新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
有名になるとサングラスをかけたり帽子をかぶって自分を隠そうとする。でも俺は隠せないんだよな。どこに居たって俺とわかってしまう。
一流のプロレスラーとは、パンツ一枚あれば、世界中何処へ行っても飯が食えるんですよ。
みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます。
モノになるレスラーはデビュー戦から何かをつかんでいるよ。そうでないレスラーは10年経っても20年経っても前座のままだ。いくらチャンスをやっても、それがチャンスであることすら気付かずに見逃してしまう。それは観客の心理をつかむ努力をしていないか、気がつかないかのどちらかだ。ただ図体がでかくて筋肉隆々としていても、それだけではプロレスラーとは言えない。
どうせやるならプロレスには負けて欲しくない。
勝つまで打ち続けることだ。
対戦相手の長所を最大限引き出せ。相手に敬意を払え。自分だけ攻撃したり、相手の技を受けなかったりの一人よがりは、結局自分の能力の可能性まで封じ込んでしまうことになる。そのためには、どんな体勢からでも完全に受け身を取れなければならない。高い所から、低い位置から。横からも斜めからも縦からも。パンチでもエルボーでもキックでも。スープレックスでも。ある時はイスや金具などの凶器攻撃からさえも。前受け身も一回転しての受け身も、横受け身も。大きい受け身も速い受け身も。あらゆる受け身に瞬時に対応できるためにも、自分が立っているリング内外のポジションを確認して、自分が受け身をとるスペースを考えて先を読んで動かなければならない。例えば真後ろにロープがあったらヒジや首が引っかかって大ケガするだろう。そんなことのないように、常にリングの広さを計算して、自分の後ろにスペースを作っておくんだ。そしてきれいで切れのある何よりも自分がケガをしない受け身をとることによって、試合の流れを作っていくんだ。プロレスとはまず受け身から。
楽しく明るいプロレス
うちのプロレスには善玉も悪玉もないよ。
プロレスを超えたものがシューティングではなく、シューティングを超えたものがプロレスなんだ。
ちょうど、巨人時代に、五メートル先のものがハッキリみえなくなって、野球生命を断たなくてはならないような大病にかかったとき、警察病院で、「馬場さん、アンマさんになりなさい」って宣告されたときの、あの感じとそっくりでしたね。先生が死んだということは、オレの身体の半分が死んだような、そんな感じのショックだったんです。 先生はスーパースターですからね。敗戦でガックリきていた日本人の、なんていうかな、復興への大きな力を与えてくれる英雄だったですね。
こんな簡単な技があるとは知らなかったよ。
本当に痛い時に全然痛くない表情をしなければいけない。
無理をしたり、作り事をやったら、それはそれだけの世界なんだ。
リング上の闘いとは、予想を裏切り、期待を裏切らないこと。これがプロレスファンの皆さんとの信頼関係。まず入場して鍛えあげた肉体を見せただけで会場のどよめきを起こす。ゴングが鳴って動き始めた瞬間、『どうしてあんなに大きなからだがあんなに俊敏に動けるのか』とのため息をつかせる。そして激しいぶつかりあい。とび散る汗。ダイナミックな空中殺法。理詰めの攻防。他人には真似のできない得意技の披露。体力の限界を超越するスタミナ。そこにこそ真実のドラマが生まれてくる。作りもののプロレスはしょせんファンの支持を得られず、見向きもされることなく、興行も長続きしない。今、ファンは何を求めているのかをリング上で表現できなければならない。時代を読み、ファンの心理を読むためには日頃からのリサーチも欠かせない。リング上の闘いに必要な情報をレスラー全員が把握しておくこと。そして自分に対する予想を裏切るような高いレベルの試合を展開すれば、ファンの期待を裏切ることなく、さらに高めていくことができる。プロレスラーはファンと会話できなければならない。それもことばではなくて肉体で表現しなければならない。試合は嘘をつかない。怠けたり意欲や気力が無い試合はすぐにお客さんに伝わる。観客との調和とはそういうことだ。
世田谷に土地を買ってあって、困ったときはそれを担保に銀行から金借りるの。40年会社経営やっていて社員の給料遅らした事は一度もないよ。
なぜプロレスの人気が落ちてきたかって?それは観る娯楽が多様化したからですよ。
(5000試合出場達成のインタビューにて、次の目標は6000試合ですか?の問いに)5000の次は5001
太陽が沈む前、やや陽が落ちてきた頃の時間が好きでねぇ。完全に陽が落ちてまわりが暗くなると俺はなぜか「もう、うちに帰ろう」という気分になるなぁ。
昔はよく飲みにも行ったんですよ。でも地元の腕っ節に自信のある奴等が楽しく飲んでいる所へ、必ずからんでくる。こちらが手を上げれないことを知っていて挑発してくる。だからホテルの中で食事を済ますことが多くなりましたね。
