新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
家族の思い出っていうと、兄弟に負けないように自分で茶碗にすくってご飯食べてたことですね。4人兄弟のいちばん末っ子だったんですよ。兄が2人いて、体格は自分がいちばん小さかったですし。
スズメはそこらじゅうにたくさんいましたからね(笑)。血抜きして、塩ぶっかけて食ってましたね。いや、塩なんてかけずに食ってたかな?
ぼくが行ってたバイト先ってのが、小田急線沿いに狛江ってところがあって、そこにヤマト運輸の仕分けのセンターがあったんです。今はもう機械なんだろうけど、当時はひとつひとつ手作業で仕分けしてましたね。そこは伝統的に運動部の学生を優先してアルバイトさせてくれたんです。そこの仕事を夕方までやって、そのあとヤマト運輸の社員食堂みたいなところで食事させてもらって、また帰って寮の食堂のめしを食うみたいな。もう、いくらでも食べられましたね。
努力をしても報われない奴はいる。間違いなくいる。ただ成功した奴は必ず努力をしている。
オリンピック目指していた時は、はじめて経済的にもしんどくなってきて、ヤマト運輸を辞めてもっといいバイトしなきゃってなってことで、深夜の仕事をはじめたんです。日本道路公団とかの。
冬なんかはかなり体力的にも厳しかったですけどね。親方さんはじめ、みんな優しくてよくしてくれましたよ。作業員の宿舎みたいなところで「いくらでも食べてけよ!」って感じで。あとそういうところのおばちゃんがまた優しいんだよ。あまったご飯でおにぎり作って、持たせてくれたりね。
バラエティに出てる芸人さんたちも、それが仕事でやってるから、なんでもかんでもいいわけじゃないと思うんですよね。やっぱりみんな力がある人たちが残ってる、そういう世界ですよね。あの人たちも初対面の人たちが多いから、何かうまく引き出してって気遣いさせてるのはわかりますよ。
増えてきてるんじゃなくて、もともとイジメも差別も昔からあるわけだから。それは宗教や憎しみや、そういうところからみんないがみ合って、何百年もちっちゃい国が闘ってきてるわけでしょ。日本的な言い方かわかんないけど、差別やイジメはなくなるのが一番いいんだ。
やっぱりイジメや差別の連鎖っていうのは変な人間を作りますよ。いまの世の中でもこれだけ異様な事件が起きて、これホントにおもてなしの国の事件なのかなっていう、異様な人間が作られる。
どんな仕事だってキレたらプロじゃないでしょう。どっか冷めた目で自分自身を見てないとね。
どっちみちイジメられるんだったら勇気を持ってぶっ飛ばせ(笑)。どっちみちイジメられるんだったら負けてもいいからぶっ飛ばしちゃえって思う。
今しかないぞ、俺たちが噛み付くのは今しかないぞ!!
この業界はあまり手取り足取り教えるっていうアレでもないし。だから猪木さんから教わったっていうことは、なくもないです。少ないんですけど、その少ないことがものすごくあとになって、「あ、あの人はじつはこういうことを言ってたのかな」って自分の悟り方っていうものが……それが合ってるかどうかわかんないですけどね。
藤波!俺はお前の噛ませ犬じゃないぞ。
あのままで行ってたら、多分、何の変化もないだろうし、ある意味では俺自身は疲れちゃう。『しんどいな』っていうのはあったよね。何て言うのかな、インパクト、刺激がないっていう。やっぱり何十年経ってもリングに上がる時の気持ちっていうのは、俺は変わらないからね。どういう状態だろうが、リングに上がる前の気持ちっていうのは、何十年前も今も変わらないですよ。それで『リングの中は怖いな!』って感じる時もあるし。そういうものがあるから『これはもうヤバイな!』と思うことがあったら黙ってリングを降りるよ。もう、1回引退してんだから、ああだこうだやるつもりはまったくない。だから、やれるだけのことはやってリングに上がるつもりではいるよね。藤波さんのところだろうが、佐山のところだろうが、上がる時の感覚は昔とまったく変わらないですよ。
前に進みたいのに動けない辛さはよくわかります。でも、その間ずっと悩んで過ごすなんて損。「なるようになる」と思ってひと休みすればいい。そのうち風向きも変わるものです。
藤波(辰爾)さんがいたから、今のオレがいる。
