新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
私が野球を始めたのは9歳のころです。クラブチームに所属するのではなく、ストリートで野球をすることから始まりました。私の出身国ベネズエラでは、貧しさのためクラブチームに所属できず、ストリートで野球をする子供たちがたくさんいるんです。私もそのような子供の一人だったんです。 しかしある時、ストリートでプレーする私の姿が地元クラブチームの監督の目にとまり、クラブチームへスカウトされました。もちろんクラブチームで野球をやってみたいとの思いはありましたが、私にはそれだけのお金がありませんでした。貧しさを理由に誘いを断ると、その監督は「お金はこちらで工面するので、お金の心配はいらないよ!」と言ってくれました。これが、私が組織というものでプレーする初めてのきっかけとなりました。
お母さんに「学校をやめて野球選手になる」と言いました。その時、お母さんは涙を流して「おまえが決めたのなら私は信じるから」と言って応援してくれたんです。もしその時お母さんが反対して、学校をやめさせてくれなかったら僕はプロ野球選手になっていなかったかもしれません。そこが自分にとってのターニングポイントでした。
お母さんが僕に野球を見にいかせてくれたし、野球を続けていくことを応援してくれました。だから、学生として最後の試合は、どうしてもお母さんに見にきて欲しかった。でも、うちは貧乏で試合会場まで見に行ける交通費がなかったんです。そこで、チームの食事係としてスクールバスに乗ることで、試合をみることを実現させました。
パ・リーグのピッチャーは全体的にボールが速い。私の感覚では、パ・リーグの先発投手の70%は150キロのスピードボールが投げられます。対するセ・リーグの先発投手陣は40%ぐらい。この差はとても大きいと考えています。
対戦投手のスピードが速ければ、打者はそのスピードボールに対応すべく対策を講じます。具体的に言えば、スイングするタイミングを早くする必要が出てきます。始動を早めて、しっかりと自分のタイミングで投手と向き合う。こうした切磋琢磨の影響によって、パワー対パワーの対決が日々、繰り広げられ、打者の能力も大きく向上します。
しっかりとしたアイデアを持ってプレーする事が大事です。例えばバッターの場合、ただ来た球を打つのではなく、こういう球がきたらこう打とうとか、しっかりとしたアイデア、プランをあらかじめイメージして、プレーする事が大事です。
元打者として言うと、内角球を打つのは実に難しい。仮に次のボールが内角に来るとわかっていても容易ではないのだ。これに加え、投手がなかなか内角攻めをしてこないとなれば、いつまで経っても内角球を打ち返す力は育ってこない。
新しい挑戦というか、野球だけにとらわれることなく、いろいろなことをやっていきたいと思っているんです。
自分のことを他の監督より優れているとはまったく思わなかったが、データを分析した量は他の監督より多かったかもしれない。それをベースに決断をしてきたし、また野球というのは生きているモノなので、前例のない判断を迫られるときには数字よりもフィーリングを重視することもある。もちろん批判されることは理解していたし、上手くいかないこともありました。ただ自分のなかでは勝つためのベストな決断をしてきたと自信を持って言えます。
10連敗は長い。どんな監督であれ、相当のストレスを抱え込むことになる。あの試合が終わった時、心の中は勝ったうれしさでいっぱいだったが、同時に、溜め込んできたストレスが湧き上がってきて、それが一粒か二粒の涙になって溢れたかもしれない。監督という職業のストレスレベルは、外の人にはなかなか理解してもらえないと思う。チームを信じ、『こんなものではない』『もっとできるはずだ』と考えて、常に勝利を目指している。しかし、連敗が長く続くと、『これをやってもうまくいかない』『あれをやってもうまくいかない』という思いに囚われる。ポジティブな姿勢を貫こうとはしつつも、やはり人間なので、メンタルにひびが入ることはどうしてもある。
