【パール判事って知っていますか?】「東京裁判」教科書に載らない“消された歴史”私たちがまだまだ知らない『パール判事の日本無罪論』~「東京裁判という茶番」GHQ、厳しい言論統制を行い「パール判決書」も発表されなかった~
■私たちがまだまだ知らない「東京裁判」とは何だったのか?
傑作映画の修復版が公開される意味
週刊現代 2019.07.18 栗原俊雄
https://gendai.media/articles/-/65850?imp=0
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・東京裁判とは
東京裁判(正式名極東国際軍事裁判)は1946年5月3日から48年11月12日まで、2年半に及んだ。
判事団はアメリカ、中国(中華民国)、イギリス、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、オランダ、インド、フィリピンの11ヵ国で構成された。
日本の軍人や政治家などA級戦犯28人が起訴された。
裁判中死亡した元外務大臣、松岡洋右と元海軍元帥、永野修身、病気で免訴となった大川周明の3人以外、全員が有罪だった。
東条英機、土肥原賢二、松井石根、武藤章、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎の7人が死刑判決を受け、12月23日に絞首刑となった。
首相や外相などを歴任した広田以外、全員陸軍の軍人だった。
・紆余曲折の制作過程
裁判自体の詳細は映画に譲り、制作過程を振り返ってみよう。
映画は講談社の創立70周年プロジェクトとして制作され、1983年に公開された。
完成まで5年、紆余曲折があった。
本作で小林監督の補佐、脚本も担当した小笠原清によれば、東京裁判の映画化を最初に進めたのは小林自身であった。
まず1970年ごろ、東宝で企画が進んだ。
脚本は完成したが、膨大な制作費が見込まれたため見送られた。
折しも、米国立公文書館で、東京裁判関係の資料公開が始まった。
日本でも一部研究者らの関心を引いた。
井上勝太郎プロデューサーらが渡米、関係フィルム582本を入手した。
77年、井上らは講談社に、この資料を基にした写真集の出版を打診。
同社は、写真集ではなく映画化に関心を持ち、翌年には制作態勢を整えた。
監督は小林に依頼。「スケールの大きい、質の高い作品を」という狙いからだった。
早くから映画化を目指していた小林に話が行くのは偶然ではあったが、運命的なものを感じさせる。
この映画の大きな魅力は、圧倒的な臨場感だ。
日本の現代史を左右した為政者たちが法廷に立つ。
自分や祖国の名誉のために雄弁に語る者もいれば、ほとんど沈黙の者もいる。
そのしぐさや語り口に見る者は引き込まれる。
アメリカ人の弁護士が、裁判の少し前まで戦っていた日本人のため渾身の弁護をする。
そうした弁護士と裁判長との衝突、自分の身を守るためにウソをつく証人もいる。
被告が別の被告を非難する場面もある。
オーストラリア人のウエッブ裁判長が淡々と告げる判決「デス・バイ・ハンギング」(絞首刑)を聞く被告たちの表情……もろもろ、現代史の画期を映像と音声で記録した一次資料である。
素材は一級品。1年で完成させる予定だった。
しかし制作にとりかかると「予想をはるかに上回った難物」で、「順風満帆で出航した当時には予想もしなかった波乱」(小笠原)の日々だった。
まず脚本づくりが難航した。
日本の近現代史のみならず世界のそれをも描かなければ、東京裁判を理解することはできない。
フィルムをただつなげるだけでは、作品にならない。
結果として4時間37分に及ぶ作品になるのだが、それだけの長編となれば、確かな幹となるべきストーリーが求められる。
当然、フィルム以外に集めるべき関連資料は膨大になる。
さらにフィルムを含めて必要なものを選び、不必要なものをそぎ落とす歴史眼も必要だ。
小笠原の参加で脚本は完成した。
しかしフィルムの扱いにも悩まされた。オリジナルは雑音が多い。
そこから英語を聞き取って英文に起こし、和訳する。
これを日本語版の裁判速記録全10巻に照合してゆく。
膨大な労力を費やした。
記録フィルムは必ずしも好材料ではなかった。
分量は膨大だ。
しかし一般にイメージされる裁判の全編記録ではない。
小笠原は当初「米軍が湯水のようにフィルムを使って撮った、と思っていました」。
しかし実際は違った。
盛り上がりそうな場面で映像や音声が切れることがしばしばあった。
映画は日本の中国侵略から、おおむね時系列で描かれる。
裁判のフィルムだけではカバーできないのは当然だ。
戦前から戦後のニュース映画などの資料が効果的に織り込まれる。
例えば、ソ連によるシベリア抑留に言及している点だ。
映画製作当時、アカデミズムにおけるシベリア抑留研究は絶望的に立ち遅れていた。
ジャーナリズムも同様である。
本作は抑留経験者で画家の佐藤清に協力を依頼、体験を描いた絵画で抑留の様子を伝えた。
ソ連は国際法違反の抑留を隠すため、写真などの持ち出しを固く禁じた。
このため、体験者が描く絵画が一次資料なのだ。
小笠原の兄が抑留経験者だった縁で、佐藤の協力を得たという。
そうした補助資料をいかにうまく使っても、ストーリーの展開上どうしても裁判のフィルムを使いたいところはある。