間違いなく言えるのは、リングの中でも降りてもライバルだよね。人生の中に良くても悪くても意識する人間がいるのか、いないのか。いない人たちっていうのはどういう人生を歩んでいるのかって思うよね。俺にはたまたまこういういう凄いライバルが目の前にいて、常に……お互いに遠回りしていても藤波辰爾っていうものを意識してるっていう。それは間違いないことだね。それは俗に言うライバルなんだろうね。どっかで『負けたくない!』っていう感情は間違いなくある。いろんな意味において『負けたくない!』って、ウン。
俺、一番『クソーッ!』と思う時は、そのリングの上でのテンションと自分自身の動きがギクシャクした時だよね。気持ちと体のギャップって言うのかな。流れが作れなかった時は凄く後悔して腹立たしいよね。作れないんじゃなくて諦めたり……。これは自分にしかわからないじゃん。『なぜ、ここで止まったんだろう?』『なぜ、ここで行っちゃったんだろう?』とか。そういうのがあるよね。それはもう現実問題としてしょうがないことであって。30年前と同じだったら凄いよ(苦笑)。ただ、そういう姿勢だけはもう、昔と変わらないですよ。
イメージって自分で作るんです。
俺にとっては“メジャーとインディーは、こういう違いなんだよ”っていうのが、ひとつのテーマだったね。ただ、それだけだったんだよ。“なぜお前たちはインディーって言われるのか”っていうね。やっぱり違いはあるんだよ。なぜ、俺がハチの巣を突くようにインディー批判したかっていうとね、その違いないと成り立たないんですよ、俺が作っている感覚は。基本的な部分で、“じゃあ、お前たちと俺たちと、どうやって動かしてプロレスを盛り上げていくのか?”っていう、そこんとこを考えたら……。確かに違いがあるんだから、その違いを突っつくしかないんですよ。これは俺個人の感覚だけどね。
子どもの頃、カブトムシとったでしょ? あれと同じでカブトムシがいっぱいとれるって評判の山に行っても、もう早起きした誰かにとられちゃってるんですよ。だったら誰も目をつけていない場所でクワガタ探せばいいじゃないですか。
俺の一生にも、一度くらい幸せな日があってもいいだろう。
ボランティアっていうのは俺たちにとって重い言葉だよね。まあ、出来ることがあるんだったら、それはもう進んでいこうと。みんな個々でやっている最中です。俺たち3人(長州、藤波、初代タイガーマスク)に、貢献が出来ることもあるんじゃないかなって。だから素直に出来るよね。
リングのなかでは絶対に同じ色ではダメなんですよ。同じ色同士がやってて、自分はもっとなんか……同じ黒でいいんだけど、でも俺はもうちょっと色をつけるよっていうようなものを自分でなんとなく考えて、そういう自分を作り上げるっていう。それが最終的には長州力っていうキャラみたいなものになっていっちゃったんでしょうね。
俺はワンパターンというのが大嫌い。
今の若いレスラー、もっと元気があってもいいんですけどねえ。なんだかおとなしいよね、性格的に。みんな素直で一生懸命やっているんだけど、ガツカツしたところがないし、個性がない。食事だって酒だって、僕たちの頃はムチャクチャ食って飲んでいたけどそういうところもない。だから、あんまり大きくならないっていうか。みなさんの世界でも若い人って今、そうなんでしょ。別に車なんかいらないとか、家なんてほしくないとか。欲がないっていう。僕たちの世代は高度成長期とかバブルとか、刺激のある時代を生きてきたから上を目指すっていう欲があったけど、今はそうじゃないからね。もうそこそこでいいやってのが、定着しちゃったのかもしれないですね。でも周りがそうだったら逆に、ガツガツいっちゃえば頭角が現せるんですけどね。これはレスラーだって、社会人のみなさんだって同じですよ。そうやって目立てば、誰かが波に乗っけてくれるの。小さい波は誰でも乗れるんですよ。ここ一発、大きな波に乗ることはしんどいですけど、そこで乗れるかどうか。まあ、僕はその時代の波に乗っかった。乗っけられたってのはありましたね。本当にデッカい波はね、やっぱり周りで乗っけてやらないと。僕は、マサさん、浜さん(アニマル浜口)の支えがあって、乗っけてもらったんですよ。乗れる人間は1人ですよ。だから乗っけてもらえるよう目立つの。その点、サッカーの本田なんてえらいじゃない。とんがったことばっかり言ってるから目立つよね。それでいて、でかいこと言ってもちゃんと実現させているじゃないですか。あれですよ。僕も若い頃はいろいろ偉そうな口たたきましたけど、言っちゃって自分を追い込むって部分ありましたよ。本田も同じなんじゃないですかね。若いうちはとんがっていていいと思いますよ。僕もそうでしたから。若くて勢いがあるときは角を鋭くしてね、突っ走っていればいいんじゃないですか。転がり続けていれば、どんどんどんどん角がとれていつか自然と丸くなっていくんですから。昔に比べれば僕だって丸くなったでしょ、それくらいでちょうどいいんだと思いますよ。
