新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
年齢的に最後のチャンス。親父のためにも行きたいし、ガキの頃からの夢。総合やりながらも頭のどこかでオリンピックが消えなかった。今挑戦しないと絶対後悔する。人生一度しかないから。あとはやっぱり親父を喜ばせてあげたいな。
人に刺激を与える選手。俺も刺激を受けた選手がいるし。見てて自分も強くなった気分にさせてくれるような選手になりたい。
誰も「やれ」とは言わない。そのかわり、やらなければ誰にも相手にされない。
日本は妊婦に厳しいというか優しくない。電車で見てても気付いてもシカト。軟弱な男が多すぎ。
小さい頃からオヤジに360度の動きはずっと言われてた。立ち止まったら、行きたいときに同じ方向にしか行けない。円を描いたら360度どこからでもチャンスを狙える。
オリンピックとかアマチュアレスリングで上バンバン行っちゃってる人っていうのは、申し訳ないけど違う生き物なんですよ。違う人間なんです。凄い尊敬してる。
今までは総合格闘技のメジャー団体で俺に合う階級がなかったから仕方なく中量級(70kg級)で戦ってきた。でも、これからは俺が軽量級を世間に広める。
泣きますよ。悔しいじゃないですか。俺感情はむき出しにする方だから、悔しかったら泣きます。それがないと。大人になっても悔しくて泣くときありますけどね。
犬と接するときは人間に置き換えて考えてみたりしますね。それから、犬に怒ったことはありません。それも、自分が怒られるのは嫌いだから(笑)。怒りのエネルギーってものすごく大きいじゃないですか。上から押さえつけたら、その分同じエネルギーで反発される。自分に返ってくるでしょ。反抗して逆効果だったり、人間と同じですよ。例えば、何で落ち着きがないんだろうと考え、安心できる状況を作って誘導するようにしています。それでも怒ってしまいそうなときは、自分の試練と思って堪える(笑)。カッとなる気持ちをグッとこらえて深呼吸。で、犬がいうこと聞いてくれたらすごく嬉しいですよ。
ちょっと日本のみんな、景気良くないし俺が盛り上げたいから、魔裟斗くん、二人で試合でもして日本を盛り上げましょう。試合終わったら渋谷でも行って二人で飲もうよ。
最近男のファンも増えてきた。野郎が「愛してます!」とか。でも超嬉しい。やっぱ男のハート掴むのが一番嬉しい。
日本人が強いって証明するのは、総合格闘技が手っ取り早いから。ちゃんとドップリ練習できる環境になれば、みんな絶対、勝てる。何人が来ようが関係ねぇ。
K-1に出る総合の選手ということで、俺が噛ませ犬扱いされてたことは知っていた。でも噛ませ犬がいきなり勝ったら盛り上がるじゃないですか。みんなブチ上がんだろうなって(笑) 面白いの見せて盛り上げてやるよって。
みんなで応援してバックアップして欲しい、もっと面白い選手がでてくるし、日本人がトップに行ってベルト巻いて、みんなが日本強えなと思える時代が来るから。
自分らでやるしかない、国民でバックアップしてくれたら絶対負けない、日本代表でタイマンしに海外に行ってるんだから皆んな応援して欲しい。
俺の親父が厳しかったから。子供に厳しい教育はいいと思う。でも厳しくしても、逃げ場がないとダメだと思う。多分(母は)俺にとって逃げ場だったと思う。
素直にいいものはいいって、つい口に出てしまうんだよね。素直な方が人は強くなれる。
俺より体重が20kg重い奴とでも戦う。体重差なんて関係ねえ!