もしパ・リーグの選手だったら、私はDHとして打撃専門の選手になっていたと思います。でも、守備に就くことなく、ずっとバッティングだけをしていたら、セ・リーグで残したような数字(2017安打、380本塁打など)は記録できなかったと思います。というのも、私は常にフィールドにいたいタイプの選手だからです。守備に就くまでの間にファンサービスもしていました。ファンの人とのコミュニケーションがすごく好きだったので、そうしたものがなかったとしたら、同じような成績は残せなかったでしょうね。
掲げていた『スモールベースボール』と、『攻撃的な野球』をシチュエーションに合わせて使い分けていこうと考えていました。ただ、例えば強力な打線を誇る巨人と戦う際には、積極的に点を取るために『攻撃的な野球』の比重が大きくなってしまったこともあると思います。2番に長距離ヒッターの(ネフタリ・)ソトを置くようにしたのもそのためです。2番に強打者を起用したばかりの時は、『ラミちゃん、それはどうなの?』と疑問に思うファンも多かったでしょうね。しかし野球は日々進化していくものですから、その進化についていくために戦術を考えていった結果です。
懐疑的な意見があったことはわかっています。私は、8番に走力が高くないキャッチャーを起用した場合、その選手が出塁して9番のピッチャーが送りバントをしても、2塁フォースアウトになることが多いと感じていました。そのため7番に足が速い選手を起用し、8番にピッチャーを置くことにしたんです。そこでチャンスが広がれば、9番打者がランナーを還してくれることも期待できますから。その采配もなかなか受け入れられませんでしたね。”謎采配”と言われることもありましたが、人によって考え方は違いますし、その批判に落ち込んだり右往左往したりすることはありませんでした。その場の勢いや行き当たりばったりの采配をしていたら、結果が悪かった時に大いに責められるべきです。しかし私は、すべて根拠に基づいて決断をしていたと自負しています。
監督を経験して気づいたのは、指揮官には大きく分けて2つのタイプがあるということ。ひとつは”スーパーバイザー”のように、コーチ陣に判断を任せて采配をするタイプ。もうひとつは、私のように攻守すべての判断を自分で下すタイプです。前者のタイプは判断をコーチに任せるため、その根拠などを理解するために密なコミュニケーションが必要になります。しかし後者のタイプは、コーチの意図を汲んだ上で自ら判断するので、話をする時間は長くなくても大丈夫なんです。シンプルなやりとりでもコミュニケーションが成立するので、私はそのような形をとっていました。
三浦(大輔)さんとも長い時間をかけて話すことができました。僕自身、三浦さんはベイスターズの非常に大きな柱、存在だと思っています。今、三浦さんの置かれている年齢と状況は、僕も選手時代に経験したものです。三浦さんはまだ『投げられる』、そして『投げたい』とおっしゃっています。自分が監督でいる以上、三浦さんには自分と同じ“あのジャケット”を着てほしいと思っています。
ずっと昔から、監督になるなら日本が一番だと考えていました。引退してからは母国のベネズエラでの監督やアメリカからコーチのオファーをいただいたりもしたのですが、やはり自分には日本の野球が一番フィットしたこともありますし、自分がいる場所は日本だと強く思っていましたから。僕が引退した後にどこかの国で監督をやって、また日本に戻ってきたとしてもファンの人は受け入れてくれたとは思うんです。ただ、ずっと日本にい続けたことで、”外国人選手”ではなく、”ラミちゃん”として認識し続けてもらえたんじゃないかなとは思います。
組織の文化を丸ごと受け入れて、その組織にフィットするように自分を変えることが重要です。どんな職業の人にも言えることではないかと思います。
最も学んだのは「妻への謝り方」です(笑)。私が野球で家を空けている間、我が家の“采配”を振るってきたのは妻ですからね。そこへいきなり私がやってきて家庭のルールをことごとく壊して回っているので、「ちょっとパパ、何やってるのよ」と怒られてばかりです。
「何でこんなことをやらなきゃいけないんだ」と思ったことはたくさんあります。たとえば、日本のような猛練習はアメリカではあり得ません。最初のキャンプのときは驚きました。初日から200球も投げこむピッチャーもいれば、練習後に居残りで1000球も打込む選手もいる。僕もイヤというほど走らされました。正直、「生きて帰れるんだろうか……」と思いました(笑)。でも、日本で生き残るためには、すべてを受け入れるしかない。何かあるたびにイライラしたり、混乱していたら試合に集中できなくなってしまうと思ったのです。