本田にしてもマー君にしても、自分でストーリー作ってる。そこがいいじゃないですか。どんな仕事でも同じですよ、自分でストーリーを作ってるヤツが強いんですよ。自分でストーリー作らないと他人のストーリーに組み込まれるだけなんだから。流されたり、人に踊らされたりしているようじゃ、いつまでたっても光が当たることはないんじゃないですか。よく「大きな夢を持て」って言うでしょ。でも夢じゃいつまでたっても夢のまま、かないっこないって思いますよ。僕の場合はオリンピック出場っていう夢があった。でも夢を見ているだけじゃ自分が本気で向かっていけないような気がして。だから夢じゃなくて「目標」にした。夢を目標にしたらそのとたんに不安も押し寄せてきますよ。夢だったらかなわなくてもしょうがないかっていうのがあるけど、目標だったら達成できなきや自分の責任ですからね。でもその分、真剣味が増すでしょう。だからオリンピックを目標にすると決めた頃は、後輩から見てもピリピリしていたでしょうね、たぶん。そのかわり、目標を達成したら、空っぽになっちゃいますけどね。もう完全な空洞。さあ、次は何しようかなっていう。でも不思議なものでね、空洞になるとなんか新しいアレがやってくるんですよ。結局、この世界に入ったのもオリンピック終わって空っぽになっていたのを見かねて、専大の監督が新日の新間さんを紹介してくれたんですから。だから夢なんてふわふわしたこと言ってないで、目標にして全力でぶつかってみればいいと思いますよ。それが自分でストーリーを作るってことになるんだと思いますね。本田にしてもマー君にしても、子どもに夢を与えた。そんでもって高校生くらいのヤツには目標を与えたってことですよ。やればできるんだって目標をね。素晴らしいじゃない。
トップを走るって、しんどいですよ、自分で道を切り拓いていかなきゃなんないし、風当たりだって一番強いんですから。そりゃ先頭を誰かに走らせて、風よけにしたほうが楽といえば楽ですよ。ただそれじゃ、上には行けないんですよ。二番手でいるっていうのは、結局、先頭を走るヤツが描いたストーリーに乗っかるってことでしょう。それじゃ脇役ですよね。自分が主人公じゃないんだから。会社員だってそうだと思いますよ。誰かが作ったプロジェクトについていくだけじゃコマでしょう、コマ。プロジェクトを作った誰かを上にやるためのコマ。それじゃつまんないでしょう。それよりは自分でストーリーを作って先頭を走ったほうがいいじゃないですか。この前ね、アラスカの犬ぞりレースのドキュメンタリーをテレビで見ましたけど、先頭切って走っている犬と、そいつについていく犬とは、顔が企然違うんですよ。先頭切っている犬はやっぱりいい顔してるんですよ。それに先頭切って走っている犬は、ほかの犬とは見えている景色が違うよね。先頭切って走っているからこそ、見える景色ってきっとあるんですよ。そりゃ、一番風当たりも強いですよ、先頭を走っていると。でも凧だって風受けないと高く舞い上がれないでしょ。あれと同じですよ、風を受ければ受けるほど、高いところにいける。風を受けるにはね、先頭を走るしかないじゃないですか。だから最初に宣言しちゃうんですよ。「トップは俺が走る」つて。そうすりゃそうせざるを得ないんだから。この言葉もそうだよね。みなさんだってそうですよ。トップを走ってみればいいじゃないですか。もうそれまでとはまったく違う世界が待っているから。そこからが本当の勝負なんですよ。
これは決めつけるわけじゃないけど、やっぱり自分で自分をマッチメイクして生きていった方がいいですよ。僕は人生ってもうちょっと長いと思ったけど、人生ってそんなに長くもないし。
最終的にはそうですよ。50年60年、本当にあっという間ですよ。長くないですよ、人生は。人にマッチメイクされるより自分でメイクした方が納得もするだろうし。
僕の範囲で、メイクされようが何しようが、自分が楽しいので。残りあとどれだけあるかわからないけど、自分で自分をマッチメイクして行こうと思いますよ。それでいいんじゃないかな、うん。
俺は“天下の長州力”、 いつでもそういうつもりでリングに上がっている。
ひとつだけ言えるのは、「強く生きてください」ってことです。どんなに辛いことや苦しいことがあっても、生きて、生きて、生き拔いてくださいってこと。僕もみなさんと同じです。辛いことや苦しいことがあった。でも、生きてきた。僕みたいな人間の言葉が、あなたの生きるヒントになるのだとしたら、こんなにうれしいことはないです。