たとえば終盤近くのクライマックス、東条英機と米のキーナン主席検事のやり取りだ。
東条は弁護人の問いに対し、日本臣民は天皇の命令に従わないということは考えられない、という趣旨の話をした。
この発言が事実ならば、戦争を始めたこと、戦時中の日本軍による残虐行為も天皇の意志ということになる。
昭和天皇の戦争責任に通じる、重要な証言だった。
天皇免責の方針を固めていたアメリカにとって、きわめて都合の悪い内容だった。
逆に天皇の責任を問おうとしていた、ウエッブ裁判長は法廷にその発言を深く刻印すべく、「(東条の発言が)どのようなことを示唆するのか、分かりますね」と述べた。
キーナンは東条から、天皇の意志と開戦は関係がない、という趣旨の発言を引き出さなければならなくなった。
ある工作をし、法廷で成功する。
映画は二人のこうしたやりとりを克明に描く。
だが、実際にやりとりしているフィルムは見つからなかった。
東条とキーナンが映るフィルムの中から、このシーンにもっとも近い場面の映像を探し出して組み合わせた。
ナレーターの俳優・佐藤慶の語りが、重々しいシーンにいっそうの臨場感をもたらす。こうした編集の妙が随所に光る。
・「消された歴史」を再生
映画は歴史学上の価値も高い。
たとえばアメリカ人弁護士、ブレークニーによる動議である。
法廷が日本の「平和に対する罪」を挙げたことに対して、「国際法は国家が国家利益の追求のために行う戦争を非合法としたことはない」と説く。
法廷の言う「平和に対する罪」が「事後法」であることを鋭く指摘したものだ。
さらにアメリカによる広島への原爆投下に触れ、戦争は犯罪ではなく、したがって日本の指導者の戦争計画と実施を裁くことはできない、と主張した。
日本の戦争指導者が裁かれるならば、アメリカの戦争指導者も裁かれることになる、ともとれる理屈だ。
ブレークニーは原爆の非人道性自体を批判したわけではないが、この時代、無差別爆撃の象徴とも言うべき原爆に触れることは戦勝国といえどもタブーであった。
そのタブーを果敢に破り、被告弁護を展開したのだ。
しかし、この部分は、裁判速記録から削除された。歴史上「なかったこと」になりかねなかった米弁護士の発言をこの映画は再生させ、歴史に刻印した。
・裁判の問題点
東京裁判に対しては批判が多い。
まず敗戦国を戦勝国が裁くという構図自体、裁判が報復の手段と化す可能性を高めた。
少なくともそういう疑義を呈されることになった。
歴史の批判に耐えうるためには、戦争と関係ない国の裁判官を起用すべきだった。
また、被告の選定にも問題がある。
「A級戦犯」とされた被告28人以外にも、法廷に立つべき人間はいた。
さらにブレークニーが指摘した「事後法」、すなわち実行の時点では適法であった行為に対して、後になって刑事責任を問う法令の問題もあった。
筆者も、東京裁判は非常に問題の多い裁判だったと思う。
ただ確認したいのは、東京裁判の不当性をどれほど指摘しても、そしてその指摘が正しかったとしても、裁かれた為政者たちに問われるべき責任がなかったことを証明することにはならない、ということだ。
第二次世界大戦では日本人だけで310万人が死んだ。
生き残った者たちも、心身に大きな傷を負った。
日本社会全体にも、現在に至るまで大きな負の影響を及ぼしている。
戦争はだれかの作為なり不作為によるものだ。
東京裁判ならずとも、責任を問われるべき為政者はたくさんいたのだ。
・デジタルでいっそうの見応え
映画東京裁判は、弁護団や一部判事らの主張などを紹介する形で、上記のような裁判の問題点を明らかにしている。
有名なパール判事が被告の全員無罪を主張したことを詳しく紹介する。
パルは裁判所は日本の行為が始めから侵略戦争であると決めつけたことを批判し、アジアにおける欧米の行為こそを「侵略」と断じた。
「全員無罪」と欧米の「侵略」だけに注目すると、大東亜戦争=正義の戦争史観の人は溜飲が下がるだろう。
しかしパルはこの時、一部で言われるような「日本無罪論」を主張したわけではない。
パルは東京裁判が戦勝国の恣意的な法理を基盤にしているものであり、それによって起訴された被告は論理的に無罪である、としたのだ。
パルは被告たちやその施策が正統であった、としたわけでもない。
映画はパルが「被告たちや日本国の行動を正当化する必要はない」としたことも、しっかりと伝えている。
この映画の、特定の歴史観によることなく、歴史をしっかりと伝えようとする姿勢を象徴する場面である。
さてアメリカはこの裁判のフィルムを商品化する意図はなかっただろう。
それゆえか、小笠原によれば「(制作する米側の)スタッフの技量がばらばら。
マイクの取り方はよく聞こえる声があるが、聞こえない声もある。
画面も真っ白だったり真っ黒だったり」した。
映画化にあたり、こうした調整には膨大な時間と労力がかかった。
しかし今回のデジタルでは、はるかに容易だった。
「歴史映像や音声が鮮やかに回復された。まるで魔法のようでした。臨場感に満ちた完成品として公開されるのは、スタッフ一同の本懐です」。
小笠原はそう話している。
現代史に関心にある人にこそ、新たな魅力を得た傑作をみてほしい。
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私たちがまだまだ知らない「東京裁判」とは何だったのか?