そもそも日本に来た理由は家と車のローンの支払いのため(笑)。だから、1年で帰るつもりでした。ところが、甘い考えはキャンプ初日に吹っ飛んだ。練習内容がベリーハード。試合でもセオリーがアメリカとは違った。だからといって、こんなやり方はイヤだ、ダメだとは言ってられません。それが日本式なら、そのやり方で生き残らなければならない。日本の野球を知ろうと努力を始めました。
私は普段の生活から日本に順応することも心がけました。まずは日本語を覚えました。最初は変な言葉ばかりでしたけど(笑)。また、いろんな日本食にも挑戦しました。いまでは箸も使えます。日本の新聞や雑誌を必死に読んだり、一人で電車を乗り継いで球場入りしたこともあります。でも、そうした甲斐あって、チームに溶け込むことができ、監督・コーチや他の選手とうまく意思疎通を図れるようになったんです。いい結果を残すためにチームとのコミュニケーションが不可欠なのは、ビジネスの場でも同じですよね。
子どもたちも「パパ、泣かないでー」と抱きついてきて。だけど原さんに花束をいただいた瞬間にそれもすべて忘れて、涙がこぼれてしまいました。だけど今はどこか開放感と言いますか、これまで時間が取れず着手できなかったことに挑戦するぞ、という気持ちでいっぱいです。
何よりファンのみなさんの存在ですね。私は人のスマイルを見るのが大好き。アメリカではあくまでプレイに専念することを要求され、ギャグなどもできない雰囲気があったんです。だけど日本では「ゲッツ!」とやるとワーッと沸いてくれる。特に小さい子どもは、私の名前なんて覚えられないと思うんですよ。だけど「アイーン」とかやるとすごく喜んでくれて。アメリカに帰ったら、ただのいち選手でしかない自分を、日本のファンの方々は、“ラミちゃん”として、特別な気持ちを持って応援してくれる。だからエージェントにも「メジャーのオファーは断っていいよ」と伝えましたし、「日本で野球人生のキャリアを終えたい」と心に決めました。ファンの方々が、ありのままの私を日本のみなさんが受け入れてくれたからこそ、プレイでもいい結果を残せたんです。
ダウン症だろうと子供達はみんな純粋でかわいい。
だってダウン症の子供、超かわいいじゃん。だから彼女(妻)がダウン症を悲しむ意味が分からなかったよ。
子どもを誇りに思っているし、愛している。何も隠す必要がない。
私にとって日本は特別な国。日本が好きだし、人々も好きだし。日本から多くのことをもらったので、自分にできることは心からお返ししたいです!
日本に来て13年。日本一を経験したし、首位打者・本塁打王などタイトルも多く獲得。そして、2千本安打も達成できた。ここまで結果を出し、長く続けられていられるのは「自分の置かれた環境」を知る努力を重ねてきたからだと思う。
物があふれている現代(日本)では、「勉強やスポーツへの興味・関心をじゃまするような物が多くありすぎる」と思います。その結果、授業中でも部活の最中でも、その他のものに気が取られて、なかなか身が入らないんですね。ですから、「1番目が勉強、2番目にスポーツ、それが終わった3番目に自分の時間」というように、自分の気持ちをきちんと区別して、常に今やるべきことに集中するという事が大事だと思います。
何かの紙に、自分のすべきことの優先順位を書き、それを常に自分の中で思い出せるように、どこかにはったり、持ち歩いたりして、頭や気持ちの中で意識する。そして今すべきことに集中し、それが終わったら自分へのご褒美として、好きなことを楽しむ。とてもシンプルだけれど、これが一番いい方法だと思います。
仕事で行き詰まっている人がいるなら視野を広げることを提案したい。私のポジションは野手です。でも、ピッチャーやキャッチャー、チーム全体を関心を持って見ています。その延長線上には監督の夢もある。仕事にムダはないのです。視野を広げて、自分の新しい可能性を広げていきましょう。
スポーツのいいところは、部活の最中や練習の際、いつも何か新しい課題や発見がみつかり、一日一日が勉強になるということだと思います。テレビゲームをする時も、ただゲームをするのではなく、集中するというのが大切だと思います。例えば野球のゲームだったら、「この選手にこういうスライダーを投げたらどうなるか?」など、一つの情報源として、実際の野球にいかすというのもいいかもしれません。
