新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
僕はブラジル生まれで、16歳まではブラジルにいました。正直なところ、サッカー選手になるってこと自体が非常に難しいことだったんです。自分もワールドカップのことまで考えるような、上手な選手ではなかったんで、絶対手の届かないところにあると思っていた。いま実際に近くに感じる、見える光というのはどんどん近づいてきていて、だけど光りすぎて何があるかってことも全然わからない(笑)。その中に入ってみないと、なかなかわからないんじゃないかなって思います。
前回のワールドカップは残念ながらチャンスももらえず、結局本大会に出場することはできなかった。非常に悔しい思いでこの4年間を戦ってきたし、夢にも見られなかったワールドカップだった。自分も今回は出場機会も与えてもらっているんで、みんなで一丸となって戦いたいです。そして感謝をいろんな人にできるような大会にできればいいなと思います。自分自身ね、(W杯が)どんなもんかっていうのを、まだ肌で感じたことがないんで、非常に楽しみにしているところですね。
僕たちの中での目標はある。それを達成するためには、楽しむだけではダメだと思う。いろんな苦労や困難を乗り越えなきゃいけない。今まで考えられなかったことに、僕らは本気でチャレンジしてみようじゃないかって、いま岡田さん(日本代表監督)の下でずっと協力してやってきている。目標を達成できるようにみんなで力を合わせていくしかないと思うし、そこでプレッシャーも感じつつありますね。
相手を傷つけたり、ルール違反は絶対しない。ルールの中で勝つためにすべきことをやっていかなければいけないと思っています。それをやる覚悟はできています。プロとしてやっていく中で、相手をリスペクトし、審判たちをリスペクトし、サポーターをリスペクトした上で、『勝つために何をすべきか』ってことをね、常に考えながらやっています。
選手それぞれが、「自分たちの勝機はどこにあるのか?」ということを考えてサッカーをやった証だと今でも思っています。フィジカルでは強豪校には絶対に敵わないのはわかっていたので、知性で補って勝ちを積み上げていった感じです。それが、進学校の渋谷幕張が選手権に出場できた理由ですね。
まず自信を取り戻させます。昨日のロッカールームでも、元気のないチームは勝てないという話をしました。昨日のような試合を引き分けではなく勝利で終わらせる自信、そしてのびのびとサッカーをする気持ちの余裕をもたらしたいと思います。
今は本当にどのチームも綺麗なサッカーで、そして進化を続けています。そういったところがまず求められています。そんななかでも、泥臭く。多少は技術がそんな優れていなくても、僕みたいに一生懸命やって、サポーターに喜んでもらえる姿勢をね、なくしてほしくない。そういった気持ちを伝えたいという選手が消えてほしくはない。たくさんの人たちがスタジアムに来てくれていて、そういう姿を見たいファンもいると思います。ぜひ、そういうプレーは消えないでほしいなと思います。
正直、日本でこんなできるとは思ってなかったし、ここまで登ってこられる形も想像していなかった。自分は、こうなりたいとか、ああしたいとか、想像する人じゃない。今日できることをしようじゃないかという生き方でやってきた。とにかく今を生きようと。3月で(初来日から)19年になるんですけど、来た時から変わっていない。明日のことを考える余裕がないから、今日を生きるために何をすべきかでやってきたから、ここまでこられるとは、まったく、夢にも思わなかった。
ブラジルは日本よりも2000年くらい遅れていると思いましたね。正しいと思って、今までやってきたものは全部、間違っていた。それを認めなきゃいけない。それを認めた上で直さなきゃいけないのが、すごく難しかった。日本語も必死に勉強して1年、2年ぐらい経つと、だいぶ読み書きもできるようになりました。言葉の問題もそうですが、規律の壁を乗り越えたのが自分の中で大きかった。規律が大事と理解できた。どんなサッカーのタイトルよりも、どんな学業の成績よりも自分の中では財産だと思いますね。