傑作映画の修復版が公開される意味
週刊現代 2019.07.18 栗原俊雄
https://gendai.media/articles/-/65850?imp=0
■極東国際軍事裁判(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4
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極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、旧字体: 極東國際軍事裁判??、英語: The International Military Tribunal for the Far East)とは、1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、ポツダム宣言第10項を法的根拠とし[1]、連合国軍占領下の日本にて連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判のことである。
極東(英語: Far East)とはヨーロッパ・アメリカ及び経度から見て、最も東方を指す地政学あるいは国際政治学上の地理区分。
東京裁判(とうきょうさいばん、英語: Tokyo Trial)とも称される。
ドイツの降伏後にイギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦の4ヵ国が調印した国際軍事裁判所憲章に基づいてドイツでニュルンベルク裁判が実施された。
それを参照して極東国際軍事裁判所条例(英語版)が定められた。
11カ国(インド、オランダ、カナダ、イギリス、アメリカ、オーストラリア、中国、ソ連、フランス、ニュージーランド、フィリピン)が裁判所に裁判官と検察官を提供した。
弁護側は日米弁護士で構成された。極東国際軍事裁判に起訴された被告は合計28名であった[1]。
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極東国際軍事裁判(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4
■ラダ・ビノード・パール(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB
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ラダ・ビノード・パール(英語: Radhabinod Pal, ベンガル語: ????????? ???, ヒンディー語: ????????? ???, 1886年1月27日 – 1967年1月10日)は、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。ベンガル人。
ヒンドゥー法を専攻。極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)で知られる。
東京裁判以前のパールは主に税法専門の弁護士として活動し東京裁判以降、国際連合国際法委員長や仲裁裁判所裁判官として国際法に関与した[1]。
ベンガル語表記では『ラダビノド・パル』、ヒンディー語表記では『ラーダービノード・パール』となるが、パール家の人間は「パル」と呼んで欲しいと希望している[2]。
東京裁判で務めた役職から、日本では「パール判事」と呼ばれることが多い。
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ラダ・ビノード・パール(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB
■公益財団法人「パール下中記念館」
https://www.shimonaka.or.jp/pal-memorial-hall/
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・パール博士とはどんな人物だったのか?
「東京裁判で被告人全員の無罪を説いたインド人裁判官」として知られるラーダービノード・パールは、1886年にベンガル地方のナディア県(現在はバングラデーシュ領)の貧しい家に生まれました。
苦学してカルカッタの大学に進み、30代後半にはインドを代表する法学者となりました。
パールが専門とした古代ヒンドゥー法は、サンスクリット古典籍のなかからインドの伝統的慣習を近代社会に合わせて再編成し、ヒンドゥーの思想や知にもとづいた独自の法体系を構築するものです。
パールの考えによれば、法は「リタ」と呼ばれる宇宙の真理や原理に基礎付けられたものでなくてはなりません。
そのため彼は、時の政治状況や権力者の意思によって法がご都合主義的に操作されることに対し、いつも厳しい批判の目を向けてきました。
東京裁判の判事への就任が決まったのは1946年4月29日、60歳のときでした。
裁判のあいだパールが専念したのは、法廷に提出する意見書の執筆です。
後に「パール判決書」として知られることになるこの文書は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」が事後法であることを強調し、勝者が敗者を一方的に裁く東京裁判のあり方を根底から批判するものでした。
このような事後法が認められれば、将来の戦勝国も自分たちの都合のよいように裁くことができるという誤った認識を国際社会に広めることになり、それは侵略戦争の拡大につながることになると考えたのです。
・パールと下中を結んだガンディーと世界連邦の理想
「パール判決書」は、多くの日本人から歓迎されました。
下中彌三郎もそのひとりです。
下中は戦前戦中の言論活動により戦後6年にわたり政治的な活動を禁じられていましたが、処分が解かれた1951年から世界連邦運動に参画していました。
そして1952年、自ら企画した広島の「世界連邦アジア大会」にパールを招待したのです。
ガンディーの思想を尊重したパールと、大正期にガンディーを理想の人と崇めていた下中はすぐに意気投合しました。
箱根の芦ノ湖畔は、そんな2人が世界情勢や日本とインドの未来についた語り合った場所です。
講演などでパールはたびたびガンディーの思想に触れ、日本がアメリカに追従し、再軍備を進めていることに警鐘を鳴らしました。
パールも下中も、アジアの連帯から新しい世界秩序と平和を模索していくべきと考えていましたが、1950年代の日本はその思いとは逆の方向へ進んでいくことになります。