プロ野球選手ならば、誰でもある程度の技術力やフィジカル(肉体)の能力は持っているものです。しかし、活躍できる選手と活躍できない選手がいます。その差を生むのは間違いなくメンタル面の強さです。ですから私はフィジカル面を向上させる努力は当然しますが、それ以上にメンタルを強く保つための努力を大切にしています。
常に上を向いて歩いていく。確立は50%です。上を向くのと下を向くのでは確立が変わります。上を向いていれば4打数2安打。下を向いていると4打数1安打。だから上を向いてポジティブになることが成功への秘訣です。
日本の野球は日本の文化ととても密接だと思います。外国から来た選手は、一度自国の文化を忘れて、日本の文化を学ぼうとすることが大切です。外国から来て、“アメリカの野球を教えよう”という意識を持つ選手よりも、“日本の野球を学ぼう”という姿勢を持つ選手の方がアジャストできます。僕が日本で学んだのは《1・ショウガナイ》、《2・ハイ、ワカリマシタ》、《3・ガンバリマス!》、この3つのことです。
外国人選手にとって、どうしても受け入れ難いことは必ずあります。それを変えようとしても、変えることは難しい。だから、《ショウガナイ》と気持ちを切り替え、《ワカリマシタ》と、その事実を受け入れ、その上で《ガンバリマス》と前に進む。それを受け入れられる選手が、日本で成功するのだと思います。来日2年目ぐらいからこのことに気づいて、本当に理解できるようになったのは4~5年目かな? 特に去年(13年)のシーズンはこの3つのことを意識していました
一流の選手はみんな強いメンタリティを持っています。メンタルが強いとは、成績が良いときも悪いときも、自分に自信を持ちポジティブな気持ちでいられることです。若い選手には、「いつも同じでいなさい」とよくアドバイスしています。
いろいろなことを伝えることができると思います。僕は“野球とはマインドゲームだ”と考えています。70%がマインドで、肉体的な部分が30%だと思うので、こうした考え方、試合に向けての準備の仕方をまずは伝えたい。こうした考えを伝えることで、若い選手たちが次のレベルにステップアップしてくれればいいなと思っています。
もちろん監督という立場はロンリーになってしまうことが結構あります。ただ、ひとりで考えなければいけないことや、自分だけで解決しなくちゃいけないこともたくさんある。
父の影響が大きいですね。彼は私が人生で出会った最高の「おもしろオジサン」。どんなに悲しく苦しい状況も笑いに変えて、周囲を明るく照らす人でした。今後は私を受け入れてくださった日本への感謝を込めて、野球ファンを超えたすべての方にポジティブなメッセージを発信していきたいと思っています。
コンセプトは「家族を1つにする」こと。私もダウン症児の父親ですが、障害のある子と健常の子が一緒に遊べるイベントが少ないというのが、団体設立の思いとしてありました。さまざまな個性を持った子どもたちの触れ合いを通して、すべての子どもたちが障害の有無に関わらず、しっかりと自立して生きていける社会を目指しています。
もちろん簡単な道のりではなかったが、みんな決してあきらめることなく、常に前だけを向いて戦ってきたからこそ、ここまで来ることができた。
いくら準備をしても、すべてハッピーな結果ではない。打てない日もあると受け入れる。そうすれば不調でも元気を失わない。元気=ポジティブマインド。前を向いて、次の試合のための準備ができる。
何事にも甘くみてはいけない。全てのプレーで、気を抜いてはいけないということを学んだ。
犯したミスをなかったことにはできません。だから一歩下がって、その出来事を俯瞰的に振り返り、どうして失敗が起きたのか、何が原因だったのかを分析する。その繰り返しが自分を成長させ、次のチャンスを逃さないための貴重な準備となるのです。
上手くいかないことを環境のせいにしてはダメです。失敗なんて誰もがするものでしょう?大事なのは失敗に対してどうアプローチするかです。
毎日が新しく学ぶ機会。
アレックス・ラミレス。
正式名:アレキサンダー・ラモン・ラミレス・キニョーネス。
1974年生まれ、ベネズエラ出身。
実家はベネズエラの首都・カラカス近郊の「ピニャンゴ・デ・ジャレ」という小さな町にある。
人口は約200人で、そのうち4分の3程がラミレスの一族だという。