この日本でやってきた人生への感謝、自分の日本に対する感謝を、どんな形が一番いいか。
(”闘莉王”という漢字について)自分の心がもうブラジルではなく日本人の心になっているんだなとそういう風に感じて国籍を獲得した。日の丸に対する思い、今まで支えてくれた人たちに対する思い、「日本に恩返しをする」その一心で国籍を変えた。振り返ってみるとぴったりの漢字だったんじゃないかと思います。
残留の可能性があるのなら、僕は一瞬も諦めません。名古屋グランパスを最後まで闘わせる、それが自分の役割です。全員で力を合わせ、そしてサポーターの皆さんにも全力で支えていただく。そのためのプレーをしたいと思います。
少しでもこの炎が消えかかりそうな時があれば、どんな時であれ、年も関係なく引退しようと。サッカーに関しては失礼なことなくやっていかないといけないなと自分の中では決めていた。
時には頭が割れていても、筋肉が“バナレ”ても、鼻が折れてでも…。ピッチに戻ろうとした。その気持ちは、誇りに思います。
サッカーは生き物といいます。人生同様、プラン通りにはいかないことはたくさんあります。どんなに正しいことをやっても、正しい結果が出ないこともあります。 いずれにせよ、ワールドカップは多くの日本国民がテレビの前で日本代表ユニフォームを着て応援してくれる舞台です。みんなが本当に応援したくなるような戦いを見せてもらいたいです。自分はボクシング映画の『ロッキー』が大好きです。相手は強いけれど、耐え抜いて、最後に一発、相手にパンチをお見舞いできるチャンスはやってくると思います。日本のサッカーはこれからも続きます。みんなが誇りに感じられるような戦いをしてほしい。
一瞬も1秒も手を抜くことなく全力で気合いを入れてやってきたことを誇りに思います。
田中マルクス闘莉王。
1981年生まれ、ブラジルのサンパウロ州出身。
ブラジル国籍名はマルクス・トゥーリオ・リュージ・ムルザニ・タナカ。
ニックネームは「サムライ闘莉王」、「闘将」など。
生まれて初めて喋った言葉は、「ママイ(お母さん)」「パパイ(お父さん)」「ボーラ(ボール)」だったという。
サッカーを本格的に始めたのは9歳の時で、ボランティア活動で子ども達にサッカーを教えていたコーチが近所に引っ越してきたことがきっかけであった。
そのサッカー教室へ通い上達していった。
しだいに少年チームだけでは物足りずに父親の試合について行き、大人に混じってサッカーをすることもあった。
中学時代は「自分の人生に責任を持つ人間に育ってほしい」という父親の厳しい教育方針のもと、昼間は会計事務所で働き、夜間はオレステス中学校夜間部へ通う生活を送った。
中学校では体育教師の熱心な勧誘でバレーボール部に所属してエースアタッカーとして活躍し、地区大会で優勝するほどであった。
また数学教師の推薦でオレステス中学校代表としてブラジル数学オリンピックに出場し、全国大会にまで進んだ経歴も持つ。
1997年、人に勧められて受けたミラソウFCのセレクションに合格し、その頃からプロサッカー選手を目指すようになった。
その1ヶ月後の1998年1月、留学生を探しにミラソウFCを視察していた千葉県の渋谷幕張高校サッカー部監督の宗像マルコス望に才能を見出され、日本の高校への留学を誘われた。
1998年3月、カバン1つだけを持参して16歳で来日した。
日本語ができなかったことで大変な思いをし、日本に来て最初の1年間が人生で最も辛かったという。
サッカーに関しては、本来は攻撃的ポジションの経験しかなかったが、宗像の意向でセンターバックにコンバートされた。
個人としては千葉県選抜チームのメンバーに選出されて国体に出場し、全国優勝を果たした。
渋谷幕張高校サッカー部の一員としては、本人のフリーキックからのゴールが決勝点となり、サッカー部を初の全国大会出場へ導くという実績を残した。