その後も2度にわたり来日し、日本との関係を大切にしたパールは、真理のために妥協を許さない姿勢を最後まで貫きました。
アメリカの原爆投下や核兵器を前提とするかのような冷戦構造を批判するとともに、日本の植民地経営や個々の戦争行為に対する道徳的な責任についても深い反省を促していました。
このようなパールの思想や主張の全体像とともに「パール判決書」をしっかりと捉えなおすことは、今なお重要な意義をもっているのではないでしょうか。
・パール博士のことば
日本の為政者、外交官および政治家らは、おそらく間ちがっていたのであろう。またおそらくみずから過ちを犯したのであろう。しかしかれらは共同謀議者ではなかった。
──朝日新聞法廷記者団『東京裁判(中)』
私は世界の指導者のなかで、平和にたいして信頼できる唯一者は聖雄ガンヂーであると確信する。
──パール『平和の宣言』
社会的にいかに弱い、貧しい人間でも、法律の前には、病める者、力強きものと平等である。
──パール『平和の宣言』
みなさんは、つぎの事実を隠すことはできない。それはかつてみなさんが、戦争という手段を取つたという事実である。
──パール『平和の宣言』
誰も支持してくれなくとも、自分が真実と思えば、最後までそれを貫くべきです。
──パール博士歓迎事務局編『I Love Japan──パール博士言行録』
法というものは、その適用すべき対象をあれこれと選ぶことが出来ないものです。あれを罰してこれを罰しないということは出来ません。
──パール博士歓迎事務局編『I Love Japan──パール博士言行録』
友人のみなさん、私があなたがた全部にとくにお願いしたいことは、人類の未来に、そしてあなたがた自身の将来に、あなたがたが責任の一部になっているということを忘れないでいただきたいのです。
──パール博士歓迎事務局編『I Love Japan──パール博士言行録』
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公益財団法人「パール下中記念館」
https://www.shimonaka.or.jp/pal-memorial-hall/
■日本を「侵略の罪」で裁いていた連合国が、まったく同じときに東南アジアで侵略戦争を行っていた
東京裁判という茶番
ケント・ギルバート 2016.12.16 KKベストセラーズ
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/3975/
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東京裁判で、日本が侵略の罪で裁かれていたちょうどおなじ時期、フランス軍は、日本軍が植民地から解放したベトナムを、再び植民地にしようと戻ってきて、ベトナム独立軍と戦っていた。
現在のベトナム、ラオス、カンボジアの地域は、戦前は『フランス領インドシナ(仏印)と呼ばれていた。
一方、戦前は『オランダ領インドネシア(蘭印)』だったインドネシアにも、オランダ軍が戻ってきた。
しかし、オランダ軍だけでは兵力が足りなかったので、イギリス軍の援けを借りた。
つまり、イギリスとオランダの連合軍がインドネシアに再侵攻し、インドネシア独立軍との戦争を戦ったのだ。
日本を「侵略の罪」で裁いていた連合国が、そのまったく同じときに、東南アジアで侵略戦争を行っていたのである。
東京裁判については、日本の多くの国民が「あれは、日本が悪事をはたらいたから、当然の報いとして裁かれた」と、思っているが、完全な間違いである。
東京裁判は法治主義の根本を無視した、ペテンの茶番劇だ。
インドのラダ・ビノード・パル(Radhabinod Pal)判事は、日本無罪論を判決書として提出した。
十一人の東京裁判の判事の中で、三人が反対意見を提出した。
その中で「日本は完全に無罪だ」と、説いたのは、インドのパル判事だけだった。
実は、この十一人の判事の中で、国際法の専門家は、パル判事だけだった。
あとは全員が国際法に関して、素人ばかりだった。
オランダのベルナード・レーリンク(Benard Victor Aloysius (Bent) Roling)という、十一人の中でもっとも若い判事がいて、このレーリンクも、日本が一方的に悪かったわけではなかったとの反対意見を出している。
レーリンクは、回想録を残しているが、その中で、泊まっていた帝国ホテルから市ヶ谷の法廷にバスで行くとき、毎日、連合国の壮大な戦争犯罪の現場、つまり、東京が焼け野原となっていたのを、往復のバスの中から見て、「これほど気の重いことはなかった」と、述べている。
そして、日本が先の大戦を戦った一番の理由として、「白人諸国が、日本人をはじめ有色人種に対して、理不尽な人種差別を行ったことであった」と、日本を擁護している。
もうひとりが、フランスのアンリ・ベルナールという判事だった。
非常に滑稽なことだが、東京裁判は、英語と日本語で行われていた。
同時通訳が行われ、英語は日本語に、日本語は英語にするという仕組みになっていたが、ベルナール判事は、ひとことも英語がわからなかった。
日本語は言うまでもない。
さぞかし忍耐強い人だったのだろう、何が語られているか、まったくわからないまま判事席の壇上にいた。
ベルナールも回想録を書いているが、自分は毎日、法廷が開かれている間は、何を言っているのかまったくわからず、二日後に、フランス語への翻訳を、フランスの代表部が作ってくれたものを読んで、ようやく何が行われているのかを理解していたという。
占領下では、マッカーサー司令部が、厳しい言論統制を行っていたから、パル判決書も発表されなかった。
ベルナール判事、レーリンク判事の判決書も、公表されることはなかった。
朝日新聞は、東京裁判が開廷した二年半後、東條大将ら七人が犠牲となって絞首刑に処せられた時に、社説で「この裁判は、きわめて公平に行われ、東條大将以下の処刑も、そこには報復の意図がいささかもない厳粛なものであった」と書いている。
まったく酷い報道だ。
保身のための事大主義である。
同じ日本人が、よくはずかしげもなく書けたものだと思う。
しかし、当時は朝日だけでなく、毎日も読売も、よくぞここまで卑屈になれると思うような記事で埋まっていた。
そうしなければ、GHQから業務停止命令を受けるからだ。
「戦争犯罪人」は、A級、B級、C級に分けられていた。
B級、C級でも千人以上が処刑されている。
