絶な戦いを繰り広げ、顔が変形するほどの凄惨な試合となり、最後は上からのマウントパンチの連打を喰らいTKO負け。
本来、フライの対戦相手はマーク・コールマンだったが負傷欠場し、高山へのオファーは試合の10日前という緊急参戦であった。
2002年9月7日、小川良成を破りGHCヘビー級王座を奪取。高山自身初のシングルタイトルとなった。
新日本プロレスにおいて、2003年にIWGPヘビー級王座を獲得。
その後鈴木みのると「外敵タッグ」を結成。鈴木とのタッグチームは2008年の健介オフィスでの秋山準・佐々木健介組に敗れるまで無敗であった。
2004年2月1日、北海道立総合体育センターで鈴木と組み、天山広吉・西村修組からIWGPタッグ王座を奪取する。3大メジャー団体のタッグ王座を制覇したのは、ベイダーに続き2人目。
8月8日、G1 CLIMAX・大阪府立体育会館での佐々木健介戦後、脳梗塞で倒れ長期戦線離脱となった。
突然、右手の自由が利かなくなり、リング上で受け取った勝利者賞の目録を落とした。その後、控え室に戻ろうとしたが、今度はドアノブを扱えず、立ち眩みで倒れてしまう。周りにいたレスラーや関係者が異変に気付き、救急車を呼び、高山は富永病院へ搬送された。富永病院は大阪府立体育会館のすぐ近くにあり、脳神経治療では国内トップレベルで知られていた。病院に運ばれた高山に即カテーテル手術が施された。
リハビリやタレント活動を経て、2006年7月16日、ノア日本武道館大会で復帰戦。
2006年12月26日、ハッスル・ハウスに、鈴木みのると組み電撃参戦。12月27日ZERO1-MAXに登場し、かつての盟友・大森を襲撃。
2007年12月2日、ノア日本武道館大会で小橋建太と初タッグを結成し、三沢・秋山組と対戦。
2008年10月、プロレス・エキスポ初日に参戦。ドン・フライと初タッグを結成した。
2009年3月14日、全日本両国国技館大会でグレート・ムタから三冠ヘビー級王座を奪取し、日本国内3大メジャー団体のヘビー級シングル&タッグタイトルを制覇した。
2010年1月4日、6年前に対戦した中邑真輔のIWGPヘビー級王座に挑戦し、ボマイェで敗れた。7月10日、GHCヘビー級王者の杉浦貴のGHCベルトに挑戦、頭から血を出しながら奮戦するもオリンピック予選スラムで轟沈する。9月18日、佐野巧真とタッグを組み、バイソン・スミス・齋藤彰俊組のGHCタッグチャンピオン王座に挑戦し、ベルト奪取に成功する。
2011年1月4日、杉浦とタッグを組んで岡田・後藤洋央紀組と対戦。エベレストジャーマンで岡田からフォールを奪った。6月18日、新日本のBAD INTENTIONSを相手として、IWGPタッグ・GHCタッグを賭けたダブルタイトル戦に敗れ、GHC王座から陥落した。同月31日、NOAHのリングで2度目のGHCタッグ防衛に成功したBAD INTENTIONSにNO MERCYのKENTAと共に挑戦表明をする。
2012年1月4日の新日本東京ドーム大会にて、新日本のリングで因縁が深まっていた真壁刀義とシングルで激突。2月12日、「鈴木軍」のメンバーとして新日本正規軍を相手に5人タッグイリミネーションマッチを行い、快勝する。6月3日、ノア名古屋国際会議場大会で右肩鎖関節脱臼し、6月30日にノア後楽園ホール大会で予定されていた「髙山善廣デビュー20周年記念試合」は中止となった。
2015年3月28日、ノアで猛威を振るい暴走する鈴木軍に判批し、盟友であった鈴木みのるに張り手をかまし決別、ノアとの共闘を宣言した。2015年7月19日、ノア旗揚げ15周年記念後楽園ホール大会に出場し、鈴木みのるの持つGHCヘビー級王座に挑戦。鈴木のパイプ椅子攻撃で大流血し、鈴木軍の乱入もあって敗戦した。
2016年8月、DDTプロレスリングへの定期参戦が発表される。
2017年5月4日、DDT豊中大会にてヤス・ウラノに前方回転エビ固めをかける際に頭部を強打した。
試合はウラノのTKO勝ちとなり、高山は大阪市内の病院に搬送された。
翌日の検査の結果、頸髄損傷および変形性頚椎症という診断が下り、病院で手術を受けることとなった。
手術後は自力呼吸が出来ず、心臓停止のトラブルも発生していた。
その後に自力呼吸が出来るようになり、ICU(集中治療室)からHCU(準集中治療室)に移り、8月中旬に関東の病院に転院したという。
肩から下の感覚が戻っておらず、医師からは「回復の見込みは現状ない」と言われたことが明らかにされた。
以降長期欠場中。
「TAKAYAMANIA」の旗振り役に名乗りを上げた鈴木みのるは「偽善者」「カネ集め」と誹謗中傷に苦しむことがあったが「でも、俺はそんなの関係なく、友達のために活動を続けているだけだから」と受け入れており、さらに「自分のひとつのライフワークになるのかなと思ってるんで。数年で解決することじゃないのはわかってるから、これからもあいつが戻ってくるまで、10年後も20年後もやるつもりだよ」と決意の程を示した。
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