ロープに振られて反ってくるのは催眠術みたいなもんなんだよ。
街の喧嘩じゃあるまいし、『やりたい』『よし、やろう』でタイトルマッチができるものではない。タイトルを管理するのは団体だ。団体が認可するなら私はやろう。
昔は60歳というとずいぶん年寄りだなと思ったけど、いざ自分がなるとなんだまだやれるじゃないか(笑)
俺にとってプロレスとはって言われたって、商売です、としか言いようがない。
僕はね、アメリカにお金を稼ぎ来たんじゃない、力道山先生にいわれてアメリカに修行しに来ているんだ。
全日本プロレスは、おかげさまで、旗揚げ26年目に突入いたしました。これもひとえに、ファンの皆様の絶大なるご支援の賜物と、選手、社員一同、心より感謝申し上げます。 今年度のファン感謝デーを開催するにあたり、わたくしどもは、モットーである『明るく!楽しく!激しく!』を更に追求し、ファンの皆様の期待にお応えする所存でおります。今後ともご声援のほど、よろしくお願い申し上げます。
私はね、騙すなら騙される方になりたいんだよ。
成り行きというと無責任なイメージを持つけど、これほど強いものはないんだ。つまり自然の流れに逆らわずに正直に生きる。無理をしたり、作り事をやったら、それはそれだけの世界なんだ。
基本である1、2、3をきちんと練習しないで、いきなり4とか5をやるな。
人生はチャレンジだ。
ジャイアント馬場。
本名馬場正平。
1938年、新潟県三条市四日町に八百屋を営む父・馬場一雄、母・ミツの間に次男として生まれる。
四日町国民学校(卒業時には三条市立四日町小学校)に入学後、野球を始める。
入学までは体格は小さいほうで、入学時の集合写真でも一番小さい児童のグループに収まっていたが、3年生頃から急速に大きくなりはじめ、4・5年生の頃には既に身長が175cmほどあり、地元の少年野球団「若鮎クラブ」ではエースを務めた。
三条市立第一中学校時代には中越地区大会で優勝している。
1953年、三条実業高校(のちの新潟県央工業高校)機械科入学後、身長はさらに伸び、190cmにもなっていた。
この頃は足も尋常でない大きさになり、自分に合うスパイクがないという理由で、当初は硬式野球部入部を断念し、一旦、美術部に入部した。
その後、特注のスパイクを与えられることとなり、念願の硬式野球部に入部。
エースとしての活躍はめざましく練習試合ながらも18奪三振を記録するなどし、優勝候補の一角と目される存在になっていたが、予選で敢え無く敗退し甲子園出場は叶わなかった。
この頃、バッテリーを組んでいた捕手の誘いでプロ野球球団・トンボユニオンズの入団テストを受ける話が進んでいたが、同年10月に読売ジャイアンツのスカウト・源川英治に誘われ、高校を2年次で中退し、翌1955年1月に巨人に投手として入団する。
背番号は59。同期入団に巨人のV9時代を支えた主力選手となる森祇晶、国松彰などがいた。
2年目となる1956年には二軍で12勝1敗、翌1957年に13勝2敗の成績を収め、2年連続二軍の最優秀投手賞を受賞した。
1957年10月23日、中日戦でようやく一軍で初先発の舞台を踏む。
中日のエースのだった杉下茂との投げ合いとなり、5回まで無失点で抑えるものの敗戦する。
この試合の直後、視力の急激な低下に見舞われる。
診察の結果、「脳腫瘍」(下垂体腺腫により視神経圧迫)と判断され、同年12月23日に東京大学医学部附属病院で開頭手術を受けた。
当時の技術では成功率が非常に低く、医師から「失明する可能性が高いので、目が見えているうちにマッサージ師の勉強をしておきなさい」と勧められた程だったが、手術は無事成功。1週間で退院し、翌月には頭に包帯を巻いたままキャンプに復帰した。
1958年には目立った活躍は見せなかったが、翌1959年には3度目となる二軍の最優秀投手賞を受賞した。
しかし、馬場を評価し後ろ盾となっていた藤本英雄投手コーチが退団したこともあり、同年オフに巨人を自由契約となった。
巨人には5シーズン在籍し、1軍登板は1957年の3試合のみ、うち1試合が先発、通算成績0勝1敗防御率1.29(NPB公式記録。
1960年1月、巨人から大洋ホエールズに移籍した谷口五郎コーチの誘いで、大洋のキャンプにテスト生として参加し、採用内定を受けていた。
川崎市に転居するなど移籍準備を進めていたが、宿舎の風呂場で転倒、身体ごとガラス戸に突っ込み、左肘に17針を縫う外傷を受傷し、一時期、左手の第三指および第四指の関節が伸展出来ない状態が持続したため、プロ野球選手継続を断念した。
スポーツを続けたいという一心で、野球選手の継続を断念した後も、自宅アパートの近くにあったボクシングジム・不二拳闘ジムでトレーニングを行っていた。
1960年3月、巨人時代に面識があった力道山に会いに日本プロレスセンターを訪ねるが、力道山はブラジル遠征中のために不在であり、この際に馬場と同じく元野球選手の経歴を持つ竹下民夫からプロレス入りを薦められる。
翌4月11日、ブラジル遠征から帰国した力道山に日本プロレスへの入門を直訴。