格闘の神様の子供、俺は。神の子。
勝てる自信はある。何で自信あるか?えー、俺だから。
途中でやめるなんて絶対ありえない。
強くなるために必要なのは、基本を繰り返す努力。
小さい俺が大きい奴等を倒すことで強さを証明する 体格の言い訳なんてしない。それを承知で試合に出てるから。
練習で泣いて試合で笑えれば最高です。
流した汗は嘘をつかない。脂肪を燃焼させて体を絞り込めば、心の脂肪も消えていく。
本当の力は生まれ持ったものではなく、自分で頑張って手に入れるものだ。
山本KID。
戸籍名:岡部 徳郁(旧姓:山本)。
1977年生まれ、神奈川県川崎市出身。
ミュンヘンオリンピックレスリング・グレコローマン日本代表だった山本郁榮を父親に持ち、姉・美憂、妹・聖子はレスリング世界選手権を制覇している。
同じくレスリング選手・総合格闘家の山本アーセンは甥。
その他スポーツで著名な活躍をしている親族としてプロ野球選手のダルビッシュ有は義理の弟(聖子の夫)、祖父は水泳のオリンピック選手だったと自身のブログで写真付きで公開している。
動物好きで知られ、殺処分される予定であった犬を引き取り「カッシー」と名付け、家族の一員として迎えている。
幼い頃よりレスリング(フリースタイル)で活動。
高校時代は単身でアメリカにレスリング修行、アリゾナ州の王者に3度輝いた。
大学では日本に帰国、全日本学生レスリング選手権大会優勝(フリースタイル58kg級)など数多くの実績を残した。
シドニーオリンピック出場を目指していたが、1999年の全日本レスリング選手権大会(同級)で惜しくも準優勝。
オリンピック出場への道が絶望的になったのと同時期に姉・美憂の夫(当時)であるエンセン井上に師事して総合格闘技に転向。
姉から総合格闘技のビデオを見せられたのがきっかけになったという。
2000年7月、愛知で行われたアマ修斗ワンマッチにて2RKO勝ちでアマデビュー。
同年9月第7回全日本アマチュア修斗選手権大会ライト級(-63kg)で優勝。
翌2001年にプロデビューし修斗で世界ライト級ランク2位まで登り詰めた。
2002年9月16日、プロフェッショナル修斗公式戦で勝田哲夫と対戦。
試合前に勝田がKIDに対して「彼はレスリングの実績があるけど、総合におけるレスリングってものを俺が教えてあげますよ」と挑発したことに対してKIDは不快感を露にしていた。
試合ではKIDがパウンドの連打で勝田をKOしたが、レフェリーストップがかかったにもかかわらずレフェリーの制止を無視して舌を出して笑顔で勝田を殴り続けたため120日間のライセンス停止処分を受けた。
2003年12月14日、修斗世界ライト級(-65kg)チャンピオンシップで王者アレッシャンドリ・フランカ・ノゲイラに挑戦予定であったが、練習中に右手人差指を骨折し、全治2か月となり欠場した。
2004年2月24日、K-1初参戦となった「K-1 WORLD MAX 2004 〜日本代表決定トーナメント〜」1回戦で村浜武洋と対戦。
村浜を相手にK-1ルール初挑戦ながら圧倒的なスピードとパンチ力を発揮、ノーガードで村浜のパンチを避け、ダウンを奪った後も追撃する2RKO勝利。
だが、試合前から負傷していた右手第二中指骨を骨折し、準決勝を棄権した。
その後トニー・バレント、安廣一哉、ジャダンバ・ナラントンガラグを総合ルール(安廣のみミックスルール)にて一本・KO勝ち。
そしてナラントンガラグ戦後、リング上からマイクで魔裟斗に対戦を要求。
魔裟斗もこれを受け、2004年12月31日のK-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で対戦。
1Rに魔裟斗からダウンを奪った直後、金的を貰いダウン。
リプレイが流れた会場では悲鳴が上がるほどのダメージを受け、実況席からも続行は無理と言われる程であった。
また、完全に視線が下にいっている魔裟斗のリプレイ映像を見て解説の船木誠勝が故意であることを匂わせる発言をした。
インターバルの後に試合は再開されたものの、精彩を欠いたKIDは2Rにダウンを取り返され、判定負け。
2005年3月3日のHERO’S旗揚げ発表会見に出席し、HERO’S参戦が発表されるも、怪我のため、3月26日のHERO’S旗揚げ戦は欠場となった。
2005年5月4日、K-1 WORLD MAX 2005のスーパーファイトにてK-1ルールで出場。
しかしマイク・ザンビディスと対戦し、右フックでキャリア初のKO負けを喫した。
2005年7月6日、HERO’S 2005のスーパーファイトでイアン・シャファーと対戦し、TKO勝ち。