2001年に高校を卒業し、祖父の勧めでサンフレッチェ広島に加入した。
2001年のJリーグ開幕戦、3月11日の鹿島アントラーズ戦、前半10分に負傷したポポヴィッチとの交代で出場しJリーグデビューを果たすと、16分にJリーグ初ゴールを決めた。
2002年シーズンに広島がJ2に降格し、1年での昇格を目指すためクラブはベテランの外国籍選手を獲得することとなり、1チームにA登録選手が3人までと規定されていた外国籍選手の保有枠に入れず、翌2003年からJ2の水戸ホーリーホックに期限付き移籍で加入した。
その水戸で、個性を大事にした監督の前田秀樹のもと、ディフェンダーでありながら10得点を挙げるなどの活躍をし、守備も攻撃もできる選手としての才能が開花することとなった。
同年10月には日本国籍を取得して、登録名を「トゥーリオ」から「田中マルクス闘莉王」に変更した。
クラブでの活躍が認められ、2003年10月に日本国籍を取得するとすぐに山本昌邦率いるU-23日本代表に選出された。
2004年3月3日のアテネオリンピックアジア地区最終予選のアウェーでのレバノン戦では4-0のスコアで勝利し、続く3月5日のアウェーでのUAE戦も2-0のスコアで勝利した。
本大会のメンバーにも選出され、アテネオリンピックには3試合すべてに出場した。
2004年に広島からJ1の浦和レッズに完全移籍。
レギュラーで活躍し、ステージ優勝を果たした。
2006年にはリーグ初優勝を果たし、Jリーグ最優秀選手賞 (MVP)および日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。
2006年8月にイビチャ・オシムの指揮するA代表に初選出。以降は負傷を繰り返しながらも、日本代表の中心選手として定着した。2008年からの2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選では8試合に全試合フル出場して本大会出場に貢献し、本大会への代表にも選出された。
2007年にはAFCチャンピオンズリーグ優勝、FIFAクラブワールドカップ 3位に貢献し、浦和の黄金時代を築いた。
2008年にはDFながらチーム得点王となる11得点を挙げるなど、以降も攻守にわたって浦和の軸として活躍した。
Jリーグベストイレブンには、浦和に在籍した6シーズンすべて選出された。
2008年7月17日の東京ヴェルディ1969戦でハットトリックを達成した。
一方で浦和入団の際にラブコールを出してくれたギド・ブッフバルトの退任以降に就任したホルガー・オジェック、フォルカー・フィンケら後任監督と相次いで衝突した。
オジェックの後任監督のゲルト・エンゲルスとは良好な関係を築いており、解任に際して惜しむコメントを残している。
2009年8月にはベテラン選手をクラブから去らせるなどの方針を採った浦和のフロントとフィンケの方針に苦言を呈したが、状況は変わらなかった。
2009年シーズン終了後に契約満了により浦和を退団し名古屋グランパスへの完全移籍が決定した。
欧州からもオファーが来ていたが、名古屋監督のドラガン・ストイコビッチからの「来年はワールドカップがあるから、日本でプレーするべきだ」というメッセージが最大の決め手となった。
加入会見で「リーグ優勝できなければ名古屋に来た意味はない」と語った言葉通り、名古屋を初優勝へ導いた。
最終ラインを巧みに統率して守備を安定させ、空中戦でも圧倒的な強さを発揮。
さらに高精度のフィードを前線に配給して攻撃の起点になりながら、機を見て攻め上がりゴールにからむ決定的な仕事もこなした。
その貢献度は大きく、「初優勝の最大の立役者」との評価を受けた。
チームメイトの楢崎正剛は、MVPは闘莉王であると評価し(実際に受賞したのは楢崎)、名波浩は「勝ち点10以上を一人で持っている」と語った。