無事故、無違反で名を遺した人間はいない。
過去を語るのはリングを降りた時。
逆境?それ、チャンスだよ。
とんがって生きてみないか。
長州力。
1951年生まれ、山口県徳山市(現:周南市)出身。
1951年12月3日、山口県徳山市で四人兄弟の末っ子として生まれる。
父親は1939年に韓国の忠清北道から来日し、廃品回収業を営んでいた。
在日韓国人二世という出自のため、小学校時代は教師からも差別を受けたという。
スポーツは野球と柔道で活動、岐陽中学の柔道部を経て、山口県桜ケ丘高校のレスリング部に特待生として進学。
レスリングに打ち込み、3年生の1969年にはインターハイの73kg級で準優勝、長崎国体のフリースタイル75kg以上級で優勝する。
大学レスリング関係者から注目され、アマレス強豪校の専修大学商学部に特待生として入学する。
専修大学レスリング部では重量級の選手として1年時から試合で活躍する。
3学年先輩の主将はミュンヘンオリンピックのフリースタイル52kg級で金メダルを獲得する加藤喜代美。
1学年後輩には吉田栄勝(吉田沙保里の父)や平澤光志(平澤光秀の父)がいた。
大学2年の1971年、全日本学生選手権のグレコローマン90kg級で優勝する。
大学3年の1972年、国籍のためオリンピックに出場できなくなることを惜しむ関係者の助けもあり、在日大韓体育会を介してミュンヘンオリンピック韓国レスリング代表に選ばれる。
本番ではフリースタイル90kg級に出場し、戦績は1勝2敗(減点制度により失格)。
大学4年でキャプテンとなり、1973年の全日本選手権ではフリースタイルとグレコローマンの100kg級で優勝した。
卒業後の進路選択の際、NETの運動局長だった永里高平(早稲田大学レスリング部OB)の仲介で新日本プロレスの新間寿営業本部長にスカウトされ、1974年に新日本プロレスへ入団。
ミュンヘン五輪グレコローマン100kg以上級に出場し、1年前に全日本プロレス入りした鶴田友美と同じく「アマレスエリートのプロレス転向」という道を辿ることになる。
1974年8月8日、日大講堂でのエル・グレコ戦でデビューを果たし、サソリ固めで勝利を飾る。
その後すぐに海外武者修行に出され、ヨーロッパや北米を転戦。
デビューから間もない1974年秋には、当時の西ドイツにてローラン・ボックやミル・マスカラスとも対戦(いずれも敗退)。
1975年からはアメリカ合衆国本土に入り、ヒロ・マツダが本拠地としていたNWAフロリダ地区で活動。
ダニー・ホッジ、クリス・マルコフ、バロン・シクルナ、ボブ・アームストロング、若手時代のボブ・バックランドやランディ・サベージ(ザ・スパイダー)などと対戦した。
デビュー時のリングネームは日本名の吉田光雄であったが、海外武者修行から帰国後の1977年4月より、故郷長門国の別名である長州にちなんで長州力と改名。
凱旋帰国時に出場した第4回ワールドリーグ戦では、優勝者の坂口征二と準優勝者のマスクド・スーパースターに次いで、ニコリ・ボルコフと同点の3位の戦績を収めた。
改名後もアントニオ猪木のパートナーに起用されてTV中継試合のメインイベントに出場するなど、活躍の機会は与えられていたが、華やかさに欠け無骨な長州は人気が上がらず、精悍で女性や子供受けするジュニアヘビー級の藤波辰巳や木村健吾の後塵を拝す。
1979年6月にはストロング小林に代わる坂口の新パートナーとして北米タッグ王座を獲得、猪木と坂口に次ぐヘビー級の3番手となったものの、ブレイクには至らなかった。
同王座はハリウッド・ブロンズ(ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)、タイガー・ジェット・シン&マサ斎藤、アイアン・シーク&スーパー・デストロイヤー、バッドニュース・アレン&ゲシュタポ、ワイルド・サモアンズ(アファ・アノアイ&シカ・アノアイ)などのチームを相手に防衛を続けたが、猪木の提唱するIWGP構想により、1981年3月のシン&ドン・ムラコとの防衛戦を最後に返上となった。
『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)の視聴率が20%を超えるという「新日ブーム」で沸く1982年に入ると、藤波辰巳との抗争劇で一躍ブレイク。