5歳で兄の影響を受け野球を始め、8歳で地元リトルリーグの監督にスカウトされチームに所属。
15歳になると本格的に野球選手を目指すため学校を退学。当時は主に投手を務めていた。
18歳でベネズエラの国内選手権に出場した際に外野手として試合に出ていたところをクリーブランド・インディアンズのスカウトの目に留まりマイナーリーグ契約をする。
1994年2月に結婚し、8月から1995年4月までメジャーリーグ史上最長のストライキが実施された影響で、1995年のメジャーリーグスプリングトレーニングにはオーナー側の命令で代替選手として参加。
そのため、スト破りを行った報復措置としてメジャーリーグ選手会への加入を認められなかった。
1998年はAAA級バッファロー・バイソンズで121試合に出場。
34本塁打103打点6盗塁、打率.299と結果を残し、9月19日に初のメジャーリーグ昇格を果たした。
同日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーデビュー。1打数無安打1三振に終わった。
2000年7月28日にウィル・コルデロとのトレードでエンリケ・ウィルソンと共にピッツバーグ・パイレーツへ移籍。
しかしパイレーツへの移籍直後は好調だったものの、8月に入るとスランプに陥りスタメンから外されるようになる。
ラミレスによれば「打撃コーチ(ロイド・マクレンドン)に打席でのスタンスを変えるよう指示されそれに従ったところスランプに陥ったため、コーチに『スタンスを元に戻したい』と言ったら、次の日からスタメンを外された」という。
2000年11月1日、ヤクルトスワローズに入団。
2001年は138試合出場、打率.280・29本塁打・88打点の好成績をマークし、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。
当初の契約では「5番・右翼手」での出場を確約されていたが、キャンプ初日に当時右翼手のレギュラーだった稲葉篤紀の守備を見て「自分は彼(稲葉)には勝てない」と感じ、左翼手に転向した。
2002年も139試合に出場し、3割近い打率を残した。
一方でリーグ最多の146三振を喫した。
2003年は読売ジャイアンツへ移籍したロベルト・ペタジーニに替わって4番に座り、全140試合に出場、打率.333・40本塁打・124打点の成績を収めて打点王・本塁打王・最多安打・ベストナインの各タイトルを獲得。
来日3年目で初の3割達成となった。
2004年は故障離脱もあり、ヤクルト時代では最も少ない129試合の出場だったが打率.305、31本塁打、110打点の成績を残した。
終盤には代理人の意向もあって移籍が取り沙汰されたが、本人の希望もあって残留。
その際、義理の息子であるアレックス・ラミレス・ジュニアの入団が決め手となった。
2005年は打率3割は逃したが、引き続きチームの4番打者としてチームに貢献した。
2006年は26本塁打・112打点を記録するものの、636打席で四球はわずか19個と選球眼の悪さが露呈し、出塁率.289は両リーグで最低だった。
2007年10月4日の対横浜ベイスターズ21回戦において、外国人選手・右打者としては史上初のシーズン200本安打を達成、打率も.343、安打数は最終的に204安打まで達した。
また、このシーズンは打率.343、122打点をマークして、100打点、200安打、打率.300以上の「100・200・300」を同時達成しているが、これは日本プロ野球史上唯一の記録で、メジャーリーグに渡った日本人選手でも、2005年の松井秀喜が116打点、192安打、打率.305を残したのが「最接近記録」で、NPB/MLBを通じて100打点以上の経験がないイチローも到達していない。
オフに球団側からラミレス側への残留要請が行われたが、提示された条件は契約年数1年、推定年俸4億円というラミレス側の希望とはかけ離れたものであった。
7年在籍した球団に対する彼の希望は高年俸ではなく、契約年数で、ラミレスは球団側が複数年契約を認めれば、ヤクルトに残留する選択も考えていた。
2007年12月29日、右の大砲を探していた読売ジャイアンツとオリックス・バファローズが獲得を検討していたが、オリックスはアレックス・カブレラの獲得を発表したため、巨人が獲得を発表した。