2010 FIFAワールドカップ本大会では、守備の大黒柱として全4試合にフルタイムで先発出場し、自国開催以外で初となる日本代表の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。
冷静な読みとカバーリング、空中戦でゴールにカギをかけた。
攻撃面でも精度の高いフィードを繰り出してカウンターの起点となり、チームが不調の時期にも熱い言葉をかけ続けてチームを鼓舞した。
これらの活躍により、本大会直前に挙がっていた周囲からの不満の声をも消し去った。
日本史上最高のセンターバックとして名をとどろかせた闘莉王と中澤佑二のコンビは、アーセン・ベンゲルから「日本代表の最高の武器だった」と絶賛された。
2011年は、シーズン前半は自身の怪我やAFCチャンピオンズリーグとの過密日程等によりチームの順位は低迷したが、故障から復帰すると順位を上げ、終盤は6連勝で最終節まで優勝争いをして2位となった。
攻撃参加は自重して守備を引き締め、若手育成にも尽力した。
2012年6月に再びボタフォゴから好条件のオファーを受けたが、これを再び辞退して名古屋に残留した。
FWとして起用された2012年8月4日のヴィッセル神戸戦では、DF登録選手として歴代初となる4得点を記録した。
この年は2年連続得点王のジョシュア・ケネディが腰痛のため年間を通しての出場ができなかったため、ストイコビッチ監督はその代替え役として闘莉王をFWとして起用することも多く、永井謙佑に次いでチーム2位となる9得点を挙げた。
2014年は、新たに監督に就任した西野朗から主将に任命された。
2015年シーズンも主将を2年連続で務め、シーズン後半にはFWとして6試合に出場した。
シーズン通してレギュラーとして出場したが、大幅な減額での契約更新の打診には応じず、翌年1月9日に名古屋グランパスを退団することが発表された。
名古屋退団後はブラジルに帰り、無所属の期間が続いたが、2016年8月23日に降格圏内で低迷していた名古屋へ復帰する事を監督代行のボスコ・ジュロヴスキーが明言した後、同月26日に正式に発表された。
9月10日に行われたJ1・2ndステージ第11節 アルビレックス新潟戦で公式戦293日ぶりのピッチに立った。
試合は1-0で勝利し、クラブワースト記録の18戦勝ちなしだったチームを勝利へ導いた。
闘莉王加入後にチームは残留圏内に順位を上げ、最終的には15位の新潟と勝ち点は並んだが得失点差でJ2降格が決定。
シーズン終了後、翌年からのアドバイザー就任の打診を断り、11月7日、契約満了に伴って名古屋を退団した。
名古屋退団後は、一時ブラジルに帰国し、自身の力でチームを残留させられなかった事や、名古屋から迫られた形での退団となったことでのショックで引退も考えたが、京都サンガF.C.の強化部長らがブラジルまで直接訪ね、熱意を感じ2003年以来のJ2での戦いを決意した。
2017年1月6日に正式に京都へ加入する事が発表された。
3月4日に行われた第2節の徳島ヴォルティス戦では、Jリーグ18ヶ月ぶりゴールとなる移籍後初得点を決めてシーズン初勝利に貢献。
4月15日に行われた第8節の愛媛FC戦では、FWとして起用されハットトリックを達成。
35歳11カ月22日でのハットトリックはJ2最年長記録を更新し、J1・J2・ルヴァン杯の得点を合わせるとJリーグ公式戦通算得点102得点になり、Jリーグ史上初のDF登録選手の100得点突破となった。
同年はキャリアベストの15ゴールを決めた。
2018年10月13日の徳島ヴォルティス戦で決勝ゴールを決めたが、2018年の以降の試合と2019年はノーゴールに終わったため、この日のゴールが現役最後のゴールとなった。
2019年12月1日、現役を引退すると発表した。
J1では395試合75ゴール、リーグカップで51試合13ゴール、J2では134試合29ゴールの通算成績を残した。
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