メキシコ遠征から帰国後、それまでの短髪パーマからストレートの長髪にイメージチェンジした長州は「革命戦士」のニックネームとともに時代の寵児となる。
ブレイクのきっかけとなったのは「藤波、俺はお前の噛ませ犬じゃない」と発言したことからとされているが、長州が実際に発した言葉は「なんで俺がお前の前を歩かなきゃいけないんだ。なんで、俺がお前の前にコールされなきゃいけないんだ。」であった(格下が先に入場し先にリングアナウンサーに紹介されるのが業界の慣わしである)。
きっかけとなった試合は、メキシコ遠征から帰国時の1982年10月8日に後楽園ホールで行われた、猪木、藤波と組んでのアブドーラ・ザ・ブッチャー、バッドニュース・アレン、S・D・ジョーンズ組との6人タッグマッチである。
藤波は年下であるが先輩であり、長州戦で6戦6勝と、この時点では人気・実績共にはるかに勝っていた。
更に藤波はWWFインターナショナル・ヘビー級王者であったが故に、これに長州は噛み付いた。
「噛ませ犬」という言葉が取り上げられるようになったのは、長州が雑誌『ビッグ・レスラー』1982年12月号(立風書房)における造反直後の単独インタビューの中で「だけど、ここで自分を主張できなかったら、僕は一生 ”かませ犬” のままで終わってしまうんですよ」とコメントしたことに対し「藤波のかませ犬になるのは、もうごめんだ!」というインタビュータイトルが付けられたことが発端であった。
その後、当時『ワールドプロレスリング』のアナウンサーだった古舘伊知郎が実況の中でも「かませ犬」という例えを多用。
実際に本人が発した言葉ではないが「俺はお前の噛ませ犬じゃない」という台詞は、造反に至った長州の心情を明確に印象付ける表現として浸透していった。
2019年のターザン山本の分析によると「ジャンボ鶴田に先を越された心労によって『噛ませ犬じゃない』という言葉になって怒りが出た」とのこと。
山本は当時の長州の状態をうつ病に喩えていた。
その後、当時の体制に反旗を翻して、師と仰ぐマサ斎藤やキラー・カーンと共に「革命軍」を結成。
さらにラッシャー木村率いる国際軍団を振り切る形で長州と活動を共にするアニマル浜口、浜口と同じく国際軍団の寺西勇、タイガーマスクとの抗争で同じく新日本正規軍を敵に回していた小林邦昭、そしてレスリング日本一の触れ込みで新日本入団後、海外武者修行に出て帰国した長州の弟子ともいえる谷津嘉章らと共に「維新軍」を結成する。
また、アメリカで活動するタイガー戸口(キム・ドク)も時折、維新軍に同行した。
試合においては、1981年末に全日本プロレスに転出したスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットをコピーした「リキ・ラリアット」を使うようになり、ハンセンのファイトスタイルを取り入れた攻撃主体の「ハイスパート・レスリング」を確立。
ニューヨークにて発掘されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座を巡って藤波と「名勝負数え唄」と謳われる連戦を繰り広げ、1983年4月3日には藤波からピンフォール勝ちを収めて王座奪取。
「俺の人生にも一度くらいこんなことがあってもいいだろう」というコメントを残した。
新日本正規軍と維新軍の軍団抗争では、ボブ・オートン・ジュニア&アドリアン・アドニスを模したツープラトン攻撃を駆使し、タッグマッチにおける合体技をマット界に広めた。
1984年6月1日には高松市民文化センターで行われたIWGPリーグ戦(第二回大会)において、アンドレ・ザ・ジャイアントをボディスラムで投げることに成功している。
しかし、トーキックを誤って入れてしまうなど、不器用なファイトぶりが外国人レスラーには不評であったという。
同大会では、6月14日の蔵前国技館における猪木対ハルク・ホーガンの優勝決定戦に突如乱入、両者にリキ・ラリアットを放った。
結果として猪木がリングアウト勝ちによる優勝を収めたが、試合を破壊されたことに納得しない観客による大規模な暴力行為が勃発、新日本プロレス史上初となる本格的な暴動事件を引き起こした。
レフェリーを務めたミスター高橋は、この乱入劇はマッチメーカーの発案によるアングルであり、長州本人は気乗りせず仕方なく従ったが、この事件が会社への不信感につながり新日本プロレスを離脱する一因になったのではないかとしている。
1984年9月21日をもって長州ら維新軍は新日本プロレスを退社。
その後、ジャパンプロレスを旗揚げし、維新軍に所属するレスラーを率いて戦場を全日本プロレスへと移した。