推定年俸は5億円(契約年数2年、総額10億円)。
2008年は開幕から5番打者としてシーズンを迎えたが、開幕から結果を残したことと、4番候補の李承燁・高橋由伸の不振により、主に4番で起用されるようになった。
前年の高打率を維持しながら長打力も発揮し、45本塁打、125打点で2年連続3度目の打点王を獲得し、チームのリーグ連覇に貢献した。
そして2008年のセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。
交流戦はパ・リーグのチームの主催試合が指名打者制のため、この試合では主に指名打者として起用された。
中日ドラゴンズとのCS第2ステージでは第4戦に8回に勝ち越しの2ラン本塁打を放って勝利し、6年ぶりの日本シリーズ進出を決めた。
埼玉西武ライオンズとの日本シリーズでは第3戦は指名打者で出場し、第4・5戦では阿部慎之助が負傷して指名打者で出場したため左翼手として出場した。
同シリーズでは第7戦では最後の打者となってしまったが、第1戦の唯一の打点、第2戦のサヨナラ本塁打、第3戦でもソロ本塁打を放ち、第5戦では逆転のきっかけを作る二塁打を放つなど随所で活躍し、同シリーズ敢闘賞を受賞した。
この年にフリーエージェント資格を取得したため、2009年から外国人枠の適用外となった。
2009年は144試合全てで4番に座り、前年に続く活躍。
3割30本100打点を達成したほか、打率.322で自身初の首位打者と3度目の最多安打を獲得。
チームの3連覇に貢献し、2年連続の最優秀選手に選ばれた。
シーズン通しての調子の波も少なく、6月以外の月間打率は全て3割以上だった。
巨人の右打者の首位打者獲得は1971年の長嶋茂雄以来38年ぶりである。
チームはこの試合は敗れたが、第5・6戦と勝利し、巨人での日本一を達成した。
2010年4月に最終的に打率.304・49本塁打・129打点で本塁打・打点の二冠王に輝いた。
49本塁打は巨人軍の右打者における1シーズン最多本塁打であり、巨人の外国人打者においても最多本塁打記録である。
また2003年から続くシーズン100打点を8年連続とし、王貞治の7年連続(1963年~1969年)を抜いてプロ野球新記録を樹立した。
2011年5月1日に4番としての連続先発出場記録を416試合として、松井秀喜が持つ415試合を抜き、球団新記録を達成する。
8月5日、3回表に内野安打を放ち、NPB通算1793安打を記録。タフィ・ローズの1792安打を越え、歴代外国人選手の通算最多安打記録を更新した。
シーズン成績は137試合、打率(.279)が巨人入団以来初めて3割を切り、打点(73)は連続100打点が8年で止まり、来日以来最低の数字となった。
本塁打数(23)も来日以来最低の数字となり、打撃三部門で来日以来最低の記録となった。
10月31日のクライマックスシリーズ・ファーストステージ終了をもって、正式に退団した。
2011年12月8日、横浜DeNAベイスターズが獲得を発表し、入団会見を行った。
2012年はオープン戦での肉離れにより開幕スタメンこそ逃すも、4月4日より新チームの4番として定着。
しばらくは調子が上がらない時期が続いたが、徐々に調子を上げ、7月5日、NPB/MLB通算2000本安打を達成(MLBでは86安打・NPBでは1914安打を記録)。
同14日、外国人選手最高記録となる12年連続2桁本塁打を達成。
7月にはDeNA移籍後初、通算9回目の月間MVPを受賞した。
3球団で月間MVPを受賞するのは史上初。
前年と同じ137試合の出場で打率は3割ちょうどだったが、規定打席に到達した年では初めて本塁打が20本未満となり、19本塁打に留まった。
2013年はトニ・ブランコの入団により、5番に回り、4月6日の対ヤクルト戦で6回表、元チームメイトである石川雅規から左翼席へ弾丸ライナーで飛び込む本塁打を放ち、外国人選手枠で入団した選手としては史上初となるNPB通算2000本安打を達成した。
この年は来日後最低の出場試合数56、打率.185、2本塁打、14打点に終わった。
横浜DeNAから戦力外通告を受けた後は、KOYO都市開発の社長に就任する一方で、NPBの他球団で現役生活を続けることを希望。
2014年2月13日にベースボール・チャレンジ・リーグの群馬ダイヤモンドペガサスが、ラミレスを打撃コーチ兼任の外野手として入団させることを発表した。