2005年9月7日、HERO’S 2005ミドル級(-70kg)世界最強王者決定トーナメント準々決勝でホイラー・グレイシーと対戦し、右フックで失神KO勝ち、準決勝では宇野薫をパンチで出血させ、ドクターストップでTKO勝ち。
2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!にてトーナメント決勝戦を須藤元気と対戦し、右フックのダウンからパウンドの連打で1RKO勝ちを収めトーナメント優勝を果たし、キャリア初のベルト戴冠となった。
この試合の決着場面において「レフェリーストップが早かったのでは?」という指摘が須藤とファンから挙がったが、後日にTBSで放送された格闘王で、レフェリーストップ直後に立ち上がった須藤の脳が揺れて足元がふらついてコーナーまでよろめいている映像が放送され、事なきを得た。
須藤も後に「ストップされた時は、(ダメージがあったため)あまり覚えていない」と語っている。
2006年2月17日、修斗代々木大会に出場した同門の菊地昭の試合後にドクターチェック中であった中山健児リングドクターに対し暴言を吐いた上、足先で臀部を小突いた。
事態を重く見た日本修斗協会は2月21日、山本に修斗全公式戦会場立入禁止、山本が代表を務めるKILLER BEE(現・KRAZY BEE)所属全選手および関係者へ修斗全公式戦出場停止処分を下した。
翌2月22日にKIDが中山リングドクターに謝罪し和解したが、3月6日付けでインターナショナル修斗コミッション(ISC)よりKIDへの無期限ライセンス不許可処分およびKILLER BEEへの厳重注意処分を受けた。
10月12日にKIDがISCおよび日本修斗協会に謝罪し、10月13日付けで無期限ライセンス不許可処分が解除された。
2006年5月3日、HERO’Sで宮田和幸と対戦し、開始4秒の左跳び膝蹴り一発で失神KO勝ち。
この膝蹴りで宮田は下顎骨を骨折する重傷を負った。
2006年7月23日、レスリングに復帰し、2008年の北京オリンピック出場を目指すことを宣言。
プロ格闘家活動を一時休止する。
2006年12月、スポーツ用品ブランド「リーボック」とのパートナー契約を締結。
2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!で総合格闘技のリングに一時復帰。
アテネオリンピックレスリング・グレコローマン55kg級金メダリストのイストバン・マヨロシュと対戦し、首相撲からの膝蹴りでKO勝ち。
2007年1月28日、天皇杯平成18年度全日本レスリング選手権フリースタイル60kg級2回戦でアテネオリンピック銅メダルの井上謙二(自衛隊)の巻投げで右肘を脱臼、試合開始16秒でフォール負けを喫した。
2007年6月、北京オリンピック出場に望みをかけレスリング明治乳業杯全日本選抜選手権に出場を予定していたが、肘の脱臼が完治せず、練習も満足に出来ていないため出場を取りやめた。
2007年9月17日、総合格闘技復帰戦となったHERO’S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント決勝戦でビビアーノ・フェルナンデスと63kg契約で対戦。腕ひしぎ十字固めをかけられ回転して逃げるなど危ないシーンもあったが、スタンドでのローキックなどでダメージを与え、判定勝ち。試合の1週間前に左手首の豆状骨を骨折した。
2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!でハニ・ヤヒーラと61kg契約で対戦。ヤヒーラのグラウンドには付き合わずスタンドでの攻防となり、最後は左フックでKO勝ち。ヤヒーラがダウンした後の頭部へのサッカーボールキックに対してイエローカードが提示された。
2008年7月21日、DREAM.5でジョセフ・ベナビデスと対戦予定であったが、練習中に右膝前十字靭帯を断裂し、欠場となった。
同年8月1日に手術を受け、成功した。
同時に前年に骨折していた左手首の手術も受けた。この怪我以降、急激にKIDの戦績が下降していった。
2009年4月5日、DREAM.8のテレビ放送の解説を務めた。
DREAM.7から開幕したDREAMフェザー級(-63kg)グランプリでは実績を考慮されて1回戦をシードされた。
2009年5月26日、約1年5か月ぶりの復帰戦となったDREAM.9のフェザー級(-63kg)グランプリ2回戦でジョー・ウォーレンと対戦。