UWFに続き、長州および維新軍にも去られた新日本は選手が不足し、窮余の策として若手を登用、これが後の闘魂三銃士の隆盛に繋がる。
時代の寵児であった長州の全日本参戦は大きな話題性を呼び、中継を行う日本テレビ放送網をも動かし、1985年秋から全日本プロレス中継がゴールデンタイムに念願の復帰を果たした。
全日本マットにハイスパート・レスリングを持ち込み、それまでオールドファッションなアメリカン・プロレススタイルが主流であった全日本の試合内容に変革を起こすこととなった。
また、全日本所属の天龍源一郎は当時は一枚格下であったが、長州の試合に刺激を受けライバル意識をムキ出しにしたことで注目されることとなった。
後の天龍革命は長州の維新革命に触発されたものであることを公言している。
全日本プロレスのエースであったジャンボ鶴田と、大阪城ホールでのメインイベントにて60分フルタイムの激闘を展開した。
この興行はジャパンプロレス主催興行であった。
この試合については後述の1998年の引退時のインタビューにて「あの試合はしんどかったね。鶴田さんのほうが体力が残ってたね。」と述べている。
ただ、終始動き続け運動量の多かった長州と、あまり動かずに交わし続けた鶴田では消耗度だけを見れば異なって当然であり、それでも残り試合時間1分の時点で長州は鶴田の巨体をジャーマンできれいに投げており、試合終了後もすぐに立って鶴田に爽やかに握手を求めた。
後年に出されたコメントには、ジャパンプロレス主催興行のメインを飾ってくれたレスリング界の先輩である鶴田を立てる姿勢が多分に伺える。
この試合は両選手ともコンディション良く、フルタイムながら白熱の名勝負となり、1985年のプロレス大賞の年間最高試合賞(ベストバウト)を獲得した。
全日本マットでは、ブルーザー・ブロディ、ハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、ドリー・ファンク・ジュニア、リック・フレアーといった、当時の全日本プロレスならではの豪華外国人選手達とも対戦した。
1985年3月14日には愛知県体育館にてロード・ウォリアーズのAWA世界タッグ王座(パートナーはキラー・カーン)、同年4月23日には相模原市立総合体育館にてフレアーのNWA世界ヘビー級王座と、当時のアメリカメジャーのビッグタイトルにも挑戦している。
「受け」のレスリングを主体とするアントニオ猪木や藤波辰巳との一連の抗争に加えて、全日本流の「受け」のプロレスにも触れたことで、長州のファイトスタイルは徐々に幅が広がり、新日マット復帰後4年を経た1991年あたりからはもっぱら「受け」のレスリングを展開するようになった。
平成維震軍の一員として長州政権下の新日マットに上がったザ・グレート・カブキは、長州のファイトスタイルの変化に感心したという。
長州はジャイアント馬場のリーダー像に一目置いており、「(馬場さんは)大人物だった。人のことをよーく見ている。」と回顧している。
1986年2月5日に谷津嘉章とのチームで鶴田、天龍の鶴龍コンビを破ってインターナショナル・タッグ王座を奪取。
さらに、2か月後の4月5日にはハンセンを破ってPWFヘビー級王座を奪取。
この王座は全日本創設以来の看板タイトルで、この時点で鶴田も天龍も奪取していなかった。
テリー・ゴディ、テリー・ファンク、カート・ヘニングらを相手に防衛に成功。
しかしタイトルにそれほど興味がない長州は、ベルトを無造作に手に持ったり肩に掛けたりして、マスコミへの撮影以外で腰に巻くことはほとんどなかった。
人気・実力ともに全日本マットの頂点に立ち、天龍以外には燃える相手を見つけられなかったことから、長州は徐々に全日本マットへの興味を失っていった。
谷津嘉章に関しても「ここにいるよりも青山(新日本のこと)で(猪木)社長や藤波さんとやっているほうがレスラーとして成長する」と発言している。
1987年2月から手首の嚢腫(ガングリオン)を理由に全日本のシリーズを欠場し、その流れで新日本に復帰。契約問題で馬場および日本テレビとの騒動に発展した。
ジャパンプロレスは解散。
長州のスタイルに強い影響を受けた天龍は、長州離脱後の全日本マットで激しいプロレスを展開し、後の四天王プロレスのスタイルの礎を築いた。
1986年ごろからインタビューやマイクで藤波の名を口にし、古巣へのカムバックが次第に色味を帯びてきた1987年、長州の師であり維新軍でも頭目格であったマサ斎藤と猪木との抗争が始まる。