力道山からヒンズースクワット100回を命じられるが難なくこなし、その場で入門が決まる。
修行時代に、入門が一年先輩の大木金太郎や同期の猪木と三人でヒンズースクワットを行ったときは、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説も残っている。
1960年9月30日、台東体育館にて田中米太郎とのシングル戦でデビューし、股裂きでギブアップ勝ち。
1961年には、ワールドリーグで力道山と優勝を争ったミスターX(ビル・ミラー)ら、強豪外国人レスラー連との試合が組まれ、いずれも勝利することは出来なかったものの、試合内容を評価した力道山により渡米しての武者修行を命ぜられ、同年7月、芳の里、マンモス鈴木らとアメリカに渡る。
短期間でメジャーなテリトリーにおけるメインエベンターに成長し、数々のタイトルに挑戦した。
アメリカ時代のリングネームは、ロサンゼルスではショーヘイ・ビッグ・ババ、ニューヨークではババ・ザ・ジャイアント。
とある試合で戦ったアート・トーマスのマネージャー、フレッド・アトキンスをグレート東郷が馬場の元に引き抜き、アメリカでの師匠とした。
馬場はアトキンスの元で多くを学ぶことになった。
1962年6月、シカゴにおいて、NWA世界ヘビー級王者だったバディ・ロジャースに勝利し、一旦NWA世界ヘビー級のベルトを腰に巻き、その後の連戦で防衛を果たす。
1963年2月にはロサンゼルスにて、WWA世界ヘビー級王者だったザ・デストロイヤーとタイトルマッチを行い、デストロイヤーに勝利したものの、反則勝ちであったため、規定によりタイトルは移動しなかった。
この遠征時代に馬場は、飲み屋のジュークボックスに唯一入っていた日本の楽曲だった、坂本九の『SUKIYAKI(上を向いて歩こう)』を流していたという。
後年、全日本プロレスの試合会場で、全試合終了後に同曲が流されるようになったのはこれに由来する。
第五回ワールドリーグ戦出場の外人レスラー招聘の交渉を主目的に渡米していた力道山とともに、1963年3月に凱旋帰国。
この際、新聞社がアメリカ時代のリングネームだったババ・ザ・ジャイアントをもとにジャイアント馬場と書くようになり、この名前が定着する。
馬場は、それまでの日本人レスラーにはみられなかったスケールの大きいアメリカンプロレスのスタイルで、キラー・コワルスキーやパット・オコーナーなど当時の超一流外国人レスラーと名勝負を演じ、また、師匠力道山との師弟タッグ等で活躍して、初めて正式出場したワールドリーグ戦でも好成績を残すなど、初渡米武者修行の成果をファン、マスコミに強烈にアピールし、人気を博した。
同年10月に再びアメリカに遠征。
同年12月に力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国する。
帰国の際にグレート東郷から、「力道山死後の日プロは先行きが怪しい、高額の年俸(当時の額で1億円弱)を保障するのでアメリカに定住するように」と勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。
1964年には、アメリカでNWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、WWA(フレッド・ブラッシー)の当時の三大世界タイトルに連続挑戦した。
これは世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、馬場の世界的名声の基盤を形成した。
同年4月に凱旋帰国し、翌月には豊登とのタッグで第11代アジアタッグ王座を獲得。
力道山亡き後の日プロを豊登・馬場の二枚看板で支えることになった。
1965年11月には、ディック・ザ・ブルーザーに反則勝ちし、力道山以来、エースの象徴とされたインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した。
ブルーザー相手に、1-1のドローながら初防衛も果たし、名実ともに日プロのエースとなる。
1966年2月、ルー・テーズ戦で、2フォールによる勝利でインターヘビー級王座を防衛し、馬場の実力はさらに高く評価された。
また、同年11月5日には、吉村道明とのコンビで、フリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシス組を破り、後に、日本マット界を代表する看板タッグ王座となるインターナショナル・タッグ王座を獲得している。
以後、馬場は、当時の世界の超一流強豪レスラーを相手に、インターヘビー級王座を守り抜き、力道山のインターヘビー級連続防衛記録も更新し、エースとして君臨し続ける。
ワールドリーグ戦においても通算6回の優勝を果たして力道山の記録を更新している。
馬場とともに日プロ黄金期を支えた猪木は、両者の実力の比較がファン、マスコミの間で取り沙汰されることが顕著となった1971年、ワールドリーグ戦の決勝戦中、インターヘビー級への挑戦を表明したが、時期尚早として却下された。