これは捕虜を虐待したとか、捕虜を処刑したとか、いろいろあるが、このBC級裁判も、公正なものではまったくなかった。
戦後、米国は日本を占領している間に、日本のマスメディアや、教育を通じて、徹底的な情報操作による洗脳、マインドコントロールを行った。
だから、この辺りの事情を何も知らない、日本人が圧倒的多数なのだ。
日米間の戦争は三年半あまりしか続いていないのに、日本に対する占領は、その二倍の時間をかけている。
そして、その悪影響は、戦後七十年以上が経過した現在も続いている。
日本のメディアも教育も、占領中から何も変わっていない。
まったく異常なことだ。
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日本を「侵略の罪」で裁いていた連合国が、まったく同じときに東南アジアで侵略戦争を行っていた
東京裁判という茶番
ケント・ギルバート 2016.12.16 KKベストセラーズ
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■教科書に載らない歴史上の人物 20 ラダ・ビノード・パール
羅針塾|長崎市の就学前教育(プレスクール)・学習塾 2016年12月1日
https://rashinjyuku.com/post-517/
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ラダ・ビノード・パール・・・この名前でピンと来る人は、近・現代史に造詣が深い方です。
親日国であるインドの法律家です。
さて、元気のでる歴史人物講座 日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事からの引用(産經新聞平成21.8.26 )です。
・パール 日本を尊敬、祖国に自信
東京裁判は戦勝国が戦敗国、日本を断罪する不正不当の復讐(ふくしゅう)裁判であった。
この裁判で唯一人、日本の無罪を主張したのがインドのパール判事である。
パールはこの裁判を「儀式化された復讐」と述べている。
パールが19歳のとき日露戦争が起きた。
日本が勝利したとき、インド中に感激が湧き上がった。
パールは言う。
「同じ有色人種である日本が北方の強大なる白人帝国主義ロシアと戦ってついに勝利を得たという報道は我々の心を揺さぶった。私たちは白人の目の前をわざと胸を張って歩いた。先生や同僚とともに毎日のように旗行列や提灯(ちょうちん)行列に参加したことを記憶している。私は日本に対する憧れと祖国に対する自信を同時に獲得し、わななくような思いで胸一杯であった。私はインドの独立について思いを致すようになった」
日露戦争は世界史の一大分水嶺(ぶんすいれい)であった。
日本の勝利が有色民族、被抑圧民族に民族独立への夢を決定的に与えた。
彼らは希望と勇気の源泉として日本に深い尊敬と親愛の念を抱き続けた。
大東亜戦争は欧米の数世紀にわたる人種偏見に基づく植民地支配を打ち破り、有色民族の解放と独立を導く最大の契機となった。
インドもそれで独立できた。
「私はこの日本を愛している。この日本に骨を埋めたい」とまで言ったのがパールであった。
・ラダ・ビノード・パールとは
インドの法学者、裁判官。ベンガル人。国際的な権威を持つ法学者。
大東亜戦争(所謂、太平洋戦争)終戦後、戦勝国米国が主導する極東国際軍事裁判(所謂「東京裁判」)において判事を務め、被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」(*)の作成者として知られている。
パール判事は、ヒンドゥー法を専攻し、コルカタ大学の教授であった。
パール判事は、極東国際軍事裁判終了後、国際連合の国際法委員会委員長として就任。
所謂A級戦犯が全員無罪であるとの格調高い意見とその解説がされています。
一般に「パール判決書」と呼ばれていますが、正確には「判決書」ではありません。
東京裁判では「judgement」には、裁判所が出す「判決」と、その裁判に関わった判事が判決について述べる「意見書」の2種類がありました。
ラダ・ビノード・パール判事が書いたのは、まさに東京裁判所が下した判決に対する「Dissentient *Judgement」つまり「反対意見書」です。
その中で彼は、東京裁判は勝者が敗者を一方的に裁いた国際法に違反する復讐である、としてその違法性と起訴の非合理性を主張しました。
そして、
「裁判所条例といえども国際法を越えることは許されない」
「戦争は法の圏外にある」
「日本が戦争を起こしたのは、侵略のためではなく、西洋諸国によって挑発されたためである」
「日本は国際法に違反する行為はしていない。国際法上、犯罪行為に当たることをしていない日本は自衛のために武力を行使したのであり、侵攻戦争とても、いまだ国際法上の犯罪とはされていない。東条被告以下、いわゆる『A級戦犯』に指名された者は、無罪として放免すべきである」
「この裁判は、国際法に違反しているのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及*(事後法の禁止)まで犯し、罪刑法定主義を踏みにじった復警裁判にすぎない」などとして、被告人の全員無罪を主張しました。
しかし、この意見は少数意見として祭り去られました。
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教科書に載らない歴史上の人物 20 ラダ・ビノード・パール
羅針塾|長崎市の就学前教育(プレスクール)・学習塾 2016年12月1日
https://rashinjyuku.com/post-517/
■パール判事の日本無罪論と、パール博士の人となりについて
てつログ(会計士がつづる日々の考察)
https://tetsu-log.com/011_pal.html
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1.パール判事とは
パール判事(ラダ・ビノード・パール)は、第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判で判事を務めた人である。
11人いた判事の中で、唯一国際法に精通していた専門家で、被告全員の無罪を主張した唯一の人である。
インドの国際法学者でベンガル人である。
1886年に生まれ、1967年に82歳で亡くなっている。
現在でこそ、「極東国際軍事裁判(以下、東京裁判)」は、まともな国際法学者ででそれを認める人は皆無と言われる。