これに伴い、調印式などに長州も姿を見せるようになりいよいよ復帰が秒読みと思われつつあった中、4月27日両国国技館での猪木vs斉藤戦に際し、セコンドとして幾人かの元ジャパンプロ盟友らとついに新日会場に姿を見せる。
試合前の協議でリング下につくセコンドは馳浩のみとなり、長州はリングサイドでの観戦を余儀なくされたが、斉藤がKO負けした直後は周囲に押さえられて未遂に終わるも、リングに駆け上がらんばかりであった。
これを契機に、ついに長州の新日復帰が加速するかに見えたが、新日側は長州軍の参戦カードを中々組まず、痺れを切らせた長州側は5月30日、鹿児島県立体育館大会にてカードジャックを強行、第8試合にて長州は斉藤とのタッグで出陣の運びとなったが、この入場時に藤原が3年前を髣髴とさせるテロ行為に出る。
鉄パイプ奇襲で負傷した長州はこの日はマシンに試合を譲ることになった。
中一日をおいての6月1日、愛知県体育館にてマシンとのタッグで2年8か月ぶりの新日マットでのファイトに勝利を飾った。
長州側の陣容は、ジャパンプロレス時代に1986年8月全日マットで謀反を起こしたカーン、そして当時引退状態にあったアニマル浜口、全日本にそのまま残った谷津嘉章、寺西勇らを除き、マサ斎藤、小林邦昭、カルガリーハリケーンズのリーダースーパー・ストロング・マシン、またマシンとともに常に行動を共にしていたヒロ斎藤、更に専修大学の後輩でジャパンプロ出身の馳浩、そしてジャパンプロ生え抜きの佐々木健介といった選手らと反新日体制を率いる。
正式な軍団名は無かったが全員リキプロに所属し、テレビやマスコミからは『ニュー維新軍』と呼ばれていた。
その軍団の当時のトレーニングジャージ(チャンピオンプロダクツ製)には背番号が入っており(ちなみにマサ斎藤:0、長州:1、マシン:2、小林:3、ヒロ斎藤:5、保永昇男:6、佐々木:7、馳:8、タイガー服部:10、笹崎伸司:12)、話題となった。
マシンは晩年にもこのジャージを着用してリングインしていた。
この合流に際し、一足先に新日本に合流していた前田日明率いるUWFとのからみがファンに期待されたが、目立った直接対決の機会のないまま新世代として長州、藤波、前田らは共闘し、猪木世代を相手に世代闘争を繰り広げることとなる。
しかしほどなくしてこのアングルも瓦解、新日本隊対長州軍という流れへと移行していく。
次第にUWFの存在を希薄化され解体
吸収されることを危惧しナーバスになった前田が長州の姿勢を「言うだけ番長」と揶揄するなど、徐々に確執が顕著になっていく中、11月19日後楽園ホールの長州軍対UWFの6人タッグマッチにおいて、前田による長州への顔面蹴撃事件が勃発。
これにより長州は眼窩底骨折で長期欠場、前田は新日本を解雇され独立の道を歩み、第二次UWFの旗揚げへと繋がる。
これは同時に、新日本内部において反対勢力を排し長州の影響力を強める契機となった。
長州・新日本とUWFという後のプロレス界を席巻、牽引していく二大潮流の源流であり、また両者両団体の因縁の発端と言う意味でも、プロレス界における昭和から平成へのひとつのエポックとなった事件といえる。
その後長州は1988年7月にシングルマッチでアントニオ猪木から念願のフォール勝ち(後頭部ラリアット)を奪い、また翌1989年2月にもラリアット6連発で再び猪木に完勝し、猪木が試合後に号泣するという名場面が生まれた。
これにより長州は完全に猪木越えを果たし政権交代、名実共に新日本マットの中心となった。
そしてマッチメーカーとして猪木が一線を退いた後の団体を取り仕切り、闘魂三銃士をプロデュースし新世代のスターへと押し上げた。
また、現在まで続く1・4東京ドーム、G1クライマックス、G1タッグリーグ、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアなど定番イベントを創設し、1990年代を通して全国でドーム興行を成功・定着させ、ドームプロレスの生みの親となった。
因縁浅からぬUWFインターナショナルとの抗争も主導し、平和のための平壌国際体育・文化祝典で生じた大赤字を埋めることに成功する。
ただし愛弟子の佐々木健介や他団体の天龍源一郎を重用する等のマッチメークも見られ、豪腕リーダーぶりには西村修などの一部選手から不満を買った。
1998年1月4日の東京ドーム大会で引退。
引退試合は藤田和之、吉江豊、高岩竜一、飯塚高史、獣神サンダー・ライガーの5人掛けであった。