1966年にハワイで、豊登が猪木を「馬場がいる限り日本プロレスのエースにはなれないと」口説いて東京プロレスに引き抜く、猪木略奪事件が起こり、猪木は東京プロレスに引き抜かれるものの、短期で東京プロレスが内部分裂を起こしたため、猪木は翌1967年5月に日プロに復帰。
復帰の際には馬場と猪木は本格的にタッグを組むようになり、1967年10月にインターナショナル・タッグ王座を獲得した際にBI砲という呼称が定着した。
BI砲は当時、プロレス史上最強タッグの一つと称えられ、圧倒的な勝率を誇り、インタータッグ王者チームとして看板タッグとなった。
1972年10月に日本テレビ・三菱電機の後押しで全日本プロ・レスリング株式会社を旗揚げした。
馬場は全日本旗揚げに際して、日プロ時代に保持していたタイトルを全て返還しており、全日本旗揚げ後より、団体の看板となるシングル王座の確立のため、世界の強豪レスラー連と、全日本プロレス認定世界ヘビー級王座(後のPWFヘビー級王座)争奪戦を開始。
合計10戦において8勝0敗2引き分けの戦績により、馬場が初代王者として認定された。
馬場は、このPWFヘビー級王座を38回連続防衛を含んで長期間保持し、PWFヘビー級王座は、全日本時代の馬場の代名詞とも言うべき看板タイトルとなり、後に、インターナショナル・ヘビー級王座、UNヘビー級王座とともに、全日本三冠タイトルの一つとなった。
創立1年強の1974年1月には早くもジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、ドリー・ファンク・ジュニアとNWAの現・前・元王者を招聘し、日本陣営の馬場本人や成長著しいジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤーとの組み合わせが展開された。
全日本プロレス入門第一号で、一番弟子であるジャンボ鶴田は、馬場の期待を大きく上回る程の急成長を遂げ、馬場・鶴田の最強師弟コンビは、長年に亘ってインタータッグ王座を保持し、全日本プロレスの暮れの定番イベントとなった世界最強タッグ決定リーグ戦においても、通算2回の優勝を果たした。
1979年8月26日、日本武道館にて行われたプロレス夢のオールスター戦にて、アントニオ猪木と一夜限りでBI砲を復活させ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組と対戦し勝利した。
1979年夢のオールスター戦での猪木と組んでのブッチャー&シン戦、1980年の鶴田と組んでのファンクスとの世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦、1981年のガニアとのダブルタイトル戦、そして1982年のハンセンとのPWF防衛戦で、4年連続でプロレス大賞のベストバウト(年間最高試合)を受賞している。
1985年7月、ハンセンに敗退し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退いた後は、社長業やタレント業に比重を移しながらも義弟を自認するラッシャー木村や百田光雄とファミリー軍団を結成し、悪役商会との抗争を開始し、前座で「明るく楽しいプロレス」を展開し、最後の試合が行われた1998年12月5日までリングに上がり続けた。
アントニオ猪木率いる新日本が異種格闘技戦など斬新な企画を次々と打ち出しても、馬場は年8回のシリーズと全国巡業という型を続けていた。
生涯で通算5769試合を行った。
1995年1月、元子夫人の明石の実家が阪神・淡路大震災の被害に遭い、運転手の和田京平、専属秘書の仲田龍らと家の片付けに向かった。
関西地区の被害を目の当たりにした馬場は、ガスコンロや生活用品を買い集めた後関西地区に住んでいる全日本のファンクラブ「キングスロード」会員の名簿を取り寄せ、一軒一軒へ馬場自らが出向き、生活用品を差し入れて回ったという。
1998年には、全日本の興行で募った震災義援金を明石ロータリークラブに寄付し、その寄付金で巨人軍時代のキャンプ地でもあった兵庫県立明石公園第一野球場が在る明石公園内に『阪神淡路大震災記録碑』を建立している。
プロレス興行では大会場での試合、地方での売り興行関係なく入場口近くの売店の椅子に座り、グッズを購入したファンにサインを書いたり、記念撮影に応じてフレームに収まったりしていた。
馬場死後の全日本プロレスでは、愛用だった椅子を置いている。
1999年1月31日16時04分、入院先の東京医科大学病院において、大腸癌(上行結腸腺癌)の肝転移による肝不全のため61歳で死去。
1999年4月17日、前日(4月16日)に開催された’99 チャンピオン・カーニバル最終戦のリングが設定されたまま、日本武道館でファン葬が催され、2万8,000人が参列した。
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