全く法的根拠がなく、完全に日本に対する復讐あるいは封じ込めを「裁判」という名の下で行っただけである。
しかし、それが占領軍のもと儀式として堂々と行われた。
パール博士はそれに対し、当時から敢然と東京裁判の矛盾を主張し、被告全員の無罪を主張した。
決して日本擁護の視点からではなく、国際法の専門家として法がゆがめられて使われていることに対する主張であった。
当時もパール博士は、インド出身のため白人に対して反感があるからだ、と言われたそうだが、本人はそれを否定している。
非常に熱心な国際法学者で、東京裁判が如何にむちゃくちゃな主張により「戦争犯罪人」を作り出し、勝手に処罰しているかについて、国際法を駆使して反論した。
結果、英文で1,200ページにも及ぶ「パール判決書」という形でまとめられたが、占領軍は当然それを発表せず、多数派のみの判決が、あたかも全員一致かのように発表されている。
その後「パール判決書」はしばらく日の目を見ないが、GHQの占領が解けた4年の月日を経て日本語で出版されている。
また、その頃になるとパール博士の主張が国際法学会でも取り上げられるようになり、ついにイギリスでも、「パール氏の主張が絶対的に正しい」と言われるようになっていた。
2.パール判事の主張
私が、パール博士とその主張を知ったのは、有名な「パール判事の日本無罪論」(田中正明:小学館文庫)を読んでからである。
この本を読むきっかけは忘れたが、この本に出会えたことは本当によかった。
この本は比較的に読みやすく、500円程度の本なので、是非お勧めである。
この本を読んで、そしてパール博士の主張を見て、日本の自虐史観という物の現実を見せられた気がする。
また、それに対して「法の適正な運用」という使命感の下で、パール博士が主張した内容、またその後の活動に本当に感動した。
決して思想として日本に対する同情ではなく、自分が学んだ国際法が正しく使われることを追求し、それをゆがめられたことから、東京裁判を非常に論理的に批判している。
まさにプロとしての誇りと、高い自覚を見せつけられた気がした。
一人の個人としても、本当に尊敬に値する人物であると感じるとともに、その誠実な人柄と行動に涙が出るほど感動した。
パール博士は、東京裁判当初からそれに対する疑問を呈していた。
「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」と主張している。
それを国際法の観点から、論理的にまとめたのが先に示した「パール判決書」である。
パール博士は南京事件についても、「この物語のすべてを受け入れる事は困難である」と言って、その正当性に疑問を投げていた。
また、アメリカが突き付けた「ハルノート」に対し、「ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう」というほど、日本が戦争に引き込まれた現実を、よく理解していた。
3.パール博士の日本への思いとエピソード
またパール博士は、東京裁判後の日本に対し、このような不当な「裁判」に屈せず、強く発展してほしいと願っていた。
その後何度か日本に呼ばれて訪れているが、その都度、日本に対して日本人自身が罪の意識を深く持っていることに対して、義憤を感じている。
広島の原爆慰霊碑を訪れた時の、氏の発言がそれを深く物語っている。
パール博士は、その碑に刻まれた文字に目を止められ通訳に何がかいてあるかと聴かれた。
『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』と聞いて、みるみる表情が曇ったといわれる。
以下、産経新聞がまとめた記事の引用だが、是非見てほしい。
「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である。」
この後、博士は「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった。」と嘆き、そして「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ。」と漏らしたという。
パール博士が、1952年にBC級戦犯の家族と会った時のエピソードもある。
戦後まもなく、戦犯の家族として悲痛な面々に対し、パール博士は、「戦犯といわれるが、決して犯罪者ではありません。全員無罪です。何も罪を犯したのではないのです。恥ずべきことはひとつもありません。世界の人たちも、戦争裁判が間違っていたことを少しづづ分かり始めたようです。しかし、わたくしは、今さらながら自分の無力を悲しみます。ただご同情申しあげるだけで、わたくしには何もできません。・・・けれど戦犯釈放にはできるだけ努めます。これ以上、罪のない愛する者同士を引き離しておくわけにはいきません。・・・わたくしは倒れそうです。・・・許してください。」と言って、博士は、言葉も途切れがちに、ようやくこれだけ述べて合掌するのみであったそうである。
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パール判事の日本無罪論と、パール博士の人となりについて
てつログ(会計士がつづる日々の考察)
https://tetsu-log.com/011_pal.html
■『新版 パール判事の日本無罪論 』
(著/田中正明 小学館新書 2017.07.12)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09825305
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〈 書籍の内容 〉
・敗者ゆえに裁かれた終戦の原点を振り返る
毎年8月15日の終戦記念日を迎える度に、閣僚による靖国神社参拝が取り沙汰される。
問題は靖国にA級戦犯が合祀されていることだ。
では、A級戦犯とは何か。
彼らはどんな罪を犯したのか。
第二次世界大戦終結後、このA級戦犯を裁くために開かれたのが極東国際軍事裁判(東京裁判)である。
この時、11人の判事の中で唯一人、「被告人全員無罪」を主張したのが、インド代表判事のパール博士だった。
博士は東京裁判を「勝者が、敗者だけを裁く急ごしらえの法律をつくり、これを過去に遡って適用した違法裁判である」と断じたのである。
パール判決はその後、世界中で評価され、マッカーサーも「あの裁判は間違いだった」と認めている。
ただ日本人だけが、今も自虐史観の中にいる。