入団した群馬では、4番・指名打者として5番カラバイヨとの強力クリーンナップを形成。
シーズン通算では、45試合の出場で、打率.305、7本塁打、38打点。10月14日に、球団を通じて現役引退を表明した。
2014年10月29日から、群馬のシニアディレクターに就任した。
就任後の11月9日に第1回トライアウトを視察して、年内限りとDeNAから戦力外通告を受けていた元チームメイトの伊藤拓郎を群馬に入団させるなど、編成面で手腕を発揮していた。
2015年6月22日からオリックス・バファローズと3ヶ月間の契約を結び、同球団の巡回アドバイザーを兼務した。
群馬で指導していたフランシスコ・カラバイヨとヨヘルミン・チャベスが相次いでオリックスへ移籍したことによる就任で、外国人選手のサポートを中心に、月に数回のペースで一・二軍を指導していた。
2015年10月19日にDeNA球団がラミレスの一軍監督就任を発表した。
同球団の監督に外国人が就任するのは前身の横浜大洋ホエールズと横浜ベイスターズ時代を含めても初めて。
現役時代に横浜DeNAベイスターズおよび前身球団に在籍していた人物が同球団の監督に就任するのは2004年に退任した山下大輔以来で、DeNA球団のOBとして監督に就任するのは球団史上初となる。
2016年シーズンは5月3日時点で借金11と低迷するが、そこから15勝4敗1分の驚異的な巻き返しで5月28日に借金を完済し、シーズン3位で球団初のクライマックスシリーズへ進出した。
1stステージで2位の巨人に2勝1敗で勝利してクライマックスシリーズ・ファイナルステージに進出したが、シーズン1位の広島に1勝4敗で敗れて日本シリーズ進出はならなかった。
2017年シーズンも3位でリーグ戦を終え、クライマックスシリーズへ進出。
また、球団として16年ぶりの2年連続Aクラスとなった。
3位が確定したのは10月1日の広島戦(横浜スタジアム。
13 – 7で勝利)で、この日に1年契約で2018年シーズンの続投が決まった。
クライマックスシリーズでは1stステージで2位の阪神に2勝1敗で勝利し、クライマックスシリーズ・ファイナルステージへ進出。
シーズン1位の広島に4勝2敗で勝利し球団として19年ぶりの日本シリーズ進出を果たした。
これにより、2010年代でセ・リーグは21世紀になってから日本シリーズに1度も出場したことがない球団がなくなった。
日本シリーズではソフトバンクと戦い、2勝4敗に終わった。
2018年シーズンは先発投手陣の不調など誤算もあり優勝争いから早々と脱落し、クライマックスシリーズ争いにも敗れ4位に終わり、就任3年目で初めてAクラスを逃した。
苦戦のシーズンであったが、得失点-70で4位を堅持しており、ラミレス監督の手腕を評価する声が上がった。
2019年は開幕カードを監督就任後初めて2勝1敗で勝ち越したものの、4月16日の中日戦から28日の巨人戦まで2015年以来となる10連敗、5月3日の阪神戦から8日の巨人戦まで5連敗を喫するなど春先に大きく躓いた。
しかし毎年鬼門といわれるセ・パ交流戦を監督就任後初めて10勝7敗1分と勝ち越すなど持ち直し、前半戦を首位・巨人と9.5ゲーム差の2位で終える。
後半戦に入ってからも7月19日の中日戦から引き分け1を挟んで7連勝するなど好調を維持。
8月2日からの首位・巨人との直接対決に3連勝し、最大10.5あったゲーム差を0.5にまで縮めた。
最後まで優勝争いに絡んだものの、9月21日の直接対決で巨人に敗れたことで優勝を逃す。
9月24日の中日戦に勝利し、シーズン2位を確定させ、2年ぶりのAクラス&クライマックスシリーズ進出が決まった。
2位以上につけるのは最後に優勝した1998年以来で、2位自体は1997年以来22年ぶりだった。
そのクライマックスシリーズでは3位の阪神と対戦したが、第1戦に6点差を逆転され敗れるなど苦戦を強いられ、第2戦こそ乙坂智のサヨナラ2ラン本塁打で勝利したものの第3戦では打線が湿ってしまい1点しか奪えず、1勝2敗で敗退した。
翌年の2020年の続投が決まったが、2020年10月24日にシーズン一杯での退任を発表した。
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