引退後、長州力のリングネームは愛弟子の佐々木健介が襲名するという話が持ち上がるも実現しなかった。
引退前は復帰を否定していたものの、大仁田厚の参戦・挑発に乗る形で2000年7月にマットに上がった。
当初はこの一試合のみの予定であったが、自分と猪木の引退によって新日本の興行収入が減少していたこと等もあり、ほどなくして定期参戦するようになり、現役復帰となった。
2002年2月武藤敬司派が新日を退団した責任を取らされ現場監督の任を剥奪。5月に新日本プロレスを退社。
盟友・永島勝司と共に有力タニマチであった福田政二を代表取締役として、2003年3月WJプロレスを旗揚げしたものの、諸般の事情により頓挫、総合格闘技イベントX-1やZERO-ONEとの対抗戦に活路を見出そうとするも解散に至った。
なお、WJ設立時のオープニングシリーズでは全6戦全てのメインに長州対天龍のシングルマッチを組んだ。
ハッスルやインディー団体へ参戦を続け、2004年新日本に一時復帰。
2005年には上井文彦から要請を受け、10月8日サイモン・ケリー猪木との会談で、リキプロに所属しつつ新日本プロレスの現場監督として復帰。
この新日本の決定に、所属レスラーの意見は真っ二つに別れた。
藤波は発表当初は歓迎をしていたものの、ドーム興行終了後に態度を180度転換している。
実際、前日組まれていたカードを当日になって変更するなど一部の選手とは更なる軋轢を生んでいる。
サイモン社長時は新日本の現場監督と、元WJ所属の若手選手によるプロダクションリキプロで、選手会興行を単発で行っていた。
2009年にはレスラー生活35年を迎え、記念パーティ「長州力レスラー生活35周年を祝う会」を開催した。
その中で「自分のゴールはもう目の前にある」と近い将来に2度目の引退をすることを示唆した。
11月には征矢学と全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に出場。
1985年と1986年に谷津と組んで出場して以来23年ぶりに全日本プロレスのリーグ戦に出場することとなった。
2009年には、新日本のみならずドラディション、リアルプロレス、ハッスル、全日本と精力的に各団体へ参戦。
一部では遺恨が深いとされる猪木率いるIGFへの参戦説まで浮上したがこれは実現に至らなかった。
SアリーナでGKこと金澤克彦からIGFよりオファーがあったかどうかを突っ込まれると「ノーコメントだよ。聞くなって!」と切り返し微妙な含みを残した。
2009年9月8日に竹内力の双子の弟というギミックのRIKIが「日本リーゼン党」立ち上げの記者会見を開き、長州と高山善廣が「日本リーゼン党」に入党したことを発表した。
しかしハッスルの事実上の倒産によってこのアングルは立ち消えとなった。
2010年銀幕デビューとなる「星砂の島のちいさな天使」に初出演。
共演者の美保純が番組でその演技力を絶賛する。
2010年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会「レッスルキングダム」にて蝶野正洋、中西学、テリー・ファンクとタッグを組み、飯塚高史、矢野通、石井智宏、アブドーラ・ザ・ブッチャーのヒール軍団と対戦。試合では長州のリキラリアットと蝶野のシャイニングケンカキックによるコンビネーション技を披露した。
2010年10月20日、藤波辰爾、初代タイガーマスクと共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011年1月10日に後楽園ホールで旗揚げすることを発表した。
旗揚げ当日は、藤波と長州の1997年8月10日以来となる一騎討ちも行われた。
なおレジェンドにて試合を行いつつも、2015年現在も新日本の道場に定期的に顔を出しトレーニングを行っている。
2016年に帰化。
2018年12月28日、プロデュース興行「POWER HALL2018」試合終了後に控室にて引退を示唆。
翌年6月26日の東京・後楽園ホールに引退興行を開催することが発表。
2019年6月26日、後楽園ホールで行われた「POWER HALL2019」における、藤波辰爾、武藤敬司、真壁刀義戦をもって現役を引退した。
2019年7月31日、ワインブランドロジャーグラートブランドアンバサダーに就任。
2019年12月25日、Twitterを開始。
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