あれだけの被害と不幸をもたらした戦争が正しかったわけはない。
しかし、何もかもが間違っていたという破れかぶれな反省からは、未来への正しい選択は導き出せない。
終戦からすでに70余年。
日本人はあの戦争をどうとらえ、国際社会でどう生きていくべきなのか。
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『パール判事の日本無罪論』(著者:田中正明 小学館 2001年11月)
https://a.r10.to/hU2WMj
■『東京裁判で隠された真実とは?』
裁判官としての矜持を貫き圧力に屈せずに日本の冤罪を晴らしたパール判事
著者:都築陽太郎
出版社:飛鳥新社
発売日:2021年01月29日
https://a.r10.to/huVW8G
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ーーパール判決書は日本「無罪」論である。
独立主権国家のリーダーたちの個人責任を訴追するのは、当時の国際法に鑑みてそもそも裁判管轄権の外にある。
被告人25名は「国家行為」を行ったのにすぎず、彼らを有罪とすべき事項は何もないことを、パール判事は証明したのである。
・内容紹介(「BOOK」データベースより)
パール判決書は日本「無罪」論である。
独立主権国家のリーダーたちの個人責任を訴追するのは、当時の国際法に鑑みて、そもそも裁判管轄権の外にある。
被告人25名は「国家行為」を行ったのにすぎず、彼らを有罪とすべき事項は何もないことを、パール判事は証明したのである。
・目次(「BOOK」データベースより)
第1編 パール判決書(狭義)(厳密なる意味における戦争犯罪(序論:「殺人」(判決書p.548~p.559)/厳密なる意味における戦争犯罪:日本に占拠された地域の民間人に関連して(判決書p.559~p.591)/厳密なる意味における戦争犯罪:戦争俘虜に関連して(判決書p.591~p.638)))/(勧告)/第2編 パール意見書(予備的法律問題/侵略戦争とは何か/証拠ならびに手続きに関する規則/本裁判所の管轄権の範囲/ダグラス同意意見書)
・著者情報(「BOOK」データベースより)
都築陽太郎(ツズキヨウタロウ)
1960年名古屋市生まれ。幼時にインド・豪州・米テキサス州に住む。1983年に名古屋大学経済学部卒業。銀行に就職後、1988年にシカゴ大学で経営学修士号を取得。1989年に米国ケンタッキー州知事より名誉称号「大佐(Colonel)」を授与される。社団法人日本証券アナリスト協会検定会員。2児の父(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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『東京裁判で隠された真実とは?』
https://a.r10.to/huVW8G
■『パール判事―東京裁判批判と絶対平和主義』
著者:中島岳志
出版社:白水社
発売日:2012年10月
https://a.r10.to/hNrbAh
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・内容紹介
東京裁判で被告人全員の無罪を説いたインド人パール。
アジアの自主と平和への訴求、法と真理に捧げられた妥協なき生涯。
・内容紹介(「BOOK」データベースより)
パールが自らの判決書で訴えたかった真のメッセージとは、何だったのだろうか?
東京裁判を批判した意図はどこにあったのだろうか?
生い立ちと法学者としての活動、裁判中の動向を追いながら、判決書を詳細に読解する。
世界連邦の理想、原爆投下の糾弾、日本軍による残虐行為の断罪、再軍備批判、平和憲法護持といった主張を検証し、パールの実像と思想の核心に迫る。
・目次(「BOOK」データベースより)
第1章 前半生ー法学者として/第2章 東京裁判/第3章 パール判決書/第4章 パール判事へのまなざし/第5章 再来日/第6章 晩年
・著者情報(「BOOK」データベースより)
中島岳志(ナカジマタケシ)
1975年、大阪生まれ。大阪外国語大学(ヒンディー語専攻)卒業。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。学術博士(地域研究)。博士論文で第3回アジア太平洋研究賞受賞。現在、北海道大学大学院法学研究科准教授。専門は南アジア地域研究、近代政治思想史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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『パール判事―東京裁判批判と絶対平和主義』
https://a.r10.to/hNrbAh
■『パール博士「平和の宣言」』
著者名:ラダビノード・パール【著】/田中正明【編著】
出版社:小学館
発売日:2014年02月07日
https://a.r10.to/h5Tb8N
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・内容紹介
東京裁判パール判事は戦後日本をどう見たか。
東京裁判でただ一人、被告全員無罪の判決を下したインドのパール判事。
彼は米軍の占領が解かれた直後の1952年に再来日し、広島をはじめ各地で講演と慰霊を行い、敗戦で傷ついた日本人を勇気づけ、大反響を巻き起こした。
この時の講演録と博士の論文、そして田中正明氏の同行記をまとめた『平和の宣言』が昭和28年4月に刊行され大好評を博した。
いまパール博士の思想解釈を巡って論争が起こっているが、博士の思想・信条を知る上で貴重なこの本を復刊する。
巣鴨プリズンの戦犯を慰問し、講演先で会った遺児を抱きしめ、祈りを捧げる博士の姿は感動的である。
平和主義者であったパール博士は東京裁判、そして戦後日本をどう見たか。
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『パール博士「平和の宣言」』
https://a.r10.to/h5Tb8N
■『東京裁判 全訳 パール判決書』
著者:ラダビノード・パール
訳者:都築陽太郎
出版社:幻冬舎メディアコンサルティング
発売日:2017年02月03日
https://a.r10.to/hudlBB
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・内容紹介