ムエタイ・スタイルへと変貌を遂げた打撃をヒットさせるが、グレコローマン・レスリング世界選手権優勝というKIDを上回るレスリング実績を誇るウォーレンに何度もテイクダウンを奪われてパンチを浴び判定負け。
総合格闘技ルールでの敗戦は実に7年ぶり2度目。
2009年7月13日、約4年2か月ぶりのK-1参戦となったK-1 WORLD MAX 2009 FINAL8でチョン・ジェヒと対戦し、1Rに先に有効打をヒットさせて追撃したところを右アッパー、左フックの連打を受け失神KO負け。
2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜のDREAM vs SRC 対抗戦でSRCフェザー級(-65kg)王者金原正徳と対戦。
63kg契約の試合であったがリーチ差に手を焼き、2Rには金原のパンチを受けてジェヒ戦を思い起こすようなダウンを喫したが、最終3Rに打撃で猛反撃。
試合終了直後に腕立て伏せをしてダメージの無さをアピールしたが、判定負け。
復帰後、K-1ルールを含め3連敗となった。
この試合がMMAルールで唯一、日本人選手に敗北した試合となった。
2010年5月29日、ケージ開催となったDREAM.14でキコ・ロペスと60kg契約で対戦し、KO勝ち。
2007年12月31日以来、2年5か月ぶりの勝利となった。
2011年、DREAMを離脱しUFCと契約する。
2011年2月5日、UFC初参戦となったUFC 126でデメトリアス・ジョンソンと対戦。パンチにタックルをカウンターで合わされるなど再三テイクダウンを奪われ、0-3の判定負けを喫した。
2011年5月28日のUFC 130でクリス・カリアソと対戦予定だったが、負傷により欠場した。
2011年9月24日のUFC 135でダマッシオ・ペイジと対戦予定だったが、負傷により欠場した。
2011年11月12日、UFC on FOX 1でダレン・ウエノヤマと対戦。
2Rにパンチでダウンを奪うも終始グラウンドでコントロールされ、0-3の判定負け。
UFC2連敗となった。
2012年2月26日、12年ぶりに日本で開催されたUFC 144でヴァウアン・リーと対戦。
1Rに右フックを効かせ、よろけたリーを左右フックの連打と膝で金網際まで追い詰めるも、後半にリーの右フックを受けて体勢を崩す場面を見せ、直後にタックルからのテイクダウンに持ち込むことでリーの追撃を凌ぐも、下からの三角締めから腕十字を決められタップアウト。
生涯初の一本負けで、UFC3連敗を喫した。
2013年7月21日開催のUFC 165においてアイヴァン・メンジバーとの試合が発表されるも、怪我により欠場。
また、2014年9月20日に日本で開催されるUFC Fight Night 52での復帰戦が発表されるものの、肺に肋骨が刺さる怪我によってまたも欠場となった。
UFC参戦後に頚椎ヘルニアを患っていたことを対談で明かし、一時は右手の握力がわずか8kgにまで落ちるまで症状が悪化した。
そのため、3試合を終えた後に長期休養に入る。
本人によると、骨折や靱帯断裂等の選手生命の危機を経験してきたが、それとは比較にならない程の痛みで、初めて死んだら楽になるのかなと考えたとのこと。
2015年2月28日、ロサンゼルスで開催されたUFC 184において、ローマン・サラザールと対戦。
UFC 144以来実に3年ぶりの復帰戦となったが、しかし2RにKIDの右手指がサラザールの目に入ったことで試合が一時中断。
インターバル中もサラザールの視力が回復せず、試合は無効試合となった。
これが生涯最後の公式戦となった。
2015年9月27日に開催されるUFC Fight Night: Barnett vs. Nelsonにおいてマット・ホーバーとの対戦が発表されたが、両者が負傷したため中止された。
2015年12月31日、東日本大震災チャリティーイベント『NIPPONFIGHT』において同年に現役復帰を表明した魔裟斗と11年ぶりに再戦した。
結果は2ラウンド目に左フックでダウンを奪われ0-3の判定で敗れた。
2016年6月19日に開催されるUFC Fight Night: MacDonald vs. Thompsonにおいてクリス・ビールとの対戦が予定されていたが、負傷により欠場となった。
2018年8月26日、自身のInstagramにてがんの闘病中であることを公表した。
2018年9月18日、所属ジムの公式ツイッターにより同日、41歳で死去したことが発表された。
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