1945年9月2日、日本降伏。
1948年11月12日、東京裁判結審。
全てをみてきたインド代表判事の綴る、マッカーサーも恐れた“真実の意見書”。
「博識な同僚判事たちによる判決および判定に同意できないことを、本官は心から遺憾に思う。本件裁判の持つ重要性、ならびに、本件裁判に関連している法と事実関係への疑問に鑑み、本裁判所の判定に対して生じたさまざまな疑問に対する本官の見解を示すことは本官の義務であると考える次第である。」ーーーーラダビノード・パール
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『東京裁判 全訳 パール判決書』
https://a.r10.to/hudlBB
■『パル判決書』の真実 いまこそ東京裁判史観を断つ
著者:渡部昇一
出版社:PHP研究所
発売日:2014年07月17日
https://a.r10.to/h5VDTX
■悪いのは侵略した白人、東亜民族解放した日本は誇りを…オランダの市長挨拶から再び戦後体制の是非を問う
産経新聞 2016/2/23
https://www.sankei.com/article/20160223-YSTPBG77IZPFXPLWX2B3U77NRQ/
■『アメリカ人だから言えた 戦後日本教育の不都合な真実』 日本人が国益損なう行動に走る理由
産経新聞 2018/6/30
https://www.sankei.com/article/20180630-LLVQTZG26RKTXC6X6APMTW55GY/
■ヘンリー・ストークス 日本は白人支配からアジアを解放した
産経新聞 2015/6/29
https://www.sankei.com/article/20150629-XMGMQYURGNOKLE2TKGYKZSNG44/
■「大東亜戦争」と呼ぼう 岡部伸
産経新聞 2021/12/7
https://www.sankei.com/article/20211207-FCLVPQ34RJJO3KQUGWWXZF7YQA/
■『日本人はなぜ自虐的になったのか―占領とWGIP―』(有馬哲夫/著)
全てアメリカの狙い通りに――。
WGIPと心理戦の全貌を第1次資料をもとに明かす
新潮社 発売日:2020/07/17
https://www.shinchosha.co.jp/book/610867/
■日本人の7人に1人が「原爆投下は仕方ない」と答えてしまう根本原因
公文書が示すGHQが仕掛けた心理戦
PRESIDENT Online 2020/08/08
https://president.jp/articles/-/37792
■これが戦後の元凶だ! 米占領軍の日本洗脳工作「WGIP」文書、ついに発掘
「日本政府や日本の報道機関を通じて実施した間接統治」
産経新聞 2015/4/8 関野通夫
https://www.sankei.com/article/20150408-OQGDAN6SHJIRNC2XQQPP5QRUXQ/
■安倍元首相祖父・岸信介はこうして「極刑」を免れた~明かされるGHQ尋問の真相
「岸信介は同じA級戦犯容疑者ながら、翌年3月初旬まで一度も尋問を受けていない。GHQにとって、岸より木戸のほうがはるかに重要な人物だった」
週刊現代(講談社)2016.09.25
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49732
■「アメリカによる支配」はなぜつづくのか?
原因は、安倍元首相祖父の岸信介がアメリカと結んだ3つの密約にあった!
PR TIMES 2018年12月26日 株式会社旭屋書店 矢部宏治
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000105.000013301.html
■「昭和の妖怪」岸信介の知られざる素顔?安倍首相の祖父が目指していた国家とは?
週刊現代 2016.07.10 魚住昭
https://gendai.media/articles/-/49125
■映画『妖怪の孫』――安倍晋三がもたらしたのは美しい国か、妖怪が棲む国か? 監督・内山雄人
長周新聞 2023年3月6日
https://www.chosyu-journal.jp/review/25992
■昭和の妖怪・岸信介は「アヘン密売」で絶大な権力を得た!? 今さら聞けない「満州国の裏面史」
週刊現代 2016.07.31
https://gendai.media/articles/-/49263
■統一教会と昭和裏面史 岸信介&笹川良一と国際反共コネクション
FRIDAY 2022年09月09日
https://friday.kodansha.co.jp/article/263211
■岸信介とCIAの密接な関係 自民党にも金の流れ?
週刊朝日 2013/05/17 AERA
https://dot.asahi.com/wa/2013051700001.html?page=1
■岸信介元首相はCIAのエージェントだった
『週刊文春』2007年10月4日号
https://arkpilot.livedoor.blog/archives/299451.html
■CIAに支配され続けた日本政治の基本構造
「摘発される人・されない人」
「対米隷属路線を日本政治に定着させたのが岸信介元首相」
「財務省、警察庁、検察庁である悪徳ペンタゴンの中心に米国と自民党清和政策研究会が位置」
植草一秀(2010年1月21日)
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/cia-a85b.html
■安倍晋三首相が愛してやまない祖父、岸信介がA級戦犯を逃れるため米国と交わした裏取引きが!
「岸がアメリカから言われた最大のミッション」「アメリカの資金でつくられた首相」
exciteニュース 2015年8月17日 野尻民夫
https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_1400/
■日本人が知っとくべき「パール判事の言葉」
YouTube
■パール判事は何を問いかけたのか~東京裁判知られざる攻防~
YouTube 2014/02/24
■東南アジアの植民地化【列強によるアジア侵略③】ゼロから世界史67講
ユーテラ授業チャンネル【YouTubeの寺